執事が見たヒトコマ
(1)

 わたしは、鳳凰院本家に仕える、忠実かつ優秀なバトラー。
 ……に見せかけて、実はまったくそうではないバトラー。
 ただ、そう振る舞っているにすぎない。
 だからといって、決して主人に不満があるわけではない。
 むしろ、好感を抱いているだろう。
 我が子のように思っているかもしれない。
 ずっとずっと小さな頃から、主人の成長を見守り続けてきたから……。

 この屋敷へやってきた時からずっと見ている主人。
 この鳳凰院という家は、いろいろと問題を抱える家である。
 主も……そんな鳳凰院の犠牲になった一人だろう。
 そう、まだ主人が幼いその日、この屋敷へはじめて足を踏み入れたあの時の顔を、わたしは今も忘れることができない。
 全ての希望に……幸福に見放されたような、死人の目。
 体は生きているけれど、心は死んでいる。
 そんな目をしていた。
 まだ十年しか生きていない、その小さな子供は。
 そんな主を目にした瞬間、わたしの中に、ある感情が芽生えていたのかもしれない。


 あの日の出会いより、十六年が過ぎた。
 前の主を亡くし、もう二年が過ぎようとしている。
 月日とは、無情にも流れるものである。
 最近、それをやけに実感してならない。
 あの日見た少年は、その後も変わることなく死人の目をしながら生きていた。
 この鳳凰院という大きな力に押しつぶされないよう、必死に。
 しかし、そんな主が、ある日突然変わった。
 鳳凰院との戦いしか知らなかった主が、変わった。
 それは、半年前のこと。
 死んでいた主が、再び生を取り戻した。
 それは、たった一人の女性によって。

 これといって美しくも――いや。美しくはないが……どちらかといえば、かわいいの部類には入ると思う――なく、気立てがいいわけでもない。
 どちらかといえば、気が強くてわがままで、天の邪鬼で素直じゃない、手がかかる子供のような女性。
 そのような、普通――普通? それも問題があるかもしれないが――の女性が、あの主を変えた。
 奇跡が起こったと思った。
 それは、わたしに……いや、我々にとって、どれだけ驚かされることだったろう。
 わたしはそのことを事前に聞いていたが、何も知らないここの使用人たちは、ある日ふとやってきた彼女に、当然驚きを禁じえなかった。
 あの……他人をよせつけない主が、とても優しい人の顔をして、愛しそうに胸に抱くその女性。
 彼女を見つめる主のその顔を見た瞬間、誰もが救世主が現れたと思ったに違いないだろう。
 そう。我々の……ではなく、主ただ一人の救世主。
 彼女は、主の心しか救えない。
 誰もとかすことのできない主の氷の心をとかすことができるのは、彼女だけ。
 この世にたった一人。主に無条件で愛されている、あの女性だけ――

 そして、告げられた主の非常識な計画に、我々は手放しで協力することになっていた。
 気づけば。
 犯罪めいたそんなことにもかかわらず。
 それもこれも全て、ここの人が悪い当主の計画の内だった。
 当然、わたしはそのことを知っていたけれど。
 何しろわたしは、この鳳凰院本家の、忠実かつ優秀なバトラーなのだから。
 知らないはずがないだろう。


