幸せのカタチ
(1)

「茗子さまが、お風邪を召されました」
 屋敷へ戻ると、ぼくの忠実なるバトラー、久能が神妙な顔でそう告げてきた。
 脱いだばかりのスーツの上着を、うやうやしく受け取りながら。
 まだ、玄関ホールに足を踏み入れたばかりだというのに。
 まるで気が急いているように。
 いや、事実、今久能が口にしたことは、重大なことなのだけれど……。
 あくまで、ぼくにとっては、という修飾語がつくことも久能は心得ている。
 まったく、我が家のバトラーながら、時々癪に障る。
「え……?」
 その言葉を聞き、当然ぼくは顔をゆがめずにはいられなかった。
 そして、胸にわき上がる、胸をしめつけられるこの痛み……。
「それと……食べたくないとおっしゃり、昼頃から何も召し上がってくださらないのですが……」
 胸に痛みを抱えるぼくの耳に、さらに追い討ちをかけるように久能の言葉が届く。
 やはり、どこか神妙な面持ちで。
 彼女ではないが、この男に腹だたしさを覚える……というのも、最近はうなずける。
 以前は、このような男ではなかったはずなのだが……。
 彼女がきてから、この屋敷の人間は、明らかにぼくを軽んずるようになったように思えてならない。
 彼女の味方をしているようで……。
 この屋敷の主人は、ぼくのはずなのだけれど?

 彼女のかわいそうな現状を聞き、胸に痛みを覚えていたはずなのだが、その瞬間、ぴんとあることをひらめいた。
 いや、ひらめいてしまった……というべきか?
 こんな時、いちばんに考えるべきことは、こんなことではないはずなのに……。
 ぼくはいつも、気づけば、彼女を罠にはめることばかり考えている。
 彼女を……ぼく一人のものにしたくて。
 彼女の気をひきたくて。
 独り占めしたくて。
 誰にも触れさせたくなくて。
 誰にも見せたくなくて。
 かごに閉じ込めてしまいたくなる。
 逃げないように、ぼくだけの小鳥に……。
 だけど、できない。
 自由に飛びまわる彼女が好きだから。
 それでも、欲望には勝てなくて……。
 彼女の怒った顔を思い浮かべ、罠をはる。
 そして、それはいつも成功するのだけれど、案の定、彼女に怒られてしまう。
 そんな怒った彼女がまたとてもかわいくて、ついつい同じことを繰り返してしまう。
 何度も何度も繰り返し……ぼくは成長しない。
 だけど最近では、彼女はもう諦めてしまったのか、無駄な抵抗はやめたのか、五回に四回くらいは、素直に――いや、渋々?――ぼくの罠にはまってくれる。
 それが罠だとわかっているはずなのに……。
 そうして、ぼくはいつも彼女を堪能する。
「久能……。あれを用意してくれ」
 ひらめきと同時に、つぶやいていた。
 すると久能は、「あれ……でございますか?」と少し首をかしげた。
 わかっているはずなのに、この男はすぐとぼけてみせる。
 何しろ、そのすぐあとに「ああ!」とわざとらしく言って、くすくすと笑い出すのだから。
 それが何よりの証拠。
 ……やはり、この男だけは、どうにも食えない。
 久能にも、ぼくが言いたいことは当然わかっている。
「只今、ご用意いたします」
 そうにっこり笑って、足取り軽くぼくの前を去っていく。
 まったく、この執事も、主人のぼくに似て、いい性格をしている。
 ――そう思うようになったのは、多分に彼女の影響。
 「本当、ムカつくわね。ここのバトラー。誰かさんに似てっ」なんて、憤りながら言ってくるから。
 それは、一度や二度の話じゃない。
 ぼくが久能と結託してからかう度、彼女はめいっぱい力をこめて言ってくる。
 ……そう考えると、久能は彼女の味方ではなく……ぼくら二人の敵?
 しかし、そんな彼女がかわいいと思う辺り、やはりぼくはもう彼女にやられている証拠だろう。
 今すぐにも彼女に触れたくて、この腕で抱き寄せたくて。
 この胸で抱きしめたくて。
 狂おしくなる。
 彼女のことを知れば知るほど、愛しさが募っていく。
 そして、気づけば駆け出していた。
 この屋敷の二階、ぼくが彼女のために用意した、二人だけの部屋。
 最近、ぼくら以外は立ち入ることを禁じた部屋。
 ぼくらだけの部屋。
 彼女に言わせると……そこは乙女部屋らしい。
 ぼくに言わせると、愛の巣なのだが……。
 彼女へのぼくの愛で作った部屋なのだから、愛の巣が最もふさわしいだろう。

