湖岸の口づけ
change〜とりかえっこ王子〜

 やわらかな陽光があたるその湖岸で、ぜいぜいと荒い息をするキオスが仰向けになっている。
 その横では、湖面が虹色の光を静かに発している。
 いつもは美しいと思い、心おだやかにしてくれるその湖だけれど、今はとっても憎らしく見える。
 まるで、嘲笑われているよう。
 全身びしょぬれになり、重くなった衣服を、はりついた肌からはがしながら、キオスはのっそりと上体を起こす。
 しかし、息はまだ荒いまま。
 たしかに、湖の真ん中からここまで泳いできたのだから、息が上がらないはずがない。
 しかも、着ている服といえば、無駄にぴらぴらな王子様衣装だから、水を含むと重さは何倍にもなる。
 その横では、キオス同様びしょぬれになったクレイが座り込んでいる。
 クレイは、キオスと違い無駄に飾り立てていないためか、幾分呼吸が整っている。
 この場合、たんに飾り立てていないだけではなく、普段からの鍛え方の差も多分に関係があるかもしれないけれど。
 そして、そんなクレイの腕の中には、ぐったりとしたフィーナが抱えられている。
 胸が上下に動いているので、生きてはいることはわかる。
 しかし、意識はない。
「ごめん、クレイ。お、俺……」
「……やめろ」
 キオスがおずおずとクレイに話しかけると、即座にそう切り捨てられた。
 キオスに一瞥すらくれず、クレイは先ほどからずっと、フィーナだけを見つめている。
 苦しそうに。悔しそうに。
 それはまるで、自らを責めているようにすら見える。
 そのようなクレイの様子に、キオスはしおしおしおーと萎縮していく。
 何しろ、もとはといえば、キオスがすべて悪いのだから。
 キオスさえボートに乗ろうなんて言わなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。
 まさか、あそこでボートが沈み、フィーナをこんな目にあわせてしまうなんて、キオスは思っていなかった。
 横では、ファセランもまた、とげとげしい視線をキオスに向けている。
 それも、仕方がない。
 今回ばかりは、ちゃらんぽらんキオスだって、反省しきり。
「ク、クレイ……」
「黙れ、キオス」
 キオスがもう一度、謝ろうとクレイに声をかけると、今度は冷たくそう言い放たれてしまった。
 妙に低くどすのきいたその声色で。
 瞬間、キオスはぎくんと肩を震わせ、のけぞった。
 いつも何だかんだと言いつつ優しい兄が、とても恐ろしく感じる。
 一人の女性を危険にさらしたことで、実の兄に殺されるかもしれないという恐怖を植えつけられる。
 いつの間に、クレイはこんなにフィーナのことを?
 キオスが仕組んだ替え玉王子は、一緒にクレイを変えてしまった?
 ――いや、もとから、クレイという男は誰よりも熱い男だった。
 そして、誰よりも情があつかった。
 キオスは言葉を失い、ただじっと、クレイとその腕の中のフィーナを見つめる。
 すると、おもむろに、フィーナが小さく声をもらした。
「……ん、んん……」
 ゆっくりとその大きく澄んだ瞳が開かれる。
 そして、目覚めて最初にクレイの姿を確認し、安心したように顔をほころばせた。
 それを見て、今の今まで色を失い恐ろしかったクレイの表情が、ふわりとやわらいだ。
 ほっと胸を撫で下ろし、今にも泣き出してしまいそうな微笑を浮かべる。
 クレイは優しい眼差しで、気づいたばかりのフィーナを見つめる。
「クレイ……さま? わたくし……?」
 きょとんと不思議そうに見つめるフィーナに、クレイはとっておきの微笑みを降り注ぐ。
「ああ、もう大丈夫だよ」
 そうして、ぎゅうっとフィーナを抱きしめる。
