ちょうどいい距離
(5)

 いつも、久能さんが厨房に引っ張り込んでくる木の丸椅子に座り、そこからぼんやりと冷蔵庫を観察している。
 あれから……十分。
 まだ、開けられない。
 まだ、かたまっていない。
 早く、時間、たたないかな〜。
 きっと、出来上がったゼリーは、ぷるんぷるんとしているに違いないもの。
 さっき、「出来上がったものが、間違ったシャーベットとかになっていたら愉快ですね。そうなると、さすがは茗子さまと誉めてさしあげなければなりませんね」なんて、憎らしい暴言をあのバトラーははいてくれやがったから。
 だから、それがはずれだって、証明しなくちゃならない。
 できるだけ早く。ムカつくから。
 本当、なんてバトラーかしらっ。
 普通、そんな暴言はく!?
 まがりなりにも、自分の主人の婚約者にっ。
 ――なんか、この婚約者というのが、いちばん腹立つのだけれど――
 ……ああ。
 ここのバトラーなら、しかねないわ。
 だって、主人でもへっちゃらで、暴挙に出られる人だから。この執事さん。
 そんな回想をしていると、なんだかまた、だんだんとムカムカしてきたわっ。
 ったく。どこかの極悪当主じゃないけれど、本当、ムカつくっ。
 んぎぎぎ……とコーヒーゼリーを入れた冷蔵庫をにらみつけていると、ふいに頭の上から言葉がふってきた。
 それと同時に、わたしの視界は、一瞬真っ黒。何も見えなくなる。
「茗子さま。これ」
 その声の主は、声からわかっているから、今さら確認も何もないけれど……。
 目の前が真っ暗なその理由がわからない。
 だから、何事?と、くいっと上を見上げてみると……椅子に座るわたしの後ろに、にっこりと微笑む久能さんがいる。
 そして、その手に持たれているのは……雑誌?
 しかも、女性向けの。
 ちょうど、わたしのような年代の女の子が好んで読む雑誌。
 ……これで、暇でもつぶせということ?
 そのように久能さんを見ると、にっこり微笑んで肯定した。
 それで仕方なく、せっかく持ってきてくれたから、つき返すのも何だと思い、久能さんから雑誌を受け取る。
 その雑誌には、ちょうど真ん中辺りに付箋のようなものがされていて……。
 気になって、その付箋のページを開いてみると……。
「え……?」
 そう小さく声をもらし、わたしはそのままかたまってしまった。


 二階のいちばん南の部屋。
 乙女部屋の乙女ベッドの上で、ごろごろしながら夏樹が帰ってくるのを待っている。
 もうゼリーはできあがっちゃっているから、あとは夏樹が帰ってくるのを待つだけ。

 ……味見?
 そんなもの、怖くてできるわけないじゃない。
 だって、でろでろに甘くしちゃっているのだもの。
 お砂糖たっぷり入れて。
 そんなもの、やっぱりわたしが食べられるわけがない。
 夏樹のためだけに作った、復讐ゼリーなのだから。

 今朝、夏樹の胸の中で目覚めたこのベッドは、やっぱり、夏樹の香りがする。
 もう夏樹の香りがしみついちゃっているんだ。
 さすがに……一年も一緒にここで寝ていたらね〜……。
 香りもしみついちゃうわよ。移っちゃうわよ。
 なんだか、ここでこうしてごろんとしていると……シーツにくるまってみると、夏樹に抱きしめられているみたいで、どきどきする。

 そろそろ日が西に傾きかけ、空が茜色に染まりはじめた頃。
 一階の方がざわつきだした。
 そして、そのすぐ後に、ポーチで車のブレーキ音。
 ……夏樹が……帰ってきた。
 そう思うやいなや、がばっとベッドから起き上がり、乙女部屋を飛び出していた。
 そして、だだっと一階へ続く階段へ走る。
 少し息を切らせ、階段までやってくると……そこには、優しい微笑みを浮かべ、こちらを見上げる夏樹の姿があった。
 そして、もちろん、
「茗子、ただいま。今帰ったよ」
そう言って、わたしににっこりと微笑みかけてくる。
 ほわんと、心が一瞬で、春の陽だまりになる。
 そんな夏樹に引っ張られるように、わたしは階段を駆け下りていく。

 ……不思議。
 どうして、夏樹の姿を見つけただけで、こんなに心がはやるのだろう。
 一分一秒でも早く、その胸に飛び込みたいって……。
 どうして、そんなあってはいけない思いがわいてくるのだろう。
 こんな、世界一大嫌いな、極悪悪魔相手に。

 この広くて大きい鳳凰院本家の屋敷の階段。
 階段を駆け下りたって、そう簡単に駆け下りられるわけがない。
 まだ、三分の二しかきていない。
 なんだか、もどかしくって仕方がない。
 早く、その胸に飛び込みたいっ。
 だってほら、手を広げて、夏樹が待っているのだもの。
 その胸に、飛び込んでおいでって。
 本当、なんて奴。
 もうすっかり、わたしが迷わずそこへ行くと思っているのだから。
 調子にのるなというのよね。
 気づけば、どうにも我慢ならなくて、そこからぽんと階段を蹴っていた。
 そして、舞い上がるわたしの体。
 夏樹めがけて落ちていく。

 ……どすん。
 そんな大きいのか小さいのかわからない微妙な大きさの音をさせ、わたしの体は階段下に倒れていた。
 だけど、直接床にたたきつけられたわけじゃない。
 だって、全然痛くないもの。
 それにほら、こうして、わたしの下には夏樹がいるのだもの。
 わたしの肩と腰に手をまわし、髪を少し乱した夏樹。
 スーツの上着なんかも、乱れちゃっているかもしれないわね?
「め〜い〜こ〜……」
 わたしの頭のすぐ上から、そんな恨めしそうな低い声が聞こえてくる。
 そして、同時に向けられる、夏樹の非難の眼差し。
 どうやら、見事キャッチできたからいいものの、突然わたしが飛び降りちゃったりしたものだから、夏樹ってば、かなり焦ったみたい。
 なんか……復讐ゼリーの前に、十分復讐できちゃったような気分。
 こんなに焦った夏樹を見られるなんて……最高じゃない?
 だから、夏樹の腕の中で、くすくすと楽しげに笑ってあげる。
 そんなわたしに、夏樹ってば、早々に、お説教なんて意味がないと思ったのだろう、ふうと諦めのため息をもらしている。
 そのため息が、わたしの前髪をゆらす。
 ……なんだか、くすぐったい。


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update:04/11/14