「茗子。茗子は、桃が好きだったよね?」
 ある日の夕食の席で、わたしの主、夏樹さまが突然そのようなことを言い出した。
 いつものように、どこか企む節のある、胡散臭い微笑みを浮かべ。
 当然、このような夏樹さまの表情など、見たことがなかった。茗子さまがこの屋敷にやって来るまで。
 いや……。
 この茗子さまがやって来るまで、夏樹さまに、表情といった、そのような人間らしいものが備わっているなど、知らなかったかもしれない。
 茗子さまがやって来てから、夏樹さまは本当によく表情を変えられるようになった。感情をあらわされるようになった。
 よく笑われるようにもなった。
 いつもいいように夏樹さまに扱われる茗子さまには申し訳ないけれど……それがとても嬉しく思えてならない。微笑ましい。
 茗子さまをからかって――いや。あれは、ただたんに、ご自分の欲望を満たされているだけか?――楽しまれる夏樹さまは、本当に幸せそうに微笑んでおられるから。
 生きながら死んでいたあの夏樹さまが、このように生き生きとされておられるのだから、これにこしたことはないだろう。
 このような夏樹さまを見ることができるのなら……茗子さまには、何がなんでも犠牲になったままでいてもらわなければならない。
 夏樹さまという悪魔への最高のいけにえは、茗子さま、その人なのだから。
 ……まあ、夏樹さまが生き生きとされる時はいつも、何かしら茗子さまにいたずらをしかける時と、相場が決まっているのだけれど……。
 そして、五回に一回くらいの割合で、とんでもない返り討ちにあわれる。
 あんなに痛い目にあわれながら、毎回毎回、茗子さまによくいたずらをしかけられるものだ……と、最近では、少し呆れてしまうくらいである。
 まあ、それほどに、夏樹さまは茗子さまをお好きなのだろうけれど……。
「何よ、突然。脈絡なくそんなことを言い出して」
 当然、もう半年も一緒に過ごしていれば、このような時は決まって、夏樹さまがよからぬことを企んでいるなど、茗子さまにもお見通しのよう。
 あからさまに訝しそうに夏樹をさまをにらみつけ、嫌そうに言葉を返す。
 その顔は、多少ひきつっていたかもしれない。
 わたしがわかるように、茗子さまにもわかってしまうのだろう。
 この後、当たり前のように、夏樹さまのいたずらが仕かけられると。
 持っていたフォークとナイフをかちゃんと皿の上におき、びくっと身構えた。
 そのような茗子さまを見て、夏樹さまはやはり楽しそうにくすくすと笑い出す。
 これではまるで、びくびく震える小動物にいたずらをしかける、悪ガキではなかろうか?
 まあ、さして大差はないだろうけれど……。
 今のお二人を見る限り。
 そして、案の定、またはじまる。あれが……。
 わたしは、そのようなお二人を、そのまま傍観することに決め込む。
 お二人が食事をとられているそこから、一歩ひいたここに立ち。
 これもいつものことだけれど、夏樹さまのいたずらに協力することはあっても、茗子さまを助けることなど絶対にしない。
 何しろ……わたしは、夏樹さまの幸せを願う、優秀なる執事だから。
 夏樹さまの幸せがそこにあることも、わたしは知っている。
 夏樹さまの望むことなら、たとえ誰が犠牲になろうと、わたしはこうして静かにその成り行きを見守るだろう。
 本当に……茗子さまには気の毒だけれど。
「いいから、答えて。ねえ? 好きでしょう?」
 びくびくと警戒をあらわにする茗子さまに、夏樹さまはなおも執拗に食い下がる。迫る。
 そうなると当然、茗子さまはあっさりと折れてしまう。
 かつての威勢のいい茗子さまは、最近ではあまり見られなくなったように思う。
 それはまあ、茗子さまの敵が、夏樹さまお一人から、由布さまとわたしを含めた、茗子さま以外全てに、今ではなってしまったからかもしれないが。
 本当に茗子さまは期待通りの反応をかえしてくれるので、おもしろくてついつい夏樹さまと一緒になりからかってしまう。
 これは、この屋敷の優秀なる料理人、桐平も言っていることである。
 かの同僚とは、夏樹さまの目を盗み、しばしば茗子さまで遊ばせていただいている。
 それでも、茗子さまの意地っ張り、天の邪鬼ぶりはご健在だから……ある意味尊敬に値すると思う。
「う、うん……。だけど、それがどうしたの?」
 やはり、ここのところの茗子さまは、めっきり夏樹さまの押しに弱くなってしまったようである。
 かつて……ここへやって来られた頃は、それはそれは楽しいくらいに抵抗されていたというのに……。
 残念ですよ。もう少し、抗ってみせてください。
 まったく……もう少し粘ってもよさそうなものなのに。
 もう少し夏樹さまをじらしてもよろしいのに……。
 そうすれば……余計に楽しいことになるのに……。
 と、いつの間にか、茗子さまを応援しているようにみせかけ、実は夏樹さまをあおっていたりする。
 まったくもって、わたしという人間は、主に似ていい性格をしているな、と最近つくづく思う。
 これは……茗子さまの影響かもしれないが。
 茗子さまはしばしば、わたしに面と向かって、「ここの執事って、その主に似て、本当、癪に障る嫌な人よね」と言われるから。
 そう言われ、ぷうと頬をふくらませる茗子さまが何だかおかしくて、やはりわたしは夏樹さまに手を貸してしまう。
 だから、わたしは、決して茗子さまに手を貸さない。
 こうして、ただその後の成り行きを見守っているだけ。
 これがまた……なかなかにおもしろいのですよ。
 くすくすくす……。


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update:04/04/12