婚姻届と乙女の貞操
ダイキライ

「どこを探したって見つからないよ。だってほら。君の探し物は、ここにあるから」
 夏樹はそう言いながら、わたしの前に立ちはだかり、胸元からぴらっと例の婚姻届を取り出した。
 恨めしげに、じとーっと夏樹をにらむ。
 どうしてわかったのかしら。わたしが今していたことを。
 まあ、たしかに、家捜しのように、夏樹の仕事部屋の棚やら本棚やらをあさっていたのだから、何かを探しているということはわかるわよね。
 それで、わたしが探すものといったら……今、わたしが置かれている立場からして、夏樹の弱みになるようなネタか、この婚姻届くらい。
 それにしても夏樹、家においておくような無用心な奴じゃないと思ってはいたけれど、だけど詰めがあまかったみたいね? 
 夏樹のことだから、二十四時間届出OKの婚姻届だもの、残った仕事とやらを片づけにいくついでに、絶対出してくると思っていたのに……。
 半分諦めながら、探していたのに。婚姻届は無理としても、夏樹の弱みになるネタを……。
 でもまあ、まだ夏樹の手にあるということは、わたしにもチャンスがあるということで。
「だからね。いつでも取りにおいで。明日の朝までは、ぼくのもとにあるから。だけど……もちろん、それなりの覚悟をしてね?」
 ちっ。そんなことより、やっぱりか。
 もう、ほとんど猶予は残されていないということなのね。
 ということは、今夜が勝負ってことね。
 ん? でもちょっと待って。今、何かひっかかる言葉を……。
 たしか、それなりの覚悟って?
 何? それ。
 そっちに気をとられ、夏樹をにらみつけることをやめてしまったわたしに気づき、夏樹はまるで、ぽんと手をうつように、その理由がわかったと、一人納得したような表情を浮かべる。
 そしてまた、あの天使の微笑みをわたしへ向ける。
 にこりと、この上なく癪にさわるさわやかな笑顔を。
「ああ、ごめん。まわりくどかった? それなりの代償を払ってもらうということだよ? そう……君のその体でね?」
「うっぎゃあ〜っ!!」
 夏樹がその言葉を発し、にやりと悪魔の微笑みをちらっと見せた瞬間、わたしは夏樹の言葉の意図をようやく理解し、のけぞっていた。
 ずだだだだだ〜っ。
 後ろに本棚。もうこれ以上、下がれない。
 違った。詰めがあまいのじゃない。
 こいつはただ、婚姻届を使って、もう少し、わたしで遊ぶつもりだったんだ。
 ていうか、こいつ、変態だ。やっぱり、こいつは変態だあ〜!
 そして、色情魔だあ〜!
 のけぞるわたしに、夏樹は楽しそうにじりじりと近寄ってくる。
 わたしの後ろには、天井につくくらいまで大きな本棚があり、それ以上後退することができない。
 次第にわたしたちの間は狭まる。
「よるな、変態!!」
 とっさに背の本棚に手をやり、最初に触れた本をつかみ、夏樹に投げつけた。
 しかし、それはあっさりとかわされてしまい、夏樹はさらにわたしに近寄ってきて、もうほとんど間がなくなってしまった。
 やばい。今度こそ、本気でやばい。
 後がない……。
「変態? ん? それは、誰のこと?」
 首をかしげ、やっぱりあの柔らかな微笑みを浮かべる。
 こいつ。わかっていてしている。わかっていて、とぼけたふりをしているんだ。
 なんて、なんて嫌味な奴なのかしら! 大嫌い!
 夏樹の手がわたしへとすっとのびてきて、両手をつかまれてしまった。
 そして、本棚に押さえつけられる。
 その勢いで、本棚が揺れ、収まりの悪かった本が数冊、ぱたぱたと音を立て床に落ちた。
 その音が、静まり返ったこの部屋に響き、妙な緊張感と恐怖感を生んだ。
 夏樹の顔が、次第にわたしへと近づいてくる。
 まずい。やばい。お仕舞いだ。
 今度こそ、こいつ、しかけてくる。
 夕方はほっぺにちゅう程度ですんだけれど、今度こそ奪われるわ。わたしのファーストキス〜!!
 と思ったら、わたしの唇に触れたのは、夏樹の唇でも顔でもなく、ふわっと柔らかいものだった。
 ほのかに香る整髪料のにおい。
 シャンプーの香りとまざり、不思議な香りを運んでくる。
 って、え? じゃあ、今触れたのは、髪の毛……?
 それが髪の毛であることを理解し、急に安心して力が抜けてしまった。
 その時だった。妙なところに、妙な感触を覚える。
「ひゃっ!」
 思わず、そんな声を上げていた。
 そして見る間に、わたしの顔は赤面していく。
 もう耳まで真っ赤。顔から湯気なんて立ち上っているわ、きっと。
 鏡を見なくたってわかる。だって、わたしの体の一部だもの。
 夏樹の髪がゆっくりとわたしの顔からはなれ、夏樹の目がわたしの目をとらえた。
 そして、にやりと満足げに微笑んだ。
「続きは、今夜ね?」
 そう言って、するりとわたしの手を放す。
 その瞬間、わたしの体はずるずるずるとくずおれ、その場にぺたんと座り込んでしまった。
 そして、ぞわぞわっと、わたしの背は恐怖を感じる。
 今わたしを見下ろす、夏樹のこの悪魔の微笑に気づいてしまい……。
 こいつ。本気だ。本気なんだ……。
 それに、続きって、続きって何!?
 つまりは、今の行為の続きってことで!?
 いやあ〜っ!!
 何よ、人の首筋にキスしておいて、その続きって……ということは、つまり……!?
 嗚呼。もういや。
 マジで逃げたい。逃げ出したい。
 たとえ夜の密林で迷ってもかまわない。とにかく逃げ出したい。この場から。この夏樹から! 大嫌い!!
「そうそう、これから夕食だよ。そのために君を呼びにきたのを、すっかり忘れてしまっていたよ」
 そう言って、腰を抜かしたままのわたしをひょいっとお姫様だっこし、夏樹は仕事部屋を後にする。

 うう……。もう、本気で泣きたい……。


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update:03/11/10