キスとさくらんぼ
ダイスキ

 昼間、あんなことがあったのに……どうしてこの男は、こんなにご機嫌なのでしょう?
 まるで、あれが嘘のように。幻のように。
 うっとりとわたしを見つめている。
 もちろん、その腕にわたしを抱き寄せて。
 髪や首や耳や頬にかかる夏樹の吐息が、妙にくすぐったい。
 夕食も終わって、リビングでゆったりのんびりくつろいでいる。
 だから、それがわからないというのよ!
 どうして、くつろげちゃうの!?
 どうして、いつもそんなに余裕なの?
 そういうところが、どうにもムカついて仕方がない。
 少しくらいは……動揺してみせてくれたっていいじゃない。
 だけど、きっと、これが夏樹なのだと思う。
 どんなに胸の内で不安を抱いていても、決してわたしには見せようとしない。
 ううん。わたしだけじゃなくて、誰にも見せようとしない。
 それは、弱い自分を悟られないため。
 悟られたが最後、つぶされる。
 鳳凰院という家は、そういう家だから。
 だから、意地でも弱い自分は見せられない。
 だけど、わたしに限ってはそうじゃない。
 心配をかけさせたくないから……。
 それにつきる。
 いつだったか、夏樹は言っていた。
 夏樹は、ただ、わたしに愛されたいだけのこどもだって。
 一生懸命強がっているって。
 わたしを守るために。
 わたしのためだけに。
 あの時は、馬鹿じゃないのって蹴散らしてあげたけれど……だけど、本当はそうじゃなかった。
 やっぱり夏樹は、十七年前からずっと同じなのだと思う。
 どうしてこの男は、こんなに何もかも背負い込もうとするの?
 そして、どうしてこんなに、悲しいまでに一途なの?
 ……わたしの精一杯で、この人を守りたいと思った。
 夏樹が望むように、夏樹をいっぱいいっぱい好きになって。
 愛してあげる。愛してあげている。
 ただ、それは、言葉にも態度にもでていないだけで。
 心はもう、こんなにたくさん、夏樹を愛しちゃっている。
 夏樹でうめつくされちゃっている。
 夏樹のものになってもいいと思えるくらい。
 これは、わたしにとっては、とても大きなこと。勇気のいること。
 だから、わたしがそう思うということは、どれだけ重大なことか、きっと夏樹ならわかってくれている。
 夏樹の胸の中から、ちらっとそのにやけた顔を見てみる。
 すると、やっぱりとても幸せそうで。
 ただ、その腕の中にわたしを抱いているだけで。
 そしてわたしも、そんな夏樹を見るだけで、胸がぽっとあたたかくなる。
 一体、いつから、こんなことになっちゃっているのだろう?

 目の前のテーブルの上には、さくらんぼ。
 さっき、久能さんが、「食後のデザートにいかがですか?」なんて言いながら持ってきたのよね。
 デザートなんて、食事の時に一緒に食べちゃっているというのに。
 きっとこれは、「何かつまみながら、たっぷりじっくり二人だけの甘い語らいをしてください」とかいう、久能さん的のさりげない心遣……嫌がらせなのだろう。
 夏樹にとっては、この上ない心遣いになるのだろうけれど、わたしにとっては最上の嫌がらせ。
 本当、どうしてここのバトラーって、夏樹の欲望に忠実に動いてくれるのかしらっ。
 そして、どうして夏樹の欲望を、そんなにぴったりと当てられちゃうのだろう。
 ――あ。これは、夏樹の欲望なんて、もう誰にでもお見通し……だからのような気も、果てしなくするけれど。
 夏樹の欲望は、一にも二にも、三四を飛ばしちゃって、五にも六にも……無限に、わたしだけだものね。
 それで、わからないはずがない。
 それに、今さらすぎて、もう考えたくもないけれどね。
 夏樹に抱かれながら、右腕をくいっとのばしてみる。
 そのさくらんぼへむけて。
 どうにも、ぷるるんっとおいしそうに光ってくれちゃったりしているから……一つ、味見をしてみたくなっちゃって。
 だって、このさくらんぼって、間違いなく桐平さんが用意したものでしょう? だったら、一級品、高級品に違いないもの。
 一粒くらい、その贅沢な味を味わってみてもいいわよね?
 ああ、とってもおいしそうにわたしを手招きしている。
 すると、夏樹ってば、わたしの動きにすかさず気づいて、さくらんぼを一つ手にとった。
 くっ。ムカつくっ。
 わたしは頑張ってもなかなか手がとどかないというのに、夏樹ってばあっさり手がとどいちゃったりして……。
 しかも、そのとったさくらんぼを、わたしの顔の前にもってきて、「はい、あーん」なんてしてくれちゃったりして……。
 つんつんと唇に触れさせてくれちゃったりなんかして……っ。
 嗚呼。腹立たしいっ!!
 目をすわらせ、ばくっと夏樹の手からさくらんぼを略奪してやった。
 ふふんっ。
 たしかに、「あーん」ではあるけれど、夏樹が望むとおり、あまい「あーん」なんかしてやらない。
 一瞬、残念そうに眉をひそめたものの、それでも、まがりなりにも「あーん」ができて、夏樹ってばすぐさまほわわんっと顔の筋肉をゆるめる。
 そして、さくらんぼを持っていたその指に、ちゅっとキスを落とす。
 その指は、夏樹の手からさくらんぼを略奪した時に、少しだけ……そう、ほんの少しだけ、わたしの唇が触れていたから。
 くっ……。
 そうだったわ。この男、なんでも喜んじゃうのだったわ。わたしにかかわることなら。
 それに、それはすなわち、間接キス≠ニか言いたいわけでしょう?
 まったく、もう……。

