リベンジはじめての夜
ダイキライ

 あれからすぐ、日が暮れた。
 もうすっかり夜の帳がおりている。
 「そんな顔じゃ、まだ帰れないね?」なんて、少しおどけたようにそう言って、夏樹は観覧車へとわたしを誘った。
 これが最後。
 観覧車をしめに、わたしたちは屋敷へ帰ることにした。
 本当はこの後、やっぱり、どこぞの一流レストランのディナーを予約していたみたいなのだけれど、それはキャンセル。
 急遽、屋敷へ帰ることにした。
 やっぱり……こんな顔じゃ、行けないじゃない?
 眼下には、今度は街の夜景が広がっている。
 すぐ下の遊園地もライトアップされて、とても綺麗。
 だけどやっぱり、遠くに広がる街の夜景にはかなわない。
「茗子」
 向かい側に座って、物憂げに夜景を見ていた夏樹が、急にわたしを見て呼びかけてきた。
「何?」
 どうして今名前を呼ばれたのかわからず、まだ腫れている目できょとんと夏樹を見つめ返す。
 と同時に、がたんと小さく観覧車が揺れた。
 その瞬間、またわたしに降ってきた。キスが。
 六度目のキス。
 かすめるように触れ合っているだけなのに、だけど、今まででいちばん長い時間、触れている。
 そこから、夏樹のぬくもりが伝わってくる。
 ……一体、今日、何度キスされた?
 ――また、されちゃったね。
 もう、逃げられないね、夏樹のキスからも。

 まったくこの男。結局、する時はするのよ。
 こういうところだけは、ぬかりがないのだから。
 最低よね!
 ……だけど、やっぱり、何故だか、もう嫌じゃない。夏樹のキス。
 もちろん、キスされた後、わたしは夏樹に抱き寄せられていた。
 ゴンドラが、片側だけに重りがかかり、またぐらりとゆらぎ、ちょっぴり傾いた不恰好な姿になっている。
 この後はもう、ゴンドラが下へ着くまで、四方に広がる夜景を、夏樹の胸に身をゆだね、静かに眺めていたわたしがいた。
 ……信じられない、そんなわたし。
 絶対、今までではあり得なかった。
 どうして、抵抗しなかったのだろう?
 どうして、逃げなかったのだろう?

 ――一人にしない。
 夏樹のその言葉は、妙にわたしの心をとらえてならない。
 さっきから、とらえ続けたまま。
 ……なんだか、くすぐったい。


 少し、二人の距離が近づいたかもしれないと思ったその日の夜。
 とうとう恐れていた事態に陥ったかもしれない。
 わたしはもう、逃げようとしていない。
 夏樹も、乙女部屋に鍵をかけない。
 ねえ、これって、一体、どういうこと?
 これじゃあまるで、二人とも、わたしがもう夏樹から逃げないって確信しているみたい。
「茗子……」
 わたしがバスルームから出てくると、夏樹はソファでくつろぎ、柔らかな微笑みを向けてきた。
 そして、すっと立ち上がり、湯上りほかほかのわたしの髪にちゅっと軽いキスをし、そのままバスルームへと消えていく。
 鍵をかけないまま。
 わたしが逃げないと信じて。
 夏樹はいつも、先にわたしにバスルームを使わせる。
 「湯冷めしそうだったら、先に寝ていていいよ」なんて言って。
 冗談じゃない。
 そんなことをしたら、寝込みを襲われちゃうじゃない!
 と何度も思ったけれど、夏樹は何もしなかった。
 いつも優しく微笑み、「おやすみ」とそれだけを言って、ソファで眠るの。
 それが、月曜の夜から数えて三晩続いた。
 四晩目は一緒にベッドで寝たけれど、だけどやっぱり何もなかった。
 そして、今日が五夜目。
 ――結局のところ、これって、夏樹はわたしを大切にしてくれているということなのよね?
 その気になれば、いつだって――
 なのに、夏樹は何もしてこない。
 わたしが嫌がることを知っているから。抵抗することを知っているから。
 ……だけど、ねえ、今日は違うかもしれないよ?
 な〜んてことは言ってやらない。
 だって、下手に期待されると困るもの。
 まだ、結婚なんてしないからね。
 夏樹が悪いのよ?
 せっかく婚姻届を出しに行こうとしたのに、それをびりびりに破き、雪のように舞わせちゃったのだから。
 だけどね、あの時の夏樹、ちょっと格好よかったわよ?
 少し、見直しちゃった。
 だけど、それも言わない。
 ――ねえ、わたしたち、もうそろそろなのかな?
 もうそろそろ、本当に恋人同士になっちゃうのかな?
 わからない。
 だけどそれは、わたしの心次第だということは、わたしも夏樹も知っている。
 一人にしない。
 それがどれだけ重要な言葉か、夏樹はわかっているのかしら?
 しかも、それを誓ったのよ?
 いい?
 それじゃあ、夏樹は絶対に、わたしを一人にしちゃ駄目ってことなのだからね!

「あれ? 茗子。先に寝ていなかったの? 湯冷めしていないだろうね?」
 バスルームから出てきた夏樹は、少し不機嫌にそう言った。
 「もう、風邪でもひいたらどうするのだよ」なんて、そんな視線を浴びせてくる。
 だけど、わたしはひるまず、つんと顔をそむけてやる。
 乙女カバーのかかったソファの上で。
 すると夏樹、そんな乙女ソファにすたすたと歩み寄ってきて、ひょいっとわたしを抱き上げた。
 もちろん、お姫様だっこ。
 今、夏樹の視線は、わたしにはない。
 夏樹の視線は、乙女カバーのかかったベッド。
 ぴんときた。
 これから、夏樹が向かおうとしているところ。
 それは、乙女ベッド。
 ……だけど、やっぱりわたしは抵抗できない。
 ねえ、どうして?

 わたしの体は、乙女ベッドの上に優しくおかれた。
 そして、ベッドに沈むわたしの体を、ひとまわり大きな影が覆う。
 整髪料とシャンプーのあの香り――わたしと一緒のシャンプーの香り――が、次第にわたしへと近づいてくる。
 触れた。
 髪が。手が。……唇が。
 これで、七度目のキス。
 七度目のキスは、明らかに今までのものとは違った。
 そして……また、味なんてわからない。
 なんだか、頭がぽうっとしちゃっていて、味なんて……。

 七度目のキスの後、夏樹はそのままわたしに覆いかぶさるように、じっとわたしを見つめていた。
 もう逃げようとしないわたしを、少し困ったように、だけど、それでもやっぱり嬉しそうに。
 複雑そうな微笑を浮かべ。
 この夏樹の微笑みは、今まで見たことがない。はじめてみた微笑。
 夏樹でも、困ることがあるのね。
 だからね、わたし、そんな夏樹の頬に手をすっとのばしたの。そして、そっと触れた。
 夏樹の頬は、やっぱりあたたかかった。
 お風呂上りのためなのか、もともとの夏樹の体温なのか、そんなのはわからない。
 だけど、いいの。やっぱり、夏樹のぬくもりは、くすぐったくて気持ちいいから。
 ベッドに身を沈め、そこから見上げる夏樹はとても優しく見えた。
 そしてまた、あのかぎなれた香りがわたしへと近づいてくる。
 大嫌いな男の顔が、今、目の前に――
 そうして、五日目の夜が更けていった。

 ちょっぴり、二人の間の距離が近づいた夜。
 夏樹を、少しだけ、ほんの少しだけ、もう少しだけ、嫌いじゃなくなった夜。

 ――っていうか、好き?


* BACK * NEXT *
* TOP * HOME *
update:04/01/01