二人の距離は胸の鼓動
ダイキライ

 その日の夕方。
 涼ちゃんと再会し、そして、あらためて鳳凰院家というものがわからなくなった日の夕方。
 屋敷へ帰ると、すでに夏樹は帰宅していて、わたしたちの帰りを待っていた。
 わたしが玄関ホールに足を踏み入れると、夏樹は待っていましたと言わんばかりにわたしに飛びついてきた。
 もちろん、抱きつかれるその寸前で、わたしの華麗なる平手打ちをお見舞いしてあげたけれど。
 ふふん。わたしだってね、そろそろ夏樹の行動パターンくらいよめてきているのよ?
 もう、不意打ちなんかにやられないわ。
「ひどい……茗子。ぼくがどれだけ茗子を待ちわびていたか、わかっている?」
 夏樹は、恨めしそうにわたしをじっと見つめる。
 左頬に手をあてながら。
 その左頬は、さっきわたしが平手打ちをお見舞いしてやったところ。
「さあ? わからない。ったく、どこでもかまわず抱きつくのだから。この変態! 色情魔!! エロエロ星人!!」
「うわっ。茗子、強気だね〜」
 言葉とは裏腹に、夏樹は悪魔の微笑みをたたえ、有無を言わせぬオーラをかもし出した。
 ……やばい。
 少しやりすぎたかもしれない。
 夏樹を本気で怒らせると、きっととんでもないことになる。
 くう〜。
 悔しいけれど、ここはやっぱり、夏樹の言う通りにしておくのが賢明?
 本当に、本当に悔しいけれど、癪に障るけれど、腹立たしいけれど……。
 ふうと大きなため息をもらし、夏樹に歩みより、ちょいっと夏樹のシャツの袖をつまんだ。
 夏樹は帰ってきたままの、スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを取り、だらしなくシャツのボタンを上から三つくらいはずした格好をしていた。
 それがまた、何というか、その……妙に色っぽかったりする。
 オレンジ色の夕日が差し込む玄関ホールで、オレンジ色の光を受けた夏樹のその姿は、悔しいけれど、たしかにみとれてしまうような色気があった。
 本当、悔しいけれど、ムカつくけれど。
 夏樹のシャツの袖をちょんとつまむと、もちろんその瞬間、わたしは夏樹に抱きすくめられていた。
 夏樹の腕の中でもがこうとしたけれど、今日はもういい。諦めてあげる。
 それにまだ……あのことがわたしの心をかすめているから、夏樹の今のぬくもりはどこか落ち着く。
 一人にしないと言ってくれた、夏樹の胸だから……。
 すると夏樹、何を勘違いしたのか、それとも調子にのったのか、そのままくいっとわたしの顔をあげ、ついっと顔を近づけてくる。
 ちょ、ちょ、ちょっと待て!
 今は、そういう場合では……っていうか、人、人、人がいるー!
 由布でしょう、久能さんでしょう、そして使用人のお姉さんたち!!
 やめて、さすがにここでは〜っ!!
 やばい。これでとうとう九度目のキスか!?
 と思ったけれど、夏樹は寸前で顔をとめた。
 そして、他の誰にもわからないように、にやりと微笑んだ。
 ええ、もちろん、あの不気味な、背筋にぞくっと悪寒が走る、悪魔の微笑み。
 その瞬間、気づいてしまった。
 やられた。また、やられた。
 わざとだったのよ、また!!
 また、罠をはられちゃったのよ!
 今度の罠は、わたしから夏樹に近づかなきゃ駄目なように仕向ける罠!!
 きい〜! 悔しい!! また、やられた!
 大嫌い!! 夏樹なんて!!
 夏樹の腕の中で、さあっと顔の色が失せていくわたしになんて、誰も気づいていない。
 それどころか、由布の奴、よりにもよってこんなことを言いやがった。
「……はあ。だからあ、そういうことは、人の目がないところでしてと言っているだろう? 夏樹。使用人の前で、主人らしからぬことをしない。のろけない」
 由布はそれだけ言い残し、玄関の扉を開け、すたすたと帰っていった。
 ええ、またよ、また!
 言いたいことだけ言って、自分はさっさと退散しちゃったのよ!
 そんなことを言われて、それで放置されていっちゃったら、わたし、またとんでもないことになるわ!
 危機よ、危機。乙女の危機!!
 このまま乙女部屋へ連れ込まれ……。
 いーやーっ!!


 ……予感的中。
 あの後、夏樹にやっぱりお姫様だっこをされ、乙女部屋へとまっすぐに連れ込まれた。
 そして、ぽすっとソファの上に座らされる。
 その横に夏樹も座り、じっとわたしを見つめてくる。
「……茗子。泣いたね?」
 そして、何の前触れもなく、核心をついてきた。
「え……?」
 図星をつかれ、思わずびくっと体をふるわせてしまった。
 あの後、泣いたことが夏樹にばれないようにって、わざわざ時間をつぶして帰ってきたというのに、それでもばれてしまったみたい。
「ぼくの目は誤魔化せないよ。どうしたの? 何があったの? まさか……由布に……」
 そう言った夏樹の顔は、これまでみたことがないほど恐ろしい表情を浮かべていた。
 ぞくっと、これまでとは違う、悪寒……というか、恐怖がわたしの体を駆け抜けていく。
 こんな夏樹……嫌だ。怖い。
 夏樹は、本気で夏樹を恐ろしく思ったわたしに気づき、慌ててわたしを抱き寄せ、とりつくろいにはしる。
「ごめん。怖かった? ごめん、茗子。そういうつもりじゃなくて、その……」
 先ほどまでの迫力はどこへやら、夏樹は急におたおたとしはじめた。
「大丈夫。わかっている。それに、そんなのじゃないから……」
 わたしは、何故だか素直にそう答え、そしてきゅっと夏樹の胸に顔を埋めてしまった。
 とくんとくんと、夏樹の心臓の音がした。
 はじめて、心静かに夏樹の鼓動を聞いたような気がする。
 心地よい……。
 人の心臓の音って、こんなに気持ちいいものだったなんて、今まで知らなかった。
 夏樹は、わたしの普段とは違うその様子に、困ったように微笑み、そのままわたしを抱いていてくれた。
 そっと壊れ物を抱くかのように。
 やっぱりそれが、どこか嬉しかった。くすぐったかった。
「夏樹……。一人に……しないでね」
 夏樹の胸の中でそうつぶやくと、夏樹は少し驚いたようにわたしを見て、髪に優しい二度目のキスをくれた。
 やっぱりその時、整髪料とシャンプーがまざったような香りがした。
 今はその香りは、妙にわたしの心を落ち着ける。
 どうしてだろう? いつからだろう?
 わたしはいつから、こうして夏樹に触れているだけで、不安や淋しさを感じなくなったのだろう?
 わからない。
 わからないけれど、今は別に、そんなこと、どうでもいいや。
 だってやっぱり、夏樹の腕の中は心地いいから……。
 全ての負の感情から、解き放たれる。
 ずっと……こうしていたいかもしれない――

 ……変なの。大嫌いな男の腕の中が、心地いいなんて。
 そんなの、聞いたことないわよ。


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update:04/01/03