三日月の騎士と花の姫(10)
カリーナ姫の野望

 果てまでも青く澄み渡った夏の空。
 容赦なく陽光が降り注ぐ中にも、時折吹く風が絶妙に肌のほてりをさらっていく。
 海からやってくる潮風も、城下の中ほどまでで大気に溶け込み消えて、王宮までやって来ることはない。
 王宮に吹く風は、森や草原で生まれた清風。
 その王宮の中でも一際異彩を放つそこ、筋肉が踊り暴れ乱れるその場に、似つかわしくない可憐な乙女の姿がひとつある。
 金属と金属がぶつかり合う音、野太い怒号、歓声など騒々しいそこから少しはなれた木陰にどかり座り込み、額ににじむ汗をぬぐう男が一人。
 その男の前に、見下ろすように乙女が居心地悪そうに立っている。
「あ、あの、ラルフ……様?」
 おずおずとかけられたその言葉に、どかり座り込む男はふと顔をあげた。
 自らに陰を落とす存在にもちろん気づいていたけれど、気のせいだろう、まさか自分に用があるはずもないと気づかぬふりをしていただけに、少し驚いたような色が見える。
「あなたは……あの時の」
 見上げた乙女に見覚えがあったのだろう、男――ラルフは戸惑いがちにつぶやく。
 すると、乙女は目に見えて嬉しそうに顔をほころばせた。
 数日前のことではあるけれど、あのような状況も加わり、ラルフの記憶に自身が残っている自信はなかったのだろう。それが、ラルフは覚えている。
 乙女はそこに喜びを覚えているように見える。
「は、はい。あの、こちら、ありがとうございました」
 のっそり立ち上がるラルフへ、乙女は両手で握り締めるように持っていた布切れ――襟巻きを差し出す。
「これは?」
 それを目にして、ラルフは訝しげに首をかしげた。
 どうやら、ラルフにはその布切れに覚えがないらしい。
 乙女――レイラは戸惑いを覚えながらも、このまま引き下がるわけにもいかず、布切れの説明をはじめる。
「姫様よりお借りしたものです。わたくし、あの時少し怪我をしてしまっておりまして、それで……」
 しかし、ラルフの反応はいまいちよくない。
 何かを思い出そうと目を空へ泳がせてはいるが、なかなか思い出せないように見える。
 さすがにレイラも動揺しはじめる。
 まさか、記憶に残る以前に、視界にすら入っていなかった、どうでもいい取るに足りない存在だったのではないかと、悪い方へ考えがどんどん移っていく。
 たしかに、あの時は、レイラ以外の人たち――とりわけ王女の存在が強烈すぎた。
 しかし、レイラはその王女にしっかり守られてともにいた。
 いくら存在感がなかったとはいえ、王女とともにいたのだから、視界の中にはあっただろう。そう信じたい。
「あ、だ、大丈夫です。血はすべて綺麗に落としました。その、それで……」
「ああ、わざわざありがとうございます」
 慌てて言い募るレイラにラルフもようやく記憶の糸がつながったのだろう、ふむとうなずいて、にっこり笑う。
 レイラが差し出す襟巻きをその手から受け取る。
 ようやく目的を達成できたとばかりに、レイラはほわり微笑む。
 けれどその目はどこか焦点が合っていないように、ぼんやりラルフの姿を映しているようにも見える。
 どこかぽやぽやしたレイラの様子に、ラルフは思わずといったように、くくっと笑いをもらした。
 その声に弾かれるようにはっとして、レイラは不思議そうにラルフを見る。
 どうしてラルフが笑っているのか、まったくわからないよう。
「ああ、これは失礼。いかにもお姫さんらしくて、つい」
 首をかしげるレイラに、ラルフはその笑いの理由を伝える。
 すると、レイラはますます首をかしげた。
「姫様らしくて、つい……ですか?」
 今度は、そこを不思議に思ったらしい。
 どうして、お姫さん――カリーナらしかったら、ついになるのだろうかと。
