嘘つきな唇
change〜とりかえっこ王子〜

 悲しげに闇をともす空に、ぽっかりと月が浮かんでいる。
 雲ひとつなく、丸い月のまわりでは、きらきらと輝きを競う星々も瞬いている。
 開け放たれた窓では、風にゆられ、ひらひら舞うレースのカーテン。
 それを気にするふうもなく、フィーナは一人、満天の星々を見上げている。
 その瞳は、どこか悲しげにゆらめいている。
「フィーナ、泣いているの?」
 すると、そのようなフィーナに、そう心配げに問う声があった。
 同時に、フィーナを包み込む優しいぬくもりも。
 その声の主の気配にもうずっと前から気づいていたらしく、フィーナには驚いた様子はない。
 ゆっくり振り返り、そして鋭い視線をなげつける。
「泣いてなどおりませんわ。それよりも、この手、放してくださいません? 誤解を解くまでは許さないと言ったはずですわ」
 まるで背から包み込むようにまわされた両腕をぺしぺしとたたきながら、フィーナは抗議の眼差しを、その腕の主へ送る。
 しかし、腕の主――クレイは、まったく気にした様子なく、変わらず優しげにフィーナを見つめている。
「そうだったね。だけど、わたしは、フィーナに触れられないと、狂ってしまいそうなのだよ」
「でしたら、ご存分に狂ってしまわれてはいかが?」
 なおもべしべしと腕をたたき、そのあたたかな中から逃れようとフィーナはもがく。
 しかし、やはりびくともしない。
「手痛いね。でもね、狂ってしまったら、わたしは何をするかわからない。そのまま自らの命ですら絶ちかねない。この世の全てをめちゃくちゃに破壊してしまいかねないのだよ。――フィーナ、あなた一人がいないだけで。触れられないだけで。わたしは、正気でいられなくなる」
「……え?」
 ゆったりと告げられたその言葉に、フィーナは目を見開き、不安そうにクレイを見つめる。
 同時に、ぽろりと、ひとしずく涙がこぼれ落ちた。
 さらっと告げられたけれど、そして、それは本当にめちゃくちゃな――馬鹿げた言葉だけれど、でも、だけど、それは、フィーナの胸を切りつける鋭い刃となってしまった。
 この世の全てをめちゃくちゃに破壊したければご勝手にどうぞだけれど、でも、もう一つ、クレイは自らの命を……とそう言ったから。
 そのような卑怯な脅し文句でひるむフィーナではないけれど、だけど、それは実際耳にしてしまうと、なんと重く痛い言葉なのだろうか。
 フィーナの胸は、張り裂けそう。
 馬鹿馬鹿しい。そのようなこと、このクレイが本当にするわけはないとわかっているけれど……だけど、フィーナは想像してしまった。
 クレイを失った、その時を。
 想像してしまったら、勝手に涙がこぼれていた。
 つうとフィーナの頬を伝う涙を、クレイは優しくぬぐう。
 フィーナは、ぽすっとクレイの胸に顔をうずめ、そこでふるふる肩をふるわせる。
 あれだけ突き放すような態度をとっていたけれど、フィーナは本当は、このあたたかな腕に包まれたくて仕方がなかった。
「わたくし以外の女性が、クレイさまに触れるなんて……わたくし、わたくし……」
 そして、気づけば、声を震わせ、フィーナはそうつぶやいていた。
「うん、わたしもだよ。すまなかった。いくら慌てていたといえ、フィーナ以外の女性に触れさせるなど、わたしが悪かった。もう二度とあのようなことはないから」
 フィーナを包む腕に、クレイはもう少しだけ力をこめる。
 ぽすんと、すりよるフィーナの髪に顔をうずめる。
 そこから、クレイの吐息が、あまくフィーナを包み込んでいく。
「……絶対よ? 絶対に絶対よ? クレイさま」
 くぐもった声で、フィーナが念をおすようにささやいた。
 すると、クレイは一瞬驚いたように目を見開き、ふわりと嬉しげに微笑む。
「もちろんだよ。わたしにはフィーナしかいないからね。フィーナしか触れたくない。フィーナしかいらない」
「クレイさま……」
 ぎゅっと、クレイの背にフィーナの腕がまわされる。
 夜風が二人を優しくなでていく。
 月が二人を煌々と照らしている。


 満天の星々の下、フィーナとクレイ、二人が夜風に吹かれたその翌朝。
 朝日がさんさんと降り注ぐ食堂で、早々にクレイは約束を違えていた。――フィーナにとっては。
 もう二度とフィーナ以外の女性に触れさせないと言ったのに、それなのに……。
 たしかに、まだ触れさせてはいないけれど、だけど、でも――。
 その嘘つきな唇、もう二度と嘘がつけないように、縫い合わせてやりたい。
 怒りをこらえたフィーナの前に、なんと腹立たしい光景が広がっていることだろう。
 この清々しい朝の陽光が、憎らしくなる。
 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いを通り越し、この世の全てが憎くなる。
「キオス王子、あーんしてくださいませ」
 フォークにプチトマトをぷっすりとさし、にっこり微笑むキャロンがいる。
 そのフォークは、どこからどう見ても、間違いなく、クレイの口元へ向けられている。
 フォークの先には、おろおろ怯えるクレイの姿が……。
 果たして、クレイが怯えているのは、キャロンか、それとも、目の前でもくもく食事をとっているふりをしているフィーナか……。
 そのようなことは、考えるまでもない。
「キャ、キャロン王女、このように人がたくさん見ているところで……っ」
「まあ、わたくしったら、すみません。つい……」
 とりあえず、適当に誤魔化そうとするクレイに気づいていないのか、キャロンは恥らうようにぽっと頬を染める。
 もじもじと、体をよじらせる。
 ちらりと、その目がクレイを見つめる。
 それに気づき、クレイの顔はひきつる。頬がひくひくと苦しげに動いている。
 さすがに、女性に恥をかかせるわけにもいかないので、クレイはどうにも強くでられないらしい。
 そのようなところは、悲しいかな、幼い頃よりたたきこまれてきた王子としての教養が大いに発揮されてしまう。
 しかし、それでも、昨夜フィーナと約束をした通り、キャロンに触れさせることだけはすんでのところでかわしている。
 すんでのところという辺りが、なんとも情けないことだけれど。
 そのようなこと、さらっとしてのけられなくてどうする。クレイ――腹黒王子ともあろう者が。
「ついって何かしらね、ついって」
 クレイの正面の席に座るフィーナが、ぶすりとベーコンにフォークをつきさし、ぐりぐりとお皿におしつけている。
 とりあえず、正面に座るクレイとキャロンには聞こえない程度の大きさで、ぼそりとつぶやいた。
 その横から、ちょいっと身をフィーナへ寄せ、キオスはおろおろと声をかける。
「ど、どうどう。フィーナちゃん、落ち着いて!」
「寄らないで。けがらわしい!」
 しかし、キオスの果敢な挑戦、フィーナをなだめる挑戦は、清々しいくらいに失敗に終わった。
 ベーコンをつきさしたままのフォークを、ずいっとつきつけられる。
 フォークとキオスの顔の距離、羊皮紙一枚の厚さ分、といったところだろうか。
 間違いなく、殺される。これ以上、余計なことを言うと。
 と、キオスにしては、賢明な判断を下していた。
 どうやら、キオスの想像以上に、フィーナはご立腹らしい。


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update:07/05/14