執事が見たヒトコマ4

 ある冬の朝食時。
 澄んだ冷たい空気が、窓の外に広がる、密林みたいな庭の木々をなでていきます。
 そんなさすような寒さとは裏腹に、このダイニングには、あわい陽光が優しく差し込んできております。
 その陽光に、わたしの大切なご主人様方は、ふわりと幸せそうな微笑を浮かべております。
 しかし、この方々。
 そう簡単には、おだやかな朝の時間をすごすはずがなく――
「う……っ」
 グリーン色のポタージュを一口口にふくんだ瞬間、そのように、茗子さまが苦しそうな声をあげられました。
 そして、その顔は、見る間に青くなっていき……。
 瞳などは、うるうるとうるんでまいりました。
 そのような茗子さまを、夏樹さまもわたしも、不思議に思い、顔を見合わせます。
 こくっと首をかしげなどして。
 それからまた、スプーンを持ったまま、ぶるぶるとふるえはじめられた茗子さまへ視線を戻します。
 すると――
「は、はき……そう……」
 苦しげにそうつぶやき、ばたんと椅子を蹴散らし、立ち上がられます。
 同時に、その手からこぼれ落ちたスプーンが、カシャーンと、床に無機質に落ちました。
 それに目もくれることなく、茗子さまはがばっと両手で口をおさえられます。
 やはり、いつもとは違う茗子さまのそのご様子に、夏樹さまもわたしも、どうすればよいのかわからず、そのまま凝視する他ありません。
 そうしているうちに、茗子さまは、そのままダイニングから駆け出ていかれました。
 これは普通ではないとようやく確信し、夏樹さまと二人、茗子さまの後を追います。
 心配そうに不思議そうにわたしたちを見送る、給仕をしていた使用人たちを、横目に見つつ。
 夏樹さまなどは、もう平静ではいられないようで、立ち上がる時、机の脚に弁慶の泣きどころをぶつけ、苦しそうな声を小さくあげられていたようですが。
 もちろん、それは見なかったふり。知らないふり。
 わたしは、忠実かつ優秀なバトラーですから、主人の意にそわぬことは、決していたしませ……いたしますね。場合によっては。

