ちょうどいい距離
(1)

 つむっている目に、うっすらと朝の光を感じ、ゆっくりと開けていく。
 ぼんやりとかすんだその視界に、いちばんはじめに入ってくるもの。
 それは、いつも決まっている。
 毎朝、その景色からはじまる。
 目覚めたわたしの前には、いつも……優しく微笑む夏樹の顔がある。
 その顔を見ると、ろうそくの灯がぽっとともったように心があたたかくなり、幸せになる。
 妙におだやかな気持ちで、一日がはじまる。


「茗子。おはよう」
 ふわふわの乙女ベッドの中で、まだ眠い目をこすっていると、そうして、決まったようにキスが降ってくる。
 おはよう、のキス。
 朝の日課……。
 ――っていうか、ちょっと待って。
 そこで流されてどうするの。茗子!
 この男は、天使の仮面をつけた、極悪エロ悪魔なのよっ。
 それくらい、嫌というほどわかっているでしょう!?
 もう、本当。いつもいつも、この男はっ。
 朝から、一体何を考えているのよ。
 最低〜……。
「夏樹〜。いつも言っているけれど、やめてよねえ、それ。気持ち悪い」
 わたしの顔のすぐ目の前にある夏樹の顔を、ぐいっとおしのける。
 本当に、この男は一体、何を考えているのよ。
 どうして、寝起きから、そんな極あまにあまったる〜い顔ができるかなあ?
 いつもの極悪悪魔な表情は?
 ……っていうか、そのあま〜い顔の下に、思いっきり悪魔な顔が隠れているとわかっているから……。
 あ……頭が痛い。
 当然のことながら、そんな非難をあびせたって、この男が動じるはずがない。
 一晩中そうしていたように、またぎゅっとわたしを抱き寄せる。

 夏樹は……毎晩のように、自分からすすんで腕枕をしてくる。
 そんなことをして、腕がしびれないのかな?
 と思うことはあるけれど、この男には、そんなものは無用の長物。
 だって、「こうして常に茗子に触れていないと、不安で眠れない」と、にっこりと微笑んで言ってくるもの。
 う〜わ〜。すっごく嘘くさいっ。っていうか、それ大嘘でしょう。
 たかだかわたしに触れていないだけで、眠れないはずないじゃない。
 だって、わたしと再会するまでは、夏樹、絶対、一人で寝ていたのだから。
 ……そうじゃなかったら、許さないからねっ。

 ……まあね。別に……いいけれどね。
 腕枕といっても、わたしがするわけじゃないから、痛くもかゆくもないもん。
 だけど……たまには一人で寝かせてほしい……。
 ……とは、もう思わない。
 わたしも、夏樹じゃないけれど、こうして夏樹のぬくもりを感じていないと、もう眠れないから。
 このぬくもりがないと、安心できないから。

 いつからだろう?
 こうして、夏樹なしじゃ、夜が明けなくなったのは。
 こうして、夏樹の胸の中じゃないと、眠れなくなったのは。
 夏樹の胸は、大きくて、あたたかくて、とても安心できる。
 どんなことがあったって、この胸の中の楽園がある限り……わたしは、安心して眠ることができるのかもしれない。

 そう思うと、心はきゅうとしめつけられるような幸せに襲われる。
 それと同時に、何を思ったか、わたしから、夏樹の胸にぎゅうと抱きついていた。
 うん。やっぱり、ここはいいよ。
 あたたかくて、優しくて……。
 胸の中だけなら、好きになってあげてもいいわ。
 他は……やっぱり、大嫌いだけれどね?

 こうして、夏樹にぎゅっとしていると、いつものシャンプーと整髪料がまざったような香りが漂ってきて……。
 頭の芯が、くらっとなる。

 夏樹ってば、珍しくわたしから抱きついたものだから……目を見開いて、硬直しちゃっている。
 さらっと、いつもの意地悪な笑みを浮かべることも忘れて。
 ん〜。たまには、いいかもしれないわね。こういうのも。
 夏樹を驚かせるには、こうするのがいちばんと、そう知っているのだから。
 ……と言っても……ついこの間、そのように、久能さんに教えてもらった……が本当だったりするけれど。
 あまりにも夏樹が執拗にぎゅっとしてくるから、いい加減うんざりして、久能さんに愚痴ってみた。
 そうすると、久能さんってば、
「では、茗子さまから、夏樹さまにぎゅっとされてみてはいかがです? とっても楽しいことになりますよ」
なんて提案してきて……。
 それは、いつもの久能さんの嫌がらせだと思っていたけれど……。
 案外、本当なのかもしれない。
 どうして夏樹ってば、わたしからこうしてくっついていくと、驚いたような目で見てくるの?
 そして、ちょっぴり頬が赤くなるの?
 そんなに……不思議?
 わたしからぎゅっとしていくのって……。

 ――嗚呼。はいはい。不思議ですね。天地がひっくり返るくらい。
 ……ふーん。そうすると……この手って、案外、使えたりする?
 こんなこと、わたしからしちゃったら、自ら夏樹の餌食になりにいくようなもの……。
 そう思っていたけれど……。
 案外、そうじゃないのかもしれない。
 い〜いこと、知っちゃったっ。
「……茗子? どうしたの?」
 ようやく硬直から解放されたのか、ぎゅっと夏樹の胸に顔をうずめるわたしの頭に、そんな優しい声が降ってくる。
 さらり……と、わたしの髪をすきながら。
 ちょっぴり、心配そうな色をはらんだりしている。
「ううん。なんでもない」
 それに気づいているけれど、気づいていないふりをして、そうして、もうちょっとだけぎゅっとしてみる。
 すると、わたしの髪に、ふわっと触れるあたたかいものが……。
 夏樹の唇が……わたしの髪に触れていた。
 髪に……キスされている。
 夏樹のやつ、早速調子にのりやがった。
 ……でも……まあ、いいか。
 今なら、今だけなら、許してあげる。
 ずっと前のわたしなら、夏樹と再会した頃のわたしなら、即座に張り飛ばしているところだけれど……。
 なんだか、胸がくすぐったくなって、夏樹の胸の中でくすくす笑っている。
 そうして、今度は、夏樹に抱きつくわたしを、夏樹は、強く、だけど優しく包み込むように、ぎゅっと抱きしめてきた。
 ……うん。
 これは、いいかもしれない。
 なんだか、嬉しい気分にさせられるから。


 この距離がいい。
 ちょうどいい。
 いちばん好きな距離。


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update:04/10/18