ちょうどいい距離
(2)

「くすくす。おかしなの。茗子があまえてくるなんて」
 抱きしめたわたしの体を、いとも簡単にあっさりと、夏樹は仰向けになった自分の体の上にのせていく。
 そしてそこで、やっぱりぎゅっとわたしを抱きしめ、優しい微笑みをくれる。
 わたしにあまえられたことが、至上の幸福という顔をしている。
 ……やめてよね。
 なんだか、こっちが恥ずかしくなっちゃうから。
 だけど……今は、わたしを抱きしめるこの腕を放そうとは思わない。何故か……。
「別に……いいじゃない。たまには、わたしだってそういう気分に……」
 ぷうと頬をふくらませ、口をとがらせてみる。
 これは、いつもわたしがする、すねた素振り。
 夏樹は、わたしが本気ですねていると思っているみたいだけれど――

 本当は、そうじゃないのだよ?
 ただ……恥ずかしいだけ。
 だって……最近では、夏樹がどうしてわたしをぎゅっとしたがるのか……なんだか、その気持ちがわかるような気がするから。
 理由なんてないのだよね。
 意味なんてないのだよね。
 ただ、その時、触れたいって、抱きしめたいって、そう思うだけ。
 理由なんて必要なくて。
 意味なんて必要なくて。
 ただ、そうすることが、幸せだと思える。
 心が求めているだけ。
 それに、素直になるだけ。
 これが、わたしたちの幸せな時間に、ちょうどいい距離。
「うん。そういう茗子は稀だから、ぼくも堪能させてもらう」
 なんだか、かみ合わないそんな言葉を返してきて、夏樹は幸せそうに微笑む。

 その顔……卑怯。
 そんな顔をされたら、このままばちんと夏樹の顔をひっぱたいてやろうと思っていたのに、できなくなっちゃうじゃない。
 なんだか……悔しい。
 むっつりすねたそのままで、わたしはぽてっと夏樹の胸に頭をあずける。
 ……やっぱり、ここがいちばん好き。
 他の何よりも。


「おや? ――おはようございます。……今朝は、いつにもまして、仲のよろしいことで」
 夏樹の胸の上で、再びうとうととはじめてしまったわたしの耳に、突如、そんなとんでもない言葉が飛び込んできた。
 一体、誰と誰が、仲がいいですって!?
 驚いて、がばっと顔を上げると、開けられた扉のもとに立つ久能さんの姿。
 ……これも、朝の日課。
 いつもいつも、毎朝毎朝、夏樹ってば、時間になっても部屋から出ようとしない。
 それは、毎朝、しつこいくらいに、ベッドの中でわたしを抱きしめているから。
 「もうちょっと」なんてそんなことを言って、五分十分とのびていくのなんて当たり前で……。
 それで、もうこれ以上は駄目という時間になると、久能さんが仕方なくお目覚めのご挨拶とやらをしにやってくる。
 そこでわたしは、ようやく、いつも夏樹から解放されるわけだけれど……。
 今日、久能さんが乱入してきた時には、わたしはいつもと違って、夏樹に抗うのじゃなくて、夏樹の胸でうとうとと……。
 悔しいけれど、そりゃあ、そんな言葉も飛び出すわよね。
 っていうか、何、それ。
 まるで狐につままれたような顔をしないでよね。久能さんってばっ。
 なんだか、腹立つ執事よねっ。
「……久能か……。今日は、このまま休みにするよ」
 夏樹は、扉にいる久能さんに一瞥すらあたえることなく、ベッドの中でさらっとそう言い捨てる。
 そして、「んん……」なんて、目覚めの悪い朝のような声をもらし、そのままきゅっとわたしの髪に顔をうずめてきた。
 ……って、ちょっと〜、夏樹。
 あんた、本気で休む気ねっ!? 起きない気でしょう!?
 こんのぐうたら社会人がっ!
「夏樹! あんたはまたそんなこと言って。ほら、起きないと、もう一緒に寝てあげないからね」
「茗子。そんなことを言っていいの? ぼくがいないと眠れないくせに。今日は、茗子からぼくに抱きついてきたのに」
 むうと眉間にしわを寄せ、「せっかく茗子のために休みにしたのに」と、あてつけがましい眼差しをわたしに向けてくる。
 っていうか、そんなむちゃくちゃな理由で休みにしないでよ。
 いや……。その前に、とてつもなく聞き捨てちゃならないことを言われたような?
 一体、誰が、誰がいないと眠れないって!?
 それは、夏樹。あんたでしょう!
 わたしがいないと眠れないって、いつもあんたが言っているのじゃないっ!
 んもう。大嫌いっ。
「たわけっ!」
 だから当然、わたしの怒声が響くのだけれど……。
 夏樹の胸にぎゅっと抱きすくめられているわたしには、わたしの体を自由にすることなんてできない。
「あ〜。もう、はいはい。夏樹さま。ちゃちゃと起きてくださいよ。……そうじゃないと、茗子さまとのご結婚の日が遠のきますよ? たしか、茗子さまとお約束されていましたよね?」
 はあと盛大なため息を、当たり前のようにあてつけがましくもらし、久能さんがずかずかと乙女部屋の中に入ってくる。
 最近、夏樹が立ち入ることだけじゃなく、近づくことさえ禁じたこの乙女部屋へ。

