お嫁さんになるために
だって好きなんだもん

 雨のカフェから、一週間ほどが過ぎた。
 あれから、由布くんとはまったく連絡がとれていない。
 もともと、由布くんと連絡をとることもなく、あの日たまたま会ったのが久々の再会だった。
 茗子ちゃんとはよく夏樹さんをまいて会うことはあるけれど、由布くんと会う口実なんてそうそう作れないもの。
 これからはどんどん攻めてやると決めても、こんなところでつまずいていちゃあ、なかなかうまくいかないよね。
「これはこれは、あかりさま」
 ぶらぶらとカーペット敷きの廊下を歩いていると、ふいにそう声をかけられた。
 振り向くと、そこには軽く頭をさげる中年のおじさん。
「あー……えっと、営業部長さん!」
 誰だったかと少しの間考え、次にそう答えていた。
 すると、おじさんはにっこり笑ってこくりとうなずく。
 わたしの声にはじかれたように、辺りにいた人たちが一斉に振り返った。
 どこかぴりりっとした様子で、わたしたちの会話に聞き耳を立てている。
「今日は社長にご用でも?」
「ううん、暇なのでちょっとぶらっと」
 えへへと肩をすくめて答える。
 おじさんは変わらずにっこり笑ってうなずく。
「そうですか。では、ゆっくり見てまわってくださいね」
「うん、ありがとうです」
 そう答えると、おじさんは一礼して廊下の向こうへ歩いていった。
 あっちはたしか、第一営業部があったんだよね。
 ばいばーいと手を振ると、ぴたりと動きをとめていたまわりの人たちも、それぞれ何事もなかったように再び動き出した。
 どうやら、思いのほか普通の会話だったらしく、ほっとしたり、残念がったりしている人もいる。その様子から、彼らが何を思っていたかよーくわかる。
 それはさておき、営業部長さんもああ言っていたことだし、今日はどこをぶらっと見てまわろうかなあ。
 両側に連なるガラス張りの壁から、ちらちらっと、各部屋をのぞき見ると、わたしに気づいた人はぺこりと軽く頭を下げたり、会釈したりする。
 ということは、彼ら彼女らは、みんなわたしを知っているということだね。
 だってここは、金郷の本社ビルなんだもん。
 小さい頃から出入りしているから、勝手知ったるもの。
 子供が、無関係の者が簡単に出入りするなと苦言を呈する人もいるだろうけれど、近頃ではそんな人は少なくなった。さすがにみんな、わたしの顔を覚えちゃっているからね。特に、長年勤めている人は。
 まあ、中には、わたしの出入りをよく思っていない人もいるけれど、そんなのはさらっと無視さあ。
 ちらっと右横に見えた第三営業部をのぞきこむと、部長の席に座るおじさんと話をしているきりっとしたハンサムなお姉さんがわたしに気づいた。
 部長の席は窓側で随分離れているのに、目ざといなあ。
「あら、あかりさん。いらっしゃい」
 わたしのもとまで歩み寄り、にっこり笑う。
「こんにちは、二条さん。ちょっとぶらっとねー」
 えへへとおどけて答えると、お姉さん――二条さんは、困ったように肩をすくめてみせた。
「ほどほどにしてくださいね。みんなびくびくしちゃって仕事になりませんから」
「うん、ほどほどにねー。ねえねえ、それより、お兄ちゃんをほっておいていいの? 社長秘書なのに」
 二条さんの上着の裾をつんとつまみ、ぴょんととびつく。
「ええ、書類を取りにきただけですので。もう戻りますよ」
「そっか。じゃあ、ごめんね、邪魔しちゃって。お仕事頑張ってねー」
「はい、ありがとうございます」
 袖をつまむわたしの手にぽんと手を触れ、二条さんはそのまま部屋を出て行く。
 ちらっと部屋を見まわし、わたしもその後に続く。
 部屋の中では、何事もなく仕事を続ける人もいれば、ぽかんとわたしたちを見ている人もいる。
 たいてい、あっけにとられたように呆けている人は、若い人たちばかり。入社してまだ間もない人たちばかり。
 もう一度、じっくり部屋を見まわしてみる。けれど、変わりはない。
 よっし、この部署は、とりたてて問題はないようだね。
 さあて、次はどこへ行くかなあ。この階は営業部ばかりが入っているから、他の階に変えようかな。
 ぴょんと部屋を出て、エレベーターホールへ向かう。
 エレベーターホールに行くと、エレベーター待ちをしていた若い男の人がわたしに気づき、ぎょっと目を見開いた。
 どうやら、子供が紛れ込んだとでも思っているみたい。声をかけようかどうか迷っているよう。
 ――失礼しちゃうよね。これでも立派なオトナなのに。
 そうこうしているうちに、エレベーターがこの階にとまった。
 すると、男の人はそそくさとエレベーターに乗り込む。
 うーん。その対応はいまいちだねえ。たしか、胸のIDには――。
 と考えている時だった。若手社員と入れ違うようにして、エレベーターの中からシャツにジャケットとラフな格好をした、どう見ても今この場に似つかわしくない若い男の人がでてきた。
 その男性を見て、若手社員はやっぱりぎょっと目を見開く。
 まあ、この社内でスーツじゃない人って珍しいものねえ。
「あ、あかりちゃん」
 エレベーターから降りてきた男性は、わたしに気づくとそうつぶやいた。
「あ、由布くんだ。わーい、どうしたの?」
 瞬間、思わず、由布くんにがばっと抱きつく。
 由布くんの腰に両腕をまわし、そこからじっと見上げる。
 ここで由布くんを見かけるなんて珍しいから、つい抱きついちゃった。
 だって、好きなんだもん。
 けれど、本当にどうして由布くんが金郷のビルに?
