バレンタインキス
(2)

 二月十四日。
 世間では、男の人たちが目の色をかえてチョコを奪い合う日。
 ――って、どこか違うけれど。
 そんな日に、夏樹は朝からお仕事。
 あのぐうたら社会人の夏樹が、珍しくお仕事。
 何をさしおいても、ぐうたらぶりを発揮して、いちばん先にさぼっちゃうようなあの夏樹がお仕事。
 夏樹のためにあるようなイベントの日にもかかわらず。
 ――驚き。
 おめでたゴキブリ男、寿の件は片づいたけれど、その後すぐにまた、他の厄介ごととやらが舞いこんできて、夏樹はその処理にいっぱいいっぱいなのだって。
 だから……わたしもすぐに学校へ行けなくなってしまった。
 ――約束したから……。約束してしまったから……。
 逃げないって。ううん、協力するって。
 やっぱりわたしにできることは、鳳凰院の連中の魔の手に落ちないこと。
 そのためには、この鳳凰院本家から出ることはできない。
 どうにか後期の試験までは由布の協力を得て乗り切り、そして今はようやく訪れた春休み。
 春休みなのにどこにも遊びにいけなくて、ご機嫌ななめなわたしのご機嫌とりに、夏樹も由布も久能さんも、そしてこのお屋敷の人たちみんなが奔走している。
 それを見るのが楽しくて、ついついすねたふりをしたりして。
 わたしはね、そうして気を使ってくれるという気持ちだけで十分なのよ?
 だけどね、そんなこと、悔しいから絶対に言ってやらないけれど。
 思う存分、わたしのご機嫌でもとっているがいいわ。

 ――去年の……十一月頃。
 その頃からまた、狙われるようになってしまったから、わたし……。
 でも、夏樹が本気を出していろいろと動いてくれているみたいで、予定以上に早く、ゴキちゃんたちは退治されていっているみたい。
 そんなに簡単に片づくなら、どうして今までそうしなかったの?
 なんてそんなことは、聞く必要ないの。
 だってわたし、知っているから。その理由(わけ)
 だってわたし、言ってやったから。
「ゴキブリ駆除が全て終わるまで、結婚してあげない」
って――
 そうしたら夏樹、目の色を変えてばりばり活動しはじめやがった……。
 一日でも早く結婚したいと、その体全部を使って表現するように。
 まったく、なんて男だろう。あの極悪魔神は……。
 ――やっぱり、大嫌い……。

 でもね、そんな夏樹が、嫌じゃないって思えるわたしが今ここにいるから不思議。
 そして、そんな夏樹が日増しに大切に……失えなくなってしまったわたしもまた、なんて奴だろう……だけれど――
 まったく……。うまい具合に、夏樹の罠にはめられたものだわ。
 ……ムカつく。大嫌い。

 あれから……わたしたちの関係は、よくも悪くもなく、そのままずるずるといった感じ。
 あのままでずるずると続いている。
 夏樹の犯罪全てを許し、そしていつか訪れるであろう婚姻届提出も許した。
 そう、あの時のまま。乙女部屋の乙女ベッドで、一緒にくすくすと笑った時のまま、わたしたちの関係は停滞中。
 でもいいの。
 わたしは、そんな今の関係が、けっこう気に入っていたりするから。
 夏樹の思いなんて、まったく関係ない。どうでもいいことよ? もちろん。
 まだまだ認めてやらない。許してやらない。
 これ以上、進展した仲なんて……。
 だって、怖いから。まだ……。
 まだね、ダメだっていっているから。わたしの心が……。
 全てを夏樹にゆだねたはずだけれど、だけどやっぱり……それは嫌。
 わたしの心はやっぱり、夏樹にはあげられない。
 心だけは、わたしだけのもの。
 それがわたしの最後の砦で、プライドなの。
 それだけは、ゆずれない。


 そんな感じで、夏樹は今日この日、いない。ここに。
 あの極悪男が好きそうなイベントの日に。
 夏樹のためにあるようなそんな日に。
 でもね、さすがは夏樹、ちゃっかりしている。
「夕方くらいには戻れるから……。茗子。今夜は二人きりで過ごそうね?」
 なんてとろとろにとろけそうなほど甘い顔をして、出かけて行ったの。
 もちろん、悪趣味な黒塗りベンツに乗り込む前に、当たり前のようにわたしにキスを落として。
 ……まったく。
 いつまでたってもどこまでいっても、エロエロ星人よね!
 ……最低。
 っていうか、エスカレートしているし……。
 人目をはばからず……というあたり――