 その腕の中には、妙に安らいだように微笑むフィーナがいる。
「そう……。クレイさまが助けてくださったのね」
 フィーナは、ぽすんとその胸に自らをあずける。
 ボートが沈み、湖に落ち、そしてドレスに加わる水の重みで意識を失う寸前までの記憶はフィーナにもある。
 そしてその後も、優しくあたたかなぬくもりに包まれていたことは、体のどこかで覚えている。
 きっとそのぬくもりは、クレイのものだったのだろう。
 フィーナはそう確信し、あらためてクレイのぬくもりを感じるように抱き返す。
 クレイはさらにフィーナを抱きしめる。
 同時に、クレイの目からは、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
 フィーナが無事でよかったと、心から安堵して。
 それはまるで、世界中の幸せを独り占めしたような、優しい微笑だった。
 クレイとフィーナからすいっと視線をそらし、キオスはぽりぽりと頭をかいている。
 どうやら、今回ばかりは、とってもばつが悪いらしい。
 だけど、フィーナが無事でよかったと、キオスもまた喜んでいる。
 そして、ファセランは、そのような二人を、とりわけクレイを、ぽかんと口を開けて見ていた。
 それから、ふうっと大きなため息をもらす。
 まるで呆れるように、諦めたように。
「やれやれ。君には参るよ。そこまでフィーナのことをね……」
 さらにそんなことをつぶやき、ファセランは複雑な笑みを浮かべる。
 本当に、まさか、クレイがそこまでフィーナにめろめろだったとは。
 そこまでフィーナにやられちゃっているとは。
 仮にも一国の王子が、そこまでなりふりかまわず、ただ一人の女性に愛を降り注ぐなどとは。
 恥ずかしげもなく、幸せそうに微笑むなどとは。
 あまつさえ、その無事を喜び、大泣きするなどとは。
 まわりなんてかまわずに、とっとと二人だけの世界を作り上げてしまうまなどとは……。
 とてもじゃないけれど、ファセランには真似できない。
 ――やっていられない。
 これではまるで、ファセランが滑稽ではないか。
 まさか、ここまでわって入ることが難しかったとは。
 フィーナを一心不乱に抱きしめるクレイの肩に、ファセランはぽんと手をおく。
 するとクレイは、ゆっくりと顔をあげた。
 そして、頬を伝う涙をぬぐうことなく、不思議そうにファセランを見る。
 ファセランは、にやりと笑みを浮かべた。
 瞬間、雷が落ちたような衝撃がその場にはしった。
「今回のところは、これでひいてあげるけれど……。わたしは、まだフィーナを諦めたわけではないからね」
 そんなことをさらっと言い置いて、くすくす笑いながら、ファセランは颯爽と七色に輝く湖を去っていく。
 その後姿を、クレイとキオスが憎らしげに見送っている。
 そして、そんなクレイの腕の中では、フィーナが、「まあ、大変」などと、ふふふと楽しそうに笑っていた。
 クレイはがっくりと肩を落とす。
 結局のところ、何もかわっていない。
 そのような三人を背に感じ、ファセランは切なそうに、自嘲気味に笑みをもらす。
 まあ、フィーナが幸せなら、それでかまわない。
 だって、本当に、愛しい姫君だから。
 ずっとずっと思いをよせてきた、この世でいちばん愛しい姫君だから。
 そのように自分に言い聞かせながら、ファセランは背で楽しそうに笑うフィーナからはなれていく。
 きっと、今は――あくまで今は――この選択は間違いではないだろうと思い。
 いつか、きっと、クレイからフィーナを奪い返してやると、闘志をたぎらせ。
 ――やはり、結局のところ、何もかわっていない。