 ラルフはそれすら見越していたようにうなずくと、さらりと答える。
「ええ、たとえ相手がけが人でも、護衛官のものを他の女性に触れさせたくなかったのですよ、あのお姫さんは。護衛官を自分のものだけにしておきたい方だから。それでわたしのものを奪い取ったのです。あなたにはとんだ災難でしたね、こんな男のもの――」
「いいえ、そのようなことはありません。とても助かりました」
 はじめは静かに聞いていたラルフの説明が途中から自らを卑下するものへと変わったことをすかさず悟り、レイラはまるで条件反射のように勢いよく断言した。
 予想外の言葉と迫力に、ラルフは気おされたように少し上体をのけぞらせる。
 こつんと、後頭部が背にあった木の幹にぶつかる。
「そ、そうですか。それならばいいのですが」
「そうなのです」
 力強く、あまつさえまるでラルフを非難するかのようなレイラの言いに、ラルフは思わず吹き出した。
 あははと声を上げ楽しげに笑う。
「おもしろい方ですね」
 ラルフの言葉の意味がわからないと、レイラはまたこてんと首をかしげた。
 その様子がさらにラルフの興をそそるとは、まったく気づいていない。
 不満げに突き出す唇が愛らしい。
 レイラは眉根を寄せ難しそうに考えたかと思うと、次にはいいことをひらめいたとばかりにぱっと顔をはなやがせた。
 そして、笑い続けるラルフへずいっと上体を突き出す。
「あの、護衛官をということは、もしや姫様は……?」
 レイラが期待に満ちた眼差しをラルフへ向ける。
 ラルフはぴたりと笑いをやめうなずくと、意地悪げににっと笑った。
 それを受け、レイラは納得したように微笑みを浮かべる。
「素敵ですね」
 ラルフのその表情だけで、しっかり意図を汲み取ったらしい。
 レイラのその言葉が、それを如実に表している。
 ラルフも満足そうに目を細めている。
 そう、あの王女は、その護衛官を……。そして、護衛官もまた――。
 ラルフは言葉には出さず顔だけでそう伝え、レイラもまた正しく理解した。
 短い間だったけれど、レイラが見た二人の様子は、たしかにそうだった。
 まるで物語のような現実に、レイラは嬉しくなる。
 どうかこのまま幸せな未来がやってきますようにと祈る。
 そう、短い時間のかかわりだったけれど、レイラはたしかにあの王女を気に入ってしまったから。
 大好きになった王女が幸せになれば、これほど喜ばしいことはない。
 待ち受けるものが茨の道以外にはないとわかりつつも、いや、わかっているからこそ、王女の幸せを願わずにはいられない。
 それが叶えられることがあれば、世の中の恋する乙女すべての勇気となるだろう。熱狂の渦に巻き込むだろう。
 なんて素敵な王女の恋物語なのか。
 うっとり悦に入るレイラに、苦笑気味にラルフが声をかける。
「ところで、よくここがわかりましたね」
 はっとして意識を夢物語の世界から引き戻してきたレイラは、さっとラルフに焦点をあわせる。
 見ると、先ほどの襟巻きを雑に隠しに押し込んでいる。
「はじめは姫様をお訪ねしたのですが、外出されているようで……。そこで、侍女の方にこちらをうかがってまいりました」
 レイラの手に巻かれた襟巻きの持ち主が誰かはわかっているので、はじめからラルフを訪ねてもよかったけれど、それだとなんだかはしたいないような気がして、友人になったばかりのカリーナを訪ねたらしい。
 けれど、生憎というかおあつらえむきというか、カリーナは不在だった。
 そこで、それを口実に、ラルフの居場所を聞いたのだろう。
 そう、カリーナがいなければ、直接ラルフを訪ねればいいだけのこと。
 カリーナがいない。それは、直接訪ねる理由に十分なるだろう。