 愛の巣までかけて来て、ドアノブに手をかけた途端、はたと気づいた。
 このまま勢いよく扉を開けてはまずいかもしれない。
 もしかしたら、彼女は今眠っているかもしれないから。
 せっかくの彼女の眠りを邪魔するのは、本意ではない。
 そして……すやすや眠る彼女の寝顔は……やはり天使のようだから。
 いや、女神……。
 ぼくだけの、汚れなき女神。
 ――口は悪いけれど。それが玉に瑕。
 だけど、それも愛しいから不思議。
 そして、仮に起きていたとして、こんな慌てた姿を見せるのも……なんだか格好悪いような気がする。
 ぼくは、彼女の理想の王子様でいたいから。
 彼女はそうは言ってくれないけれど、そうだとぼくは信じている。
 彼女は時折、本当にうっとりとぼくを見つめてくれるから。
 それが、ぼくに根拠のない自信を与えている。
 愛しい愛しい彼女のためになら、何だってできる。

 一度ドアノブから手をはなし、すうと深呼吸を試みる。
 少し、落ち着かなければ。
 そして、再びドアノブに手をかけようとした時、
「夏樹さま……」
そう言って、久能が現れた。
 手には、先ほどぼくが頼んだあるものを持って。
 そして久能の奴、にやりと微笑み、「健闘をお祈りします」と言って、楽しそうにぼくの前を去っていった。
 ……まったく。茗子ではないけれど、ぼくも、時々、この優秀なる執事を殴りたくなることがある。
 本当に、腹立たしい男だ。
 この後の展開が、手に取るようにわかると言いたいのだろう。恐らく。
 ――まあ、大方、ぼくも予想はつくけれど……。
 ぼくが勝つか、彼女が勝つかのどちらかしかない。

 久能が今言ったこと。
 それはつまり……また茗子が思い通りになってくれない。
 しいては、ぼくが茗子に殴り倒される……。そう言いたいのだろう。
 ぼくは……お前の主人だぞ!?
 手にしたそれをぎゅっと握り締め――恐らく、久能への怒りから――扉をゆっくりと開けた。
 あくまで冷静、そしてさわやかさを装い。
 彼女に罠をしかける度、本当は心のうちは乱れている。
 どきどきと、彼女のことを思い、胸は高鳴る。
 だけどそんなことは、絶対に彼女に悟られてはならない。
 悟られてしまったら、もう罠をはれなくなるから。
 だから、あくまで冷静を装い、そして余裕をみせて。
 彼女はまだ……ぼくは極悪だと思ったままだから。
 本当はそうじゃなくて、ぼくも普通に緊張したりどきどきしたりするのだけれど……。
 だけど、彼女がそう思っているなら、いつまでもそれを演じてもいいと思う。
 それを口実に――きっかけに?――少しでも彼女に触れることができるのなら。
 彼女は本当に、やわらかくて、あたたかくて……そして、気持ちがいいから。
 彼女に触れているだけで、ぼくは幸せになれる。
 ほっと、心が安らぐ。
 彼女だけが、ぼくに安らぎをくれる。
 彼女は、そんなつまらないぼくに気づくことはないだろう。
 何しろ、気づかれないように、いつも気をはっているのだから。
 気づかれてたまるものか。
 ぼくは、彼女の前では、常に完璧でなければならない。
 ……いじわるもいっぱいするけれど。
 それは、彼女への愛ゆえに――


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update:04/03/06