 まあ、由布くんなら、顔パス同然なんだけれどねえ。ビルに入るのだって、幹部専用入り口からだし。まあ、わたしもそうなんだけれど。
 何というかあれだもんね。裏で夏樹さんといろいろしているもんね、うちのお兄ちゃん。由布くんにとっても、このビルは勝手知ったるだよね。幹部クラスくらいしか由布くんの顔知らないけれど。
 由布くんは、にっと笑った。
「京也さんとちょっと約束がね。ついでにあかりちゃんを回収して来てくれって」
 由布くんは携帯電話をちらっと見せて、ぽんとわたしの頭をなでる。
 むー。あのお兄ちゃんめえ。由布くんを使ったな。
 つまりは、二条さんにわたしの居場所を聞いたお兄ちゃんが、約束をしていた由布くんに電話で依頼をし、それで由布くんはわたしを……。って、ちょっと待ってよ。その言い草って――。
「わたしはものじゃないわよ。失礼しちゃうっ」
 ぼすんと、由布くんの胸をぶつ。ここにいないお兄ちゃんのかわりに。
 回収って、思いっきりもの扱いじゃない!?
 だって、回収で由布くんも納得し同意したんでしょう? だったら同罪だっ。
「まったく、いい気なものよね。社長の妹だか何だか知らないけれど、いい身分よね」
「そうそう、お嬢様はいいわよね、遊んで暮らせて。会社は仕事をしに来るところだっていうのよ」
 むむーと由布くんをにらんでいると、ふいにそうささやく声が聞こえてきた。
 はたとして振り向くと、エレベーターホールのはしで、ちらちらこちらを見て、何やらこそこそ話す若い女性二人がいた。
 へー、ふーん。さては、今の会話はあの二人かあ。
 すっと視線をやると、二人の女性はぎりっと唇を噛んだ。
「こら、やめなさい」
 その時だった。少し年上のお姉さんが、その二人の肩をぽんとたたいた。
「だ、だって、先輩!」
 女性のうちの一人が、悔しそうにその女性を見る。
 もう一人も、こくんとうなずき、同意する。
「陰口はみっともないわよ。気づかないの? わたしたち、査定されているのよ。この前なんて、贈賄まがいのことをしようとした部長がクビに、ミスを指摘されて逆上した社員が再教育になったのよ」
「……え?」
 ため息まじりに女性が答えると、二人の若い女性の顔色がさっと青ざめた。
 ははーん、どうやら、やっと気づいたようだね。
 わたしが、社内をぶらっとしている本当の理由。
 暇だからとか遊びにとかは言っているだけで、本当じゃないんだよね。
 正式な役職はないけれど、お兄ちゃんの補佐として社内巡回しているんだもん。
 それに気づいている人や知っている人は、あの営業部長さんとか二条さんみたいに、さらっと流し、そしてこの先輩女性みたいに関わらないようにしている。
 それにわたし、うちの会社の株主でもあるんだよねえ。まあ、これはどうでもいいけれど。
 それにしても、あの女性、なかなかやるわね。
 その年でわたしの本当の目的に気づくなんてなかなかいないわよ。なかなか見込みがあるわね。お兄ちゃんに言っておかなくちゃ。
 うろたえる女性二人にちらっと視線を流し、にやりと笑う。
 それから、すすすっと歩み寄る。
 目の前まで寄り、嫌味なほどさわやかににっこり笑う。
「うん、わたしいい身分なのー。わたしお嬢様だから、今はね、花嫁修業中なんだ。由布くんのお嫁さんになるために」
 そう言って、すぐ後ろにいた由布くんの腕をさっととる。そして、ぎゅうと抱きしめる。
 由布くん、何かあった時はわたしをとめるために後からついてきていたんだよね、失礼しちゃう。さすがのわたしでも、そこまでひどいことはしないわよ、……と思う。
 腕をとり、そんな大胆宣言をすると、由布くんはぎょっと目を見開いた。
 それから、すぐに抵抗することを諦めたのか、がっくり肩を落とした。
「あーもう、はいはい。ほら、さっさと行くよ」
「はーい!」
 由布くんはぽんぽんとわたしの頭をなでて、そのまままわれ右してエレベーターへ促す。
 さらにぎゅっと由布くんの腕に抱きつき、素直についていく。
 由布くんは、わたしの腕を解こうとはしない。
 困った様子や呆れた様子はあるけれど、決して嫌がる素振りは見せない。
 それを、先輩社員はぽかんと見て、女性社員二人はやっぱり顔色を失ってそこに呆然と立っている。
 どうやら、ようやく事の重大さに気づいたようだね。数日後を楽しみにしているといいわ。
 それにしても、うん、やっぱり由布くんは優しいなあ。
 わたしのお嫁さん発言、否定も肯定もしないんだから。
 否定してはわたしに恥をかかせる。けれど、肯定は嘘になる。
 ちゅうぶらりんとも言うけれど、こういうところでのちゅうぶらりんは、いちばん無難だよね。
 恥もかかないし、変な期待もしないから。
 野暮な男は、こういう場合、思いっきり否定して、女に恥をかかせるんだよね。


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update:10/08/07