 実は、夏樹の今日の予定。
 今朝、夏樹に言われる前から知っていた。
 ずっとずっと前から……。
 それは、耳元で、うんざりというほどささやかれていたから。
 久能さんに。
 ――まったく。やっぱり、どうにもいけ好かないバトラーだこと。その主人に似て。
 だから、予定していたの。今日、この日。この時間。
 夏樹が出かけて、そして帰ってくるまでのこの時間に、チョコを作ろうって。
 夏樹に秘密で作るには、この時間帯しかなかったから。仕方なく。
 あの夏樹のことだから、先に知られていたら、絶対とんでもないことになっちゃう。
 それこそ、どんなに大切な仕事でもあっさり放棄しちゃうわ。
 そして、チョコよりも甘い顔をしちゃって、とろ〜んととろけて、ずっとわたしの横にいるの。
 横にいて、わたしがチョコを作っていく一部始終を見ていたりするのだわ。
 もちろん、極上の幸せ笑顔を浮かべて……。
 時には、甘い甘い言葉をささやいたりして、わたしの作業の邪魔をするのよ。
 あの整髪料とシャンプーがまざったような香りに包まれ、あたたかい腕に抱かれ……。
 そうして結局、最後まで作ることができなくなる。
 そんなの、目に見えているわ。
 本当、想像しただけでも癪に障る男だわね。
「……久能さん。それ、どういう意味? わたしがチョコを作っちゃダメだというの?」
 明らかにあてつけるように驚く久能さんに、当然のようにぎろりとしたにらみを入れてやった。
 しかし、この久能さん。
 さすがは、夏樹に仕える、忠実かつ優秀なバトラー。
 そんなわたしのにらみなどさらっとかわし、ひょうひょうとしている。
 さらには、くすくすなんて、嫌な笑いをはじめる始末。
 ――こ、この男。この男も殴ってやりたいっ。
「いいえ。ご存分にどうぞ。茗子さま。夏樹さまもお喜びになられますよ」
 なんてけろっと言って、どこから持ってきたのか、木製の丸椅子にちょこんと腰かけた。
 わたしから、少しはなれたその場所に。
 そして、わたしに楽しそうに視線を向ける。
 ……ってあんた、そこに居座る気か。
 まったく、いい根性をしているわよね。本当……。
「ささ、茗子さま。それよりも、早く作業に取りかかりましょう。そうでないと、夏樹さまが帰ってきてしまいますよ?」
 どこかつかみどころがないといった感じでそこに居座ることを決め込んだ久能さんと、久能さんをにらみつけるわたしの間に、桐平さんはするっと体をすべりこませてきて、仲裁するようにそう言った。
 まったく……。甘いのだから、本当、桐平さんってば。
 極悪夏樹もこの性悪バトラーも、けちょんけちょんにやってしまってもいいのに。
 それくらいしてやらなきゃ、懲りないわよ。この二人は。
 この二人、まったくいい性格をしているのだから、本当。
 にこにこ微笑んで、さらっととんでもないことをしでかす奴らなのだから。
 たとえばどんなこと?なんて、そんなの、恐ろしくて言えないわよ。
「夏樹が帰ってくるって……。どうして? 夏樹が帰ってくるのは夕方でしょう?」
 怪訝な表情を浮かべ、首をかしげてみた。
 だって、本当にそうなのだもの。夏樹が帰ってくるのは夕方頃。
 それは、久能さんがずっと言っていることだし、今朝夏樹も言った。
 これだけは本当なの。これだけは、帰りの時間だけは、夏樹の奴、ムカつくことに嘘をついたことはない。
 それで、今はちょうど昼食を終えた時分。
 まだまだ時間はあるじゃない。
 チョコなんて、本当にすぐに作れちゃうシロモノなのだから。
 なのに、どうして……?
「茗子さまは、まだまだ甘いですね? 夏樹さまが、おっしゃった通り、夕方頃にお戻りになると、本当に思っていらっしゃるのですか? ……まだ」
 くすくすと笑いながら、愉快そうに久能さんが言ってきた。
 ちらっと、嫌味な視線を投げかけつつ。
 ……だから、楽しむのじゃない!
 っていうか、ムカつく。この上なく。大嫌い!

 って、はっ!
 でも、そうだったわ。あの極悪夏樹の行動パターンを考えれば、夕方……とか言っておいて、今すぐにでも帰ってきちゃうわ。
 それこそ、「早く仕事が片づいたから、茗子に会いたくて飛んで帰ってきちゃった」とか何とか言って。
 あまつさえ、その背には、本当にはえているような幻すら見えたりして。天使の羽。
 もちろん、悪魔な微笑みを隠した天使の微笑み。
 またの名を、極悪悪魔のドスケベ微笑み。
 それでもって、当たり前のようにお姫様だっこをされて、乙女部屋へ放り込まれる……。
 何度となく経験してきたじゃない。わたし……。
 わ、忘れていたわ。不覚!
 つい何日か前も、同じパターンをたどったばかりだというのに!!
「だけど茗子さま。本当にチョコをお作りになるおつもりなのですか? 夏樹さまは、その……」
 おずおずと、いいにくそうに桐平さんが言葉をしぼりだす。
「知っているわよ、もちろん。夏樹は甘いものがダメだって。だからじゃない。だから、あえて作るのよ。日頃のお返しをたっぷりさせてもらわなくちゃっ」
 満面の笑みでそう答え、口笛なんか吹きながら、加工用のブロック状のチョコを袋から取り出す。
 そして、だんだだんと溶けやすいように細かく砕いてから、ぽいっとボールへ放り込み、湯せんの準備。
 チョコを溶かす時、直火はダメなのよ、直火は。
 湯せん。これ、常識!
 ふふっ。いくら、『ケーキを作らせたら、スポンジがかちかちで食べられたものじゃない。下手をすれば、ぽろっと歯が欠けちゃうかも。クッキーを焼かせたら、炭。これじゃあ、体をこわすわよ。いちばんすごかったのが、マフィンを作った時。ば〜んとオーブンごと爆発しちゃった。てへっ』なわたしでも、それくらいの基本は知っているわよ。わかっているわよ。
 横で、目を見開き、驚きまくらなくてもね。桐平さん。
 まったく、失礼しちゃうわね。
 ……やっぱり、ムカつくわ。大嫌い。


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update:04/02/01