 ――さすがに、これは普通ではありません。
 そして、一大事のような気がいたします。
 夏樹さまではありませんが、茗子さまが、いつもご健康で、にこにこと幸せそうに微笑まれていることこそが、我々の望むものです。
 それなのに、あの奇妙なご様子は……。
 とても、健康≠ノは見えません。
 あの色を失った顔。
 そして、そのお言葉通り、今にももどしそうな……。
 ――もどしそう!?
 も、もしや、これは――!?
 いや、しかし。今、目の前で、お顔を蒼白にし、茗子さまを追いかけられる夏樹さまのご様子からすると……。
 いやいや、やはり、夏樹さまは、まだ気づかれていないだけという可能性も……。
 ――あの夏樹さまに限って、そのようなことはないと思いますが、しかし、こればかりは、どうにもこうにも――
 それにしても、さすがは夏樹さま。この世の終わりのように、茗子さまを追いかけられるお姿ときたら……。
 しかも、無駄に、あちらこちらにぶつかれているような気が……。
 ええ、もちろん、これも見なかったふりでございます。
 本当にもう、どうしようもないくらい、茗子さまが愛しくて仕方がないのですね。
 まあ、我々も、茗子さまは、とっても大好きですけれどね。
 夏樹さまとは、また違った意味で。
 ……と、今は、のろけている場合ではありませんでした。
 いかに茗子さまをお慕いしているかと、語っている場合でもありませんでした。
 何しろ、その茗子さまの大事なのですから。
 夏樹さまのこのご様子からすると……もしかして、たちの悪い風邪でも召されたとか?
 まあ、茗子さまにとっての何よりもたちの悪い病原菌は、今わたしの前を駆けておられるこの方のような気も、果てしなくいたしますが。
 そのように、いろいろと考えつつ、茗子さまの後を追っていると、茗子さまは、洗面所へ駆け込まれました。
 しかも、扉を開けっぱなしで。
 相当、大変なことになっているようですね。
 茗子さまが、こんなに苦しまれるなんて。
 お気の毒で仕方がありません。
 ――嗚呼。ということは、いよいよ……!?
 悪い風邪か、それとも……。
 茗子さまに少し遅れて、夏樹さまと一緒に駆け込むと、そこで、茗子さまが洗面台に手をつきながら、苦しそうに荒い息をされているお姿が飛び込んでまいりました。
 その目からは、ぽろぽろと涙を流されて。
 はあはあと、苦しげに息をされて。
 お体は、心なしか、小刻みに震えているような……。
 嗚呼、なんとおいたわしいお姿にっ。
「めめめめめめめ、茗子ー!?」
 そのような茗子さまの痛々しいお姿を目の当たりにされ、夏樹さまは、悲痛に雄たけびをあげられました。
 おろおろと、視線をさまよわせつつ、しかし、その視野には必ず茗子さまのお姿を入れ、ふらつく足で、茗子さまへと歩み寄っていかれます。
 しかも、あの夏樹さまが、震えております。ええ、目に見える程度に。
 ……すごい。さすがは、茗子さま。
 あの血も涙もない、冷徹悪魔と呼ばれる夏樹さまを、ここまで狼狽させてしまうとは……。
 ――やはり、わたしは、茗子さま、あなたに一生ついていきますよ。ええ、一生。
 あなたさえいれば、魔王もまったく怖くなどありませんね。
 まあ、そんなことは、この屋敷の者なら、誰でもわかりきっていることでございますけれどね。
 ……今では。
 洗面台に苦しそうに手をつき、こちらをすがるように見つめてこられる茗子さまに、夏樹さまはふらふらと近づいていかれます。
「夏樹さま! これは、もしや!?」
 そのような夏樹さまに、わたしはそう声をかけました。
 そうです。そうですよ。これは、もう、あれしか考えられませんよね!?
 よくよく考えてみれば、茗子さまは、朝食の直前……あのグリーン色のポタージュをお口にされるまで、たしかに健康そのもの、むしろ迷惑なくらいお元気でいらしたので……。
 夏樹さまに悪態をつける程度には、それはそれはお元気でいらっしゃいました。
 お風邪を召されていらっしゃる方が、直前まで元気だなんて、普通は考えられませんよね?
 そうすると、導かれる結論は、だた一つ。あれです。あれしかございませんよっ!
 そうですよね? 夏樹さま。
 ――ああ、なんておめでたいことでございましょう。
 ずっとずっと、茗子さまがこの屋敷にいらしてからずっと、屋敷の者一同、この時がくることをどんなに待ちわびていたことか。
 わたしの声にびくりと反応された夏樹さまは、ぐるりんと振り向かれ、今にも泣き出してしまいそうな、しかしおしみなく喜びをにじませ、わたしを見つめてこられます。
 そして、何かを確信したようにこくんとうなずかれました。
 どうやら、わたしの言葉が、引き金をひいたようでございます。
 夏樹さまの迷いに、終止符を打ったようでございます。
 その迷いは、もちろん、わたしと同じ迷い。
 茗子さまは、ようやく――
「め、茗子。もしかして、ぼ、ぼくの子どもができ――!?」
 ごくりとつばをのみ、苦しそうに瞳をにじませる茗子さまの肩をがしっと抱き寄せられます。
 震えるその手で、ゆっくりと茗子さまの頬を伝う涙をぬぐっていかれます。
 しかし、茗子さまは、何やら逡巡した後、何故だか、忌々しげに顔をゆがめられました。
「……っていうか、夏樹、心当たりでもあるの?」
 そして、馬鹿にするように、冷ややかに、はき捨てるようにそう言い放たれました。
