執事が見たヒトコマ3
(1)

 わたしは、鳳凰院本家の忠実かつ優秀なバトラー。
 久能嘉鷹。
 この屋敷にお仕えするようになり、どのくらいの月日がたったのか……。
 今では、すっかり記憶の果てへと消え去ってしまいました。
 それくらい長い間、わたしはこの屋敷で、ご主人たちを見守ってきている。
 二代にわたり。
 近頃は、すっかり、わたしも老け込んでしまったようで……。
 まるで、愛しいこどもたちを見守る父親の心境ですよ。
 ……そう。当代のご主人さま方が、ああ≠セから、それも仕方がないのかもしれませんけれど。


「夏樹さま、お早く! 遅れますよ」
 鳳凰院本家のエントランスに、不釣合いな多少焦ったようなわたしの声が響く。
 細かな細工を施した、樫の木の扉を両開きにし、そこからひらひらと手招きする。
 その相手は、なんと我が主、夏樹さま。
 本来、使用人であるわたしが、主である夏樹さまに、このような気軽な振る舞いなどゆるされないところですが、最近では、それはすっかり、塵となってしまったように思えてなりません。
 そして、夏樹さまも、それを許してくださっている。
 だから、ついつい、わたしも、わたしたちの本来の関係を失念してしまって……。
 そんな関係が、ふと、心にあたたかなものを運んでくる。

 いつだったか、このことを、もう一人のわたしのご主人さま、茗子さまに、ついぽろりともらしてしまったことがありました。
 そうしたら、「いい傾向じゃない。っていうか、あんな男にかしずく必要なんてないのよ」と、そう悪態をつかれていましたが……。
 なんともまあ、茗子さまらしくて、思わず顔がほころんでしまいます。
 素直じゃなくて意地っ張りで、そして夏樹さまにだけは何がなんでも抵抗されようとする。
 それでも、本当は、誰よりも夏樹さまを愛しく思っていらっしゃる、天の邪鬼。
 本当は、誰より、夏樹さまのそのあふれる愛に心地よさを感じていらっしゃる、天の邪鬼。
 それが、茗子さまという方。
 そして、そんな茗子さまが、わたしもやっぱり、愛しくて仕方がない。
 何より、茗子さまは、わたしにとって恩人だから。
 凍る主の心をとかしてくれた、恩人だから。

 本当に、この屋敷は、茗子さまがいらしてから、大きく変わりました。
 大革命です。
 それはもちろん、いい方向に。
 茗子さまがそこにいるだけで、こごえきったこの屋敷が、あたたかく感じられてきます。
 事実、使用人たちからも、とりわけ夏樹さまから、ぴりぴりとした緊張感が薄れつつあります。
 まさか、このようなおだやかな空気が流れる日が訪れるなど、二年前のわたしは思ってもいなかったでしょう。
 たった一人の非力な少女が、変化をもたらした。

 わたしの手招きに、夏樹さまは、多少慌てたようにぱたぱたとかけてこられます。
 本当に、夏樹さまらしくない、その振る舞い。
 いつもは冷静沈着なその姿が嘘のように。
 ……このような夏樹さまを見たら、鳳凰院の分家連中は、どう思うことでしょうね?
「それじゃあ、桐平。後は頼んだぞ」
 すうっと小さな風を起こし、夏樹さまがわたしの目の前を通りすぎていく。
 風に、茗子さまがおっしゃるところの、シャンプーと整髪料がまざったような、夏樹さまの香り≠のせて。
 そして、すぐそこに停めてある悪趣味な――これも、茗子さまがおっしゃるところ――黒塗りベンツへと歩いていかれます。
 それを眺めつつ、わたしは、エントランスまで見送りにやってきた同じ使用人の桐平に、そう言いおく。
「ああ。お前もな。夏樹さまが暴走されないように、くれぐれも気をつけて」
 くすりと肩をすくめ、桐平はそう返してくる。
 その言葉に、そこに見送りにやってきた他の使用人たちも、そしてわたしの顔も、思わずほころんでしまう。
 数年前までは、あり得なかっただろう、この会話に。この光景に。
「言われなくても、わかっているよ」
 くすくすと笑いながら、わたしは、今夏樹さまが通られた玄関の扉をしめる。
 ゆっくりと細くなる視界の向こうには、やはりやわらかく微笑む使用人たちの顔。
 それを名残惜しく見ながら、わたしは、夏樹さまの背へと視線を移していく。
 そして、歩みをすすめる。
 今、夏樹さまが乗り込まれたばかりの車へ向かって。
 夏樹さまの、陽にすけたそのやわらかな髪を、春の風が小さくゆらしていく。
 胸は、こどものようにはずんでいる。


