本当の本当のこと
ダイキライ

「茗子……。これどういうこと? その男は何!?」
 夏樹の胸で泣くわたしに、容赦なく、そんな涼ちゃんの言葉が浴びせられた。
 夏樹は、そんな涼ちゃんに一瞥をくだし、大きくため息をもらす。
 相変わらず、夏樹の腕は優しくわたしを包み込んでくれていた。
 やっぱり香る、整髪料とシャンプーの香り。
 こんなにシャンプーの香りまで感じ取れるのは、夏樹がコロンとかそういった類のものをつけていないからなのだと思う。
 だから、こんなに敏感に、そんな微弱な匂いまで感じ取れてしまうんだ。
 そして、その香りは、今ではすっかりわたしの安定剤――
 ……やっぱり、どことなくムカつく。
 ……大嫌い。
「……あんたは、泣いている茗子に、どうしてそんな鞭打つことが言えるんだ?」
 夏樹はあきれ返ったような声色で、そう言っていた。
 それから、ぐいっとわたしの体を抱き、車に乗せようと促す。
 わたしは、もうこの場から逃げたくて、それに素直に従った。
「待てよ! 逃げるのか!!」
 そんなわたしたちに、また涼ちゃんの怒声が響いてきた。
「……逃げる逃げないではなく、こういう場合、茗子のことを考えれば当然だろう?」
 そう言って、夏樹はさっさとわたしを車の中へ押し込めた。
 そして、背にわたしを隠すようにして、涼ちゃんに対峙する。
「俺は、鳳凰院夏樹。鳳凰院家の当主だ。何か文句があるなら言って来い。いつでも相手をしてやる」
 車の中から見上げた、すっとたたずむ夏樹の背中は広くて、そして妙に男らしく感じてしまった。
 そんな夏樹の背を見ていると、何故だかむしょうに抱きつきたくなってしまった。その大きな背に。ぎゅっと。
 そうして、顔をうずめたく……。
 ――おかしい。どうかしている。今日のわたし。絶対、変!
 どうしてよりにもよって、この極悪男の背中なのよ!
 おかしいわよ、絶対!
 いくら今、わたしをかばって……守ってくれているからって、そんなのあってはいけないことなのよ。
 なのに、どうしてわたしは……。
 なんか、釈然としないわ。悔しい。

 それに……俺って言った。
 今まで、ぼくって言っていたのに、俺って……。
 これってば、いつもの極悪っぷり発揮の夏樹じゃなく、そして善人の仮面も被っていなくて、包み隠さない夏樹の真の姿、真の気持ちということ?
 ……夏樹。本気だ……。
 またしても、そんな夏樹の背に抱きつきたくなってしまった。
 ぐっとこらえていたはずなのに。
 この手が、この手が……わたしの命令を無視して、意思を持ちはじめる――
 だって、真上から少し西に傾きかけた秋の太陽が、きらきらとした光を夏樹に降り注いでいるから。
 そして、それが妙に、夏樹を際立たせる。まぶしい。
 はじめて、夏樹が大人の男の人なのだって思った。
 悪魔とか、極悪とかじゃなくて、男の人なのだって――
 ……もしかしたら、ムカつくことに、夏樹のこの背中に、見惚れてしまっていたのかもしれない。