 久能さんにとっては、夏樹のそんな命令なんて、取るに足りないみたい。
 忠実なふりをして、実は案外、ちゃっかり命令違反を繰り返している。
 それだけじゃなく、暴言ともとれる言動を……この鳳凰院本家の忠実かつ優秀なバトラーはよくする。
 本当、忠実で優秀なんて、よく言ったものよね〜……。

 そして、その約束。
 たしかにわたし、ゴキを一掃しないと結婚してあげないと言ったけれど……。
 まさか、本気にしているなんて。
 でも、もうちょっとだけ本気にしていてもらってもいいと思う。
 ……そうじゃないと、わたしが危ないから。
 今すぐにでも、バージンロードを歩かされかねない。
 それは……まだ、もうちょっと嫌。
 まだ、ほんの少しだけ、心の準備ができていないから。
 だから、あとちょっとだけ、待っていてよね。夏樹。

 やだっとだだをこねはじめる夏樹を、わたしをくっつけたまま、久能さんは強引に起こさせる。
 当然、夏樹のするどいにらみが久能さんに注がれるわけだけれど……。
 久能さんってば、案の定、涼しい顔。
 さ、さすがだわ。久能さん……。
 きっと、この鳳凰院本家で、久能さんに勝てる人なんて……いないと思う。
 主であるはずの夏樹でさえも、この扱いなのだから……。
「……仕方ないか。ぼくだけの茗子のかわいいウエディングドレス姿が遠のくとあっては……。起きるしかないね……」
 夏樹はぶんと久能さんを振り払い、ぶつぶつ言いながら、のっそりとベッドから起き上がる。
 当然、ちゃっかりと、わたしを抱きしめたまま……。
 というのが、何とも夏樹らしいけれど。
「っていうか、一体、誰がいつ、あんたと結婚すると言ったのよ」
 お姫様だっこされ、ベッドから連れ出されたわたしは、夏樹の胸の中で、そうひとりごちていた。
 ――まあ、言った……ような気はするけれど……? あくまで、気がするだけよ。
 もちろん、その瞬間、夏樹の体がぴくっと反応していたけれど、何も聞こえなかったというふりをして、ご機嫌に乙女部屋を出て行く。
 もちろん、わたしを抱いたまま。
 ……って、夏樹……。
 あんた、今の今までだだをこねていたのに……。
 どうして、そうご機嫌なのよ?
 本当、この男って、一体何!?
 いまだに、よく……全然わからない。

 ちらっと夏樹の顔を見上げると、あまく優しい微笑みを浮かべていた。
 そこには、悪魔な素顔なんてみじんもなく。


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update:04/10/24