 ……ああ。
 なんて優しい時間の流れだろう。
 これほど優しい時間が、これまであっただろうか。
 すべては、あの方、茗子さまのおかげ。
 彼女がいるだけで、この氷の城は、春のひだまりになる。
 彼女が、優しい時間を運んできてくれる。
 茗子さまの笑顔があるだけで、そこは優しい空気に包まれる。
 あたたかな時間に変化する。

 春が雪をとかすように、彼女は夏樹さまをとかしてしまった。
 茗子さまほど、あたたかい方を、わたしは知らない。


 ――嗚呼。それにしても、このことがばれた時、茗子さまは、絶対、烈火のごとくお怒りになられるでしょう。
 想像しただけで、とっても楽しいですね。
 わくわくしてきます。

 なんといっても、今日は、茗子さまにとって、そして夏樹さまにとって、特別な日ですから。
 茗子さまは、今頃、夏樹さまのこの悪巧みに気づくことなく、幸せそうに笑っていることでしょう。
 たくさんの友人にかこまれて。

 ……申し訳ありません。茗子さま。
 やっぱりわたしは、夏樹さまの幸せ……楽しいことを、むざむざ見逃すなんてできないのです。
 あなたの平穏より、夏樹さまの喜び――わたしの楽しみとも申しますが――を選んでしまうわたしは、なんと意志の弱いことか。


「やっぱり、くらべるまでもないよね。茗子がだんとつ、いちばんかわいい。……というか、茗子以外、目に入らないけれどね。もともと」
 うんうんと、しきりにうなずく夏樹さま。
 椅子にふんぞり返り、腕組みをして。
 まるで、自分のその言葉が、すべてで、真実であるかのように。
 何よりも、それに異を唱える者は、何人たりとも許さない、というそんな威圧をにじませて。
 それなのに、何故だか、ゆるみまくった、にやけまくった、その顔。
 やはり、いつもの冷酷極まりない、極悪なる我が主からは想像できない、そのほや〜んとしたくずれ顔。雰囲気。
 茗子さまのためだけに、このご主人さまは、こんなにも変われてしまう。
 それはもう、今にはじまったことではありませんけれど。

 ……それよりも……。
 ああ。はいはい。
 また、いつもののろけですか?
 一昨年のバレンタインの日に、茗子さまが夏樹さまに贈られたチョコよりも、あまったる〜い顔をされちゃって、まあ……。
 このご主人さまは、本当に、茗子さまにかかると、かたなし。

 ……まあ、夏樹さまではないですけれど、茗子さまの袴姿っていったら、もうっ。
 言葉では言いあらわせない清らかさ。かわいらしさ。
 その無垢で可憐で愛らしいお姿は、夏樹さまでなくたって、誰でも目を釘づけにされてしまうことでしょう。
 一際目をひく、そのおだやかな、だけど凛とした気高い空気。
 茗子さまがそこにいるだけで、心がなごみます。

 きっと、娘がいたら、このような感じなのでしょうねえ。
 手塩にかけた娘のはれ姿。はれ舞台。
 未来へ、幸せへ向けてはばたいていく。
 今日は、ようやく訪れた、茗子さまの卒業式。

 今までも、そしてこれからも、茗子さまには大変なことがたくさんあるでしょうけれど、とりあえず、無事にこの日をむかえられて、安堵しています。
 本当に、この日がやってくるなんて。
 二年半前のあの日から、茗子さまの日常は狂ってしまったけれど……。
 それは同時に、夏樹さまの幸せにつながる。
 茗子さまには申し訳ないけれど、やはりわたしは、夏樹さまの幸せがいちばんなのです。
 幼い頃より、ずっと見守ってきたこの方の幸せが。


 ……普通ならば、こんなに喜ばしい日はないでしょう。
 しかし、違う。
 茗子さまに限り、それは違うのです。
 卒業、それは、地獄への入り口。
 何しろ、茗子さまってば、お約束されていらっしゃいますから。
 卒業したら、夏樹さまと結婚する、なんてそんなこと。
 ……想像しなくとも、恐ろしいですよね?

 ようやく、ようやく、娘が大学を卒業したと思えば、今までの苦労を嘲笑うかのように、この仕打ち。
 しかも、相手が悪いです。悪すぎます。
 何といっても、あの夏樹さまですよ!?

 嗚呼。
 茗子さまの本当のご両親が、気の毒になってきます。
 大切に大切に育て、慈しんできた一人娘が、よりにもよって夏樹さまにだなんて……。
 しかも、まだまだ遊びたい盛りの二十代前半にして、たった一人のたちの悪い男にさらわれていくなんて。
 やりきれませんよね。


 ――壇上で、茗子さまの手に、今、卒業証書が手渡される。


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update:05/03/25