 ぐいっと、頬に触れる夏樹さまの手をひきはなされながら。
 すると、今度は、夏樹さまが逡巡され、目からうろこを落とされました。
「――あ。ないや」
「でしょ?」
 けろりと答えられた夏樹さまに、茗子さまは、ふっと鼻で笑われます。
 それから、おもむろに夏樹さまの腕をとり、その袖で、頬を伝う残りの涙もぬぐっていかれます。
 それが当たり前のように。
 そのような茗子さまを、夏樹さまは、愛しそうに見つめられております。
 何事もなかったかのように。
 ですからわたしは、思わず、こうもらさずにはいられませんでした。
「夏樹さま、だらしない」
 ――本当に、だらしないですね。
 心当たりがないって……つまりは、そういうことですよね?
 結婚されて半年がたったというのに、もしや、いまだに――?
 嗚呼、それが事実ならば、わが主ながら、なんてなんて情けないのでしょう。
 そして、茗子さま、あなたは鬼ですか? 鬼ですよね!?
 夏樹さまなど足元にも及ばないくらいの、鬼ですね!?
 いえ、それよりも何よりも……これまでのことは、一体?
 たしかに、ご気分が優れなかったのですよね?
「久能。綺麗な花畑のある川の向こうへ行きたいかい?」
 わたしのつぶやきを聞き逃してなどいなかった夏樹さまは、にっこりとそう微笑みかけてこられます。
 つい先ほどまでのうろたえぶりなど、みじんも感じさせず。
 ですから、もちろん、わたしの答えは決まっております。
「遠慮しておきます」
 それにしても、そのお口の達者ぶりは、今もって素晴らしいものでございますが、何と申しますか……こと、惚れた女性には……弱いですね。むしろ、だらしないですね。へたれですね。
 嫌よ嫌よも好きのうちという言葉があるように、そろそろ、多少強引にでも、その……。
 その方が、我々にとっては、嬉しいところなのですけれどねえ。
 まあ、しかし、惚れた弱みとも申しますし、夏樹さまと茗子さまには、この関係があっているのかもしれませんが。
 それにしても、惜しいっ。ついにやったかと思いましたのに。
「でも、どうして?」
 先ほどまでの動揺はどこへやら、妙に冷静に、愛しそうに茗子さまを抱き寄せながら、夏樹さまが尋ねられます。
 夏樹さまの腕の中の茗子さまの顔色は、まだ優れません。
 そうです。それが問題でした。
 我々にぬか喜びをさせた、その本当の原因は何でございますか? 茗子さま。
 食事時、急に嘔吐感を覚えられるということは、それしか考えられないと申しますのに、他に理由が……?
「どうして、グリーンピースのポタージュなのよ! ほうれん草だと思ったのに、悔しいっ!!」
 夏樹さまの腕の中、ぐいっとセーターの胸元をつかまれ、茗子さまは、憎らしげにそう叫ばれます。
 瞬間、あの夏樹さまが、がくんと態勢を崩されました。
 ええ、わかりますよ。そのお気持ち。
 何しろ、わたしでさえも、脱力感を覚えてしまったのですから。
 それにしても……そのオチは、あんまりですよ、茗子さま。
 いえいえ。そうではなく、茗子さまは、グリーンピースがお嫌いだったのですね。
 そして、ほうれん草がお好きだったのですね。
 初耳です。
 これは、桐平に、強く言っておかねばなりませんね。
 何しろ、よりにもよって、ポタージュにしてしまったのですから。
 それはそれは、茗子さまのご不興をかっても、仕方がありません。
 ……この際、桐平なんて、茗子さまに嫌われてしまえばいいのですけれど。
 そうしたら、ざまあみろと、嘲笑ってやりますのに、ねえ?
 そして、茗子さまが特になついてくださる使用人は、わたしだけになりますからね。
 ああ、それはなんて素晴らしいことでしょう。夢のようですよ。
 ――さて、そろそろ、肩を落とされた夏樹さまに、助け船でも出しましょうかねえ。
 本当に、近頃は、茗子さまに、いいようにふりまわされて。
 まあ、もとから、ふりまわしているように見えて、ふりまわされていらしたような気もいたしますけれど。
 何しろ、相手は、あの茗子さまなのですから。
「夏樹さ――」
「そ、そんなっ! 茗子のことで、このぼくが知らないことがあったなんて! なんたる不覚っ!!」
 雷に打たれたよりもはるかに強い衝撃を受けたように、まるで奈落の底にでも突き落とされたかのように、絶望感を漂わせ、夏樹さまが悲痛に叫ばれます。
 わたしの言葉をさえぎって。
 しかし、そう叫びつつも、茗子さまを抱き寄せるその腕だけは、しっかりと力がこめられていて……。
 夏樹さまの腕の中では、茗子さまが、面倒くさそうにため息をもらされています。
 脱力感を覚えられたのではなくて、つまりは、そこに衝撃を受けられていたのですね。
 茗子さまのことなら知らないことはないと、自信まんまんだっただけに。
 何しろ、夏樹さまは、自他ともに認める、茗子さまのストーカーですから。


 ――嗚呼。もう、本当、好きにしてください。
 つき合っていられませんよ。このお二人には。
 これでは、当分、もう一人のご主人様は、望めませんね?
 でもまあ、それはそれで、このお二人らしいのかもしれませんけれど。
 わたしは、お二人が幸せなら、今のところは≠サれで満足でございます。


執事が見たヒトコマ4 おわり

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update:06/01/01