 ――ん? そういえば……さくらんぼっていえば……。
 ふいに、思い出しちゃった。
 いつだったか聞いた、こんなこと。
 それを聞いた時、妙に胸がドキドキいっていたような気がする。
 だって、それって……わたしにとったら、すっごいことだったのだものっ。
 ……あの当時は。
「ねえ、夏樹。さくらんぼのくきを口の中で結べる人って、キスが上手いのだってね?」
 そう。それ。
 いつ、誰が言っていたのかは覚えていないけれど……たしか、そう聞いたことがある。
 どうして、さくらんぼのくきを口の中で結べると、キスがうまくなるのかとか、さくらんぼとキスに何の関係があるのかとか、気になることはあるけれど……。
 とにかく、それ。
 くきを結べちゃうと、キスが上手くなっちゃうの?
 さっき夏樹の手から略奪したさくらんぼのくきを、ふりふりとふってみせる。
 もちろん、さくらんぼ自体は、すでにおいしくわたしのお腹の中。
 うーん。さすがは、鳳凰院家。
 とても美味なさくらんぼだったわ。
 とても高級な味だったわ。
 ……じゃなくて。
「はい」
 再び夏樹に視線を戻すと、そうして目の前に夏樹の指が現れた。
 細いけれど、がっしりしていて、綺麗な指。
 その指で、夏樹はいつも、愛しむように触れてくる。
 ……いや。やっぱり、そうじゃなくて……。
 その指にもたれているものは、何でしょう?
「何? これ」
 だから、つんとそれをつき、そう聞く。
 うん。この物体の正体がわからない。
 ――あえて、理解しないように努めていないこともないような気もするけれど。
 そんなわたしに、夏樹はほくほくと微笑みかけてくる。
 がっちりと、その腕にわたしの腰を抱き寄せたまま。
「だ・か・ら。さくらんぼのくき」
「うん。で?」
 無駄にさわやかに、清々しく微笑んであげる。
 うん。だから、それで?
 それが、どうしたというの?
 首を、きょとんとかしげてあげよう。
 なのに、夏樹ってば、にこにこ嬉しそうに微笑む。
 まだまだわたしは、この物体の正体を理解できていないというのに。
 そんなのはおかまいなしに。
「そういうこと。試してみる?」
 つまんでいたそれをぽいっと放り出し、ぐいっと顔を近づけてくる。
 ――っていうか、待て〜っ!
 た、試すって、一体何!?
 ……今放り投げたものは、たしかに、結ばれた……さくらんぼのくき。
 ということは、ということは〜!?
 試すって、あれ!?
 キスが上手いかどうかということ!?
 それを、検証するとでも……!?
「い……っ!? いい!! 遠慮しておく!!」
 瞬間、ずさあっとのけぞる。
 ぶんぶんと、首を激しく横にふる。
 だけど、もちろん、それは夏樹に阻まれちゃって……。
「てれない。てれない」
 そんなことを言いつつ、ずずいっと詰め寄られ……捕獲されてしまう。
 そのあたたかくて大きな胸の中へ。
 さあと、血の気がひいていく。
 だって、夏樹ってば、妙にきらきら瞳を輝かせているから。
 それで、この後にわたしの身に降りかかることが、嫌というほど想像できてしまった。理解できてしまった。
 やっぱり……あれが、本当かどうか試すということ!?
「てれてな〜い!!」
 そう叫ぶものの、抵抗むなしく、さくらんぼのくきの真実のほどを試されてしまった。
 ――たしかに、くきを結べるだけのことはあるっ。
 一瞬、気が遠くなりそうになってしまったっ。
 そのまま流され、夏樹にいいようにされてしまいそうになったっ。
 とろとろにとろけちゃいそう……。
 悔しいっ。大嫌い。

 ……くっ。
 あんな言葉、思い出すのじゃなかったっ。
 っていうか、こんな危険なこと、一体誰が言い出したのよっ!
 信じられないっ。


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update:05/10/09