 数日前に城下で助けられただけでなく、レイラはそれ以前にも王宮でラルフに助けられたのだから。
 あの時は互いに名乗ることはしなかったけれど。
 でも、レイラは数日前の時、その姿を見た瞬間、すぐに王宮で迷子になった時に助けられた男性だと気づいた。
 だって、あの時は、迷子になって不安だったはずなのに、男性に案内されている間中ずっと楽しかったことを覚えているのだから。
 そう、たとえ頬に三日月の傷があって一見恐ろしくとも、レイラはその瞳に宿る優しさを知っている。だから怖くなどない。
「はー、やれやれ。あのおてんば姫は、また……」
 がっくりと肩を落とし、ラルフは呆れがちに微笑を浮かべる。
 そのいかにも親しげな様子に、レイラはどこか淋しそうに眉尻を下げる。
「ラルフさまは、姫様と仲がよろしいのですね」
「まあ、わたしたちは悪い友達ですからねえ、お姫さんに言わせると。お姫さんのいたずらによく手を貸すもので」
 ためらいなく、ラルフは当たり前のようにさらりとうなずく。
 互いに名乗りもしていないのに、レイラが名を知っていることを、ラルフはまったく気にしていないらしい。
 まあ、あれだけ有名な男性なのだから、他人に名を知られていることなど、ラルフの中では当たり前になっているのかもしれないけれど。
 それほど有名な男性のはずなのに、レイラは数日前までその名を知らなかった。
 いや、知っていたけれど、王宮で出会った男性と一致していなかった。
 そして、ぴたりと一致した瞬間、妙に心が満たされたようだった。
 ラルフとカリーナが親しいことにも驚いたけれど、さらにラルフのその言葉にレイラは目を見開く。
 まさか、レイラが言った意味とはまったく逆の方向へ仲がよかったとは。
 悪い友達とは、二人にはなんだか不思議と似合いすぎている。
「何といいますか、お姫さんのいたずら限定の私兵のようなものですよ」
 どこかげんなりとした様子を装いつつも、決して嫌ではない楽しんですらいるラルフの有様に、レイラは思わず顔をほころばせる。
「ふふ、楽しそうですね。うらやましいですわ」
「そうですか? まわりはいい迷惑のようですけれどね」
 くくっと喉の奥を鳴らせ、ラルフは悪い笑顔を浮かべてみせる。
 やはり、まんざらでもないらしい。
 まんざらどころか、思い切り肯定している。
 たしかに、まわりはいい迷惑かもしれないけれど、実際とても楽しいのだろう。
 レイラもまた、ラルフにつられるようにくすくす笑う。
 その様子を、ラルフは微笑ましそうに見つめる。
「ところで、わたしの方が身分が下ですよ。どうぞ呼び捨てで」
 突然変わったその話題に、レイラはぴたりと笑いをやめ、戸惑ったようにラルフを見る。
 その申し出は、レイラにとってはあまり歓迎できないようにも見える。
「で、でも……」
「では、他の敬称で」
 ためらうレイラに、ラルフはあっさりと、あまりそうとは思えない妥協案を示す。
 すると、とたんにレイラはぱっと顔をはなやがせた。
 そして、嬉しそうにうなずく。
「はい。では、ラルフさん」
「はい、レイラ嬢。――なんかむずがゆいなあ」
「まあ!」
 どこか照れたような様子のラルフに、レイラはおかしそうに笑う。
 何より、名乗りもしていないのに、ラルフはレイラの名を知っていた。そのことが、レイラは嬉しくてたまらない。
 どうして、ラルフはレイラの名を知っているのか、そこのことはあえて考えない。
 変わらず、少し離れた鍛錬場では、男たちが互いの剣をぶつけ合っている。
 その鍛え上げられた筋肉から飛び散る汗が、陽光にきらり光る。


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update:13/10/20