 ファセランを見送り、七色のクロンウォール湖がその姿を赤くかえはじめた頃。
 湖に落ちてびしょびしょのまま城に帰っては、今回もやはり、「どうしたの?とみんなにきかれてしまいますわ」というフィーナの言葉に従い、乾くまでそこにとどまることにした。
 そして、ようやく、ほぼ乾いた。
 キオスの目の前では、焚き火をはさみ、相変わらず無駄にクレイがフィーナといちゃついてくれている。
 クレイは膝の上にちょこんとフィーナを座らせ、後ろからぎゅっと抱きしめている。
 キオスは気後れ気味に、クレイに話しかける。
「ク、クレイ、あのボートって、もしかして……」
「何のことです? キオス」
 妙に黒いものを発するクレイから、キオスへ即座にそう返った。
 キオスは、びきーんとかたまる。
「な、なんでもないっ」
 そして、慌ててそう言葉を返す。
 さらに邪悪なものをかもし出すクレイが、にっこり微笑む。
「それでいいのですよ」
 その微笑みがやはり、キオスはどうにも恐ろしくて仕方がない。
 まるで悪魔の微笑みに見えてしまうのは、キオスの気のせいなどでは絶対にない。
 だって、キオスの脳裏に、とっても恐ろしいことがよぎってしまったから。
 ま、まさか、あのボートは、ファセランを追い返すために、クレイが仕組んだことでは……?
 そして、あの大粒涙も、クレイの演技に違いない。
 ファセランに諦めさせるための……。
 なんて、そんな考えてはいけないような、とっても恐ろしいこと。
 たしか、クレイは昨夜、仲の良い近衛ヒューイに、何やら頼みご……命令をしていたようだから……。
 ははは。だからといって、まさか、いくらクレイでも、そんな非道なことは――。
 する。しまくる。あり得る。あり得まくる。
 この悪魔ならばっ!
 この世で最も愛しく大切な女性を、――ちょっぴりなら――危険にあわせることも辞さない。
 そう、あくまで自分が守れる程度に、周到に計画を練る。
 自信たっぷりに、自分に都合よく事を運んでいく。
 それが、キオスが知るクレイという男。
 人畜無害、ほややんとしているように見えて、実は誰よりも腹黒いことを、キオスは嫌というほどその身をもって知っている。
 普段、にこにこ顔のクレイに、どれだけ虐げられていることか……。
 ――その原因を作っているのはキオスだということは、さらりと棚上げして。
 たった一人の愛しい女性のためだけに、クレイは悪魔に魂を売りかねない。
 いや、すでに、さっくりと売っぱらっているに違いない。
 そもそも、クレイこそが悪魔に他ならない。
 嗚呼、やっぱり、この兄だけは絶対に敵にまわしたくない。
 あらためてそう実感する夕暮れ。
 それを確信したキオスは、逃げるように、さっさと一人、湖から去っていく。
 ふらふらと、あちらこちらにぶつかりつつ。足をとられつつ。
 やってきた小道を、クロンウォール城目指して駆けていく。
 これ以上ともにフィーナとクレイといては、絶対に酷い目にあうと確信して。
 今が普通の時ならば、キオスだってそうは思わないけれど、よりにもよって、危険な目にあったすぐ後だから。
 そして、それにより、そのいちゃつきっぷりに拍車がかかっている最中だから。
 しかも、その原因を作ったのは、何を隠さなくてもキオス――いや、本当はクレイ?――なだけに、脱兎の如く逃げずにはいられない。
 今回ばかりは、二人の邪魔などせず、さっさと逃げるが勝ちだろう。
 そうして逃げ去っていくキオスを、フィーナは不思議そうに見送っている。
 いつものキオスと、あまりにも違いすぎて。
 すると、フィーナの肩がすっと抱き寄せられた。もちろん、クレイに。
 それに気づき、フィーナがクレイを見つめると、手をとり、立ち上がらされる。
 不思議そうに、やっぱりフィーナはクレイを見つめている。
 そうしていると、クレイは、おもむろにフィーナの足元にひざまずいた。
 クレイは、フィーナのドレスのすそをすっと持ち上げる。
 それから、真っ赤な太陽にてらされ、真っ赤な湖のほとりで、そこにそっと口づけが落とされた。
「あらためて言います。フィーナ王女、わたしと結婚してください」
 まっすぐに、そして何よりも優しいクレイの眼差しが、フィーナへ送られる。
 その顔は妙に艶かしく微笑んでいる。
 この美しい七色の光を発する湖よりも、もっともっと輝く微笑み。
 一瞬目を見開いたけれど、フィーナもまた、幸せそうに目を細めた。
「……はい、クレイさま。よろこんで」
 そのようにささやきながら。
 そしてすぐに、立ち上がったクレイによって、フィーナは再びその胸の中にさらわれていく。
 それから、この赤い太陽が完全に西の地平線に沈み、夜がやってくるまで、二人、飽きることなく口づけをかわしていた。

 緑豊かな小国アルスティルの王女と、商業大国クロンウォールの王子が、あらためてその思いを確認し合った夕暮れ。
 二人は、この世の誰よりもその幸せを感じ、くすくす笑い合う。
 それが、二人の二度目のはじまりの最初のできごと。
 これからどんな騒動を巻き起こすのか、彼らを見守る者たちは、恐らく気が気でないだろう。
 だけど、彼らにとっては、幸せな恋物語。


chapter2 おわり

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update:06/03/19