 夏樹の名前を聞いた瞬間、涼ちゃんの顔は険しくゆがんでいた。
「鳳凰院だって!? 冗談じゃない! しかも、そこの当主だと!? ふざけるな!!」
 そして、大声でそう怒鳴っていた。
 ……え? 涼ちゃん、鳳凰院の名前を知っているの?
 表ではあまり知られていない家だって、夏樹は言っていたのに。
 それが、どうして冗談じゃないになるの?
 しかも、当主だったら、ふざけるなになるの?
 ……ねえ、涼ちゃん。それって、どういうこと?
 涼ちゃんは、何かを知っているということ?
 涼ちゃんが、つかつかとこちらへ歩みよってくる。
 そして、わたしにすっと腕をのばした時、瞬時に夏樹にそれを阻まれていた。
 涼ちゃんはまた舌打ちをして、それからわたしにじっと険しい視線を注ぐ。
「茗子! こんな奴からは今すぐはなれるんだ!! そうでないと、お前、殺されるぞ!!」
 そんなとんでもないことを叫んだ。
「え……?」
 わたしは思わず顔を上げ、夏樹と、そして涼ちゃんを交互に凝視してしまった。
 わたしの両頬には伝う涙があった。
 そんなわたしを見て、涼ちゃんはふうっと深いため息をもらした。
 夏樹は、もう相手にしていられないとばかりに、車の扉を閉めようとする。
 だけど、それを、今度は涼ちゃんが阻止した。
 夏樹は、ぎろっと涼ちゃんをみらみつけたけれど、涼ちゃんもまた夏樹をにらみ返した。
 すると、夏樹はもう諦めてしまったのか、それ以上、涼ちゃんとは視線を合わそうとしなかった。
 そしてまた、わたしとも視線を合わせようとしない。
 じっと、どこか苦しそうに、手をかけている車の扉を見つめた。
 涼ちゃんは、真剣な面持ちで、じっとわたしを見つめてきた。
「茗子。覚えていないならと今まで黙っていたけれど、もう限界だ。あの時狙われたのは、俺じゃない。お前なのだよ」
「……」
 目を見開き、涼ちゃんの顔を凝視する。
 もう、視線を動かすことはない。じっと、涼ちゃんの顔だけを見ていた。
 すると涼ちゃんは、辛そうな顔をして先を続ける。
「本当は、お前が狙われていた。それを、俺が助けたんだ。お前は、よほどショックが大きかったのだろう。すっぽりと、記憶をすりかえてしまった。だけど、それでも良かった。これまでは。それで、茗子の心が少しでも楽になるならと……。俺は、その事実をずっと黙っていた」
「……それが……そのわたしを狙ったのが、鳳凰院家ね……?」
 もう焦点の定まらない、どこを見ているのかわからない目で、考えることをやめてしまった真っ白な頭で、気づけばその言葉を口にしていた。
 ……多分……自分でも気づかないうちに、どこかでわかっていたのだと思う。だから、そうつぶやいていたのだと思う……。
 夏樹も涼ちゃんも、わたしの言葉を聞き、動きをとめてしまった。
 それで、確信した。
 わたしの言ったことは、間違っていない。
「夏樹……?」
 ぽろぽろと涙を流し、やっぱり回転しない頭で、わたしは夏樹を見つめた。
 すると、夏樹はゆっくりと顔を上げ、辛そうにわたしを見つめてきた。
 ごくんとつばを飲む音が、真昼の秋の景色にこだまする。
「……事実だよ」
 夏樹は、苦しそうにそう吐き出した。
 決定……。
 夏樹の言葉は嘘じゃない。
 夏樹がそう言うなら、それは本当に事実だろう。
 だって夏樹は、自分が不利になるようなことを、決してすすんで言ったりしない。
 それは、この十五年という長い年月、鳳凰院の中でしいたげられてきた夏樹だから、そして、それらと戦い、当主の座を手に入れた夏樹だから、だから決して他人に弱みを見せない。
 それなのに今、夏樹は、自分の不利になることを言った。
 だから、それは、事実――
 夏樹は扉から手をはなし、わたしの前へ体をのりだすと、ずいっと車の奥に手をのばした。
 それから、シートの上においてあったスーツの上着を取り、わたしの肩にそっとかけた。
 そして、その場にひざまずき、わたしの両手をすっととる。
 じっと、そらすことなく、わたしの目を見つめた。
 わたしもまた、涙でぼんやりしている視界のまま、夏樹を見つめる。
 ……知りたい。
 これは、一体、どういうことなのか……。
 真実が、全てが……。
 すりかえてしまったという、わたしの本当の記憶を知りたい。
 一体、八年前に何があったというの?
「……あの時、茗子の存在が、鳳凰院の分家連中に知れてしまって、そこから茗子は命を狙われるようになってしまった。……ぼくが、次期当主であるぼくが、茗子を好きだというだけで。ずっと思っているというだけで。……そう。二度と、同じ過ちを繰り返さないように。同じ轍を踏まないように。次期当主が……庶民の女に入れ込まないように……。それが、八年前のあの出来事なのだよ。茗子をずっと苦しませてしまっている、あの出来事……」
 衝撃を受けた。
 まるで雷にうたれたような衝撃。
 ……もう、何も考えられない。頭が、脳が、働いてくれない。
 ねえ、何? 今、夏樹の口から告げられたことは、ねえ、何? 何なの? 一体、何なのよ……。
 もう、訳がわからない。
 ……ううん。考えたくない。
 だって、だって、それってあんまりじゃない。
 どうして、わたしたちのささやかな思い出まで、真っ黒く染め上げてしまうの!? 鳳凰院という家は!!
 あんまりよ、ひどすぎる!!
 いっそうわたしの目から流れ落ちる涙を見て、夏樹は苦しそうにわたしを抱き寄せた。
 そして、ぎゅっと抱きしめる。
「だから……それを知って、それからずっと、茗子を陰から守らせていた。……ずっと見てきたとは、つまりはそういうことなのだよ。茗子を失わないために……」
 ……わかった。今、わかった。
 それじゃ、夏樹は、ずっとわたしを守っていた……ということよね?
 ずっとずっと夏樹は、わたしを守ってくれていた?
 見ていたというのは本当で……。そういう理由で……。
 どうして、本当のことを言ってくれなかったの? どうしていつも、ふざけたことを言って誤魔化していたの?
 ……ああ。それもわかる。
 それは、わたしを不安にさせないため。わたしを守るため。
 夏樹は、わたしの命だけでなく、ずっとわたしの心も守ってくれていたのね?
 ……夏樹……。
「そして、茗子が二十歳になってすぐ、あんなことをしたのは、また茗子が狙われはじめたから……。そばで茗子を守るには、あの方法しか思い浮かばなかった。本当は、もっと自然なかたちで……そう、約束通り、五年後に再会したかったけれど……」
 その言葉を聞いた瞬間、わたしは求めるように夏樹に抱きついていた。抱きしめ返していた。
 お願い。この手を、この腕を、今ははなさないで。
 もっともっと強く、わたしを抱きしめていて。
 もう嫌。もう一人になるのも、こんな思いをするのも。
 だから、夏樹。この手を、この腕を、はなさないで……。

 涼ちゃんは、求め合うように抱き合うわたしたちを、手も足も出ないとばかりに、苦しそうに見つめていた。
 そう、ずっと……。
 次に、わたしたちが互いの体をはなすまで、ずっと――


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update:04/01/03