匙を投げられた
(2)

 トクン……。

 世凪の微笑に、柚巴の心が小さく悲鳴を上げる。
 その笑顔を見て、柚巴の鼓動がそのような動きをした。
 この鼓動の動きは、今にはじまったことではない。
 柚巴と世凪、ニ人がはじめて会った瞬間(とき)、あの時も同じように胸がざわついていた。
 そして、そのざわつきは今も続いている。
 ただ……本人はまったく気づいていないというだけで。
 それにしても、柚巴は、一体、世凪の何を理解しているというのだろうか?
 そして世凪も、どうして簡単に柚巴に同意してしまえるのだろうか?
 彼らの間に何が……。いや、世凪の本当の目的とは何だろうか?
 今まで明らかにされたこと以外に、他にも目的があるというのだろうか?
「別に……本気で柚巴を番人にしようとか、扉を使おうなどと考えているわけではない」
 世凪は先ほどとかわらぬ眼差しのまま、ゆっくりとひざまずき、すっと柚巴の頬へと手をのばしてくる。
 そして、頬にかかった髪に優しく触れる。
「それじゃあ、どうして……」
 柚巴は世凪のその行動をたいして気にするそぶりも、嫌がる様子もなく、不思議そうに見つめる。
 むしろ、世凪を受け入れてしまっているふうである。
 すると、世凪は微笑して、髪に触れていた手を柚巴の背にまわす。
 どこか哀愁のようなものが漂っていた。
 切なさのようなものも感じられる。
 もちろん、今までのような人を見下したような、馬鹿にしたような、そのような嫌なところはどこにもない。
 ただそこにあるのは、柚巴に対する、ある種、特別な感情だけ。
 その特別な感情とは、もちろん――
「どうして柚巴は、一番基本的なことに気づかないのだろうな? ……なあ? 梓海道」
 世凪は、天井から垂れる布のこちら側で控えていた梓海道に、切なげに、淋しげに視線をすっと送る。
 それは、全ての事情を心得ている梓海道にだからこそ向けられる視線。
 その言葉と、その視線の意味は、一体……?
「そうですね、世凪さま」
 梓海道は控えたそのままで、優しく静かに答える。
 世凪は梓海道のその答えを確認すると、また柚巴に視線を戻し、やはりじっと見つめる。
「俺は、柚巴を手に入れられれば、それだけでいい。ただ、俺はお前が……」
 そう言って、世凪は、先ほど柚巴の背にまわしていた手を一気に引き戻し、柚巴を引き寄せる。
 両腕いっぱいで柚巴を抱きしめる。
 柚巴を抱く世凪は、やはり優しげで、切なげで、どこか淋しげだった。
 柚巴は、世凪にいきなりそのようなことをされたにもかかわらず、抵抗しようとはせず、ただ静かに抱きしめられている。
 じっと世凪の腕の中にいる。
 柚巴も、次第に世凪に身をゆだねようとしている。
 梓海道はそのようなニ人の様子を確認し、その場から去ろうと、体を景色の中にとかしていく。
 そして、そっと柚巴の腕も世凪にまわされそうになった時だった。
 ばちんと、大きな音があかずの間一帯に響き、結界が破られた。
 柚巴と世凪、梓海道は、それまでの行動を瞬時にやめた。
 柚巴と世凪は、ばっと互いの腕をはなし、そして梓海道の体はまたしっかりと色をたたえる。
 結界が破られるとすぐに、あかずの間の扉が乱暴に蹴破られた。
 そこには、何人もの限夢人が立っていた。
 真っ白の景色の中、影だけが浮かび上がる。
「拍子抜け。案外簡単に破れちゃったよ、これ」
 その真っ白な景色の中、嚇鳴が手をぶらぶらとさせている。
 薄暗い室内に、ぼんやりとした光が差し込んでくる。
 シルエットで浮かぶ嚇鳴をよけながら、竜桐たちがあかずの間へと入ってくることがわかる。
「今、油断をしましたね。世凪さま」
 そんな竜桐たちをみとめると、梓海道はすっと世凪のもとへ飛び、困ったように言った。
「そうだな……」
 世凪はおもしろくなさそうにため息をつき、気だるそうに立ち上がる。
 柚巴は座り込んだままである。
 座ったまま、入ってくる竜桐たちをじっと見ている。
「世凪。もうこんな馬鹿なことはやめるんだ。扉など必要ないだろう!」
 いちばんにあかずの間に足を踏み入れた竜桐が言った。
 険しい顔で世凪をにらみつける。
「ああ、そうだな。俺には必要ない」
 怒りをあらわにしている竜桐を嘲るように、けろりと世凪が言った。
 竜桐たちは、扉付近で足をとめていたが、こちら側へと一歩一歩にじり寄ってくる。
「お前たち、本当、おもしろいくらいに踊らされてくれたよな?」
 もちろんその行動に世凪も気づいていたが、そんなことは無視して、けらけらと笑う。
 またその笑い方が、とことん竜桐たちをこけにしているようであって、さらに竜桐たちの怒りをあおる。
「馬鹿ばっかり」
 今度は腹を抱え、笑いはじめてしまった。
 これがまた、わざとそうしているとわかるので、腹立たしい限りだ。
 どうして、必要もないのに、こうも世凪は挑発ばかりするのだろうか。
 何か、他に意図が感じられてならない。
「貴様……!!」
 とうとう、こちらにやって来るまでに正気を失いかけていた竜桐は、ここでぶち切れてしまった。
「落ち着いてください。竜桐さま」
 都詩がはやる竜桐を慌てて止める。
 すると、その後ろからすっと紗霧羅が出てきて、不審そうに柚巴を見つめる。
「柚巴。あんた、自分で逃げられるだろう。それなのに何故、逃げようとしない!?」
 その言葉に驚いたのは、使い魔たちである。
 まさかこのような時に、柚巴の使い魔である紗霧羅が、主に対する不審を口にするなど思いもよらなかった。
 そして、使い魔たちは、それを忘れていた。
 たしかに、柚巴は逃げようと思えば逃げられたかもしれない。
 今の柚巴には、逃げようという気すらないことが容易にわかる。
 そこに、落ち着いて座り込んでいる柚巴を見れば……。
 しかし、柚巴はひるむことなく、ただ苦笑してみせた。
「逃げる……必要がないから」
「え……!?」
 紗霧羅は自分の耳を疑うように確認する。
 すると柚巴は、今度は落ち着き払った様子で答える。
「だって世凪は、もうこれ以上何もしないもの」
「ゆ、柚巴。あんた、一体今、自分が何を言っているのかわかっているのか!?」
 紗霧羅は険しい顔で柚巴をにらみつける。
 にらみつけるが、紗霧羅はまだ完全に柚巴を疑うことができず、多少の動揺の色を見せている。
「うん。わかっている。世凪はただ、自分に素直になれなかっただけなの」
 動揺する紗霧羅に、柚巴は困ったように微笑みかける。
 柚巴の言葉を聞き、紗霧羅はますます柚巴の言っていることがわからなくなってしまった。
 世凪にしては珍しく、おとなしく聞いていたかと思うと、柚巴のその言葉が発せられると、柚巴を抱き寄せていた。
 もちろん、そんな世凪の行動を見て、使い魔たちはぴくりと動きをとめた。
「だから……俺はお前が好きなんだ」
 世凪は柚巴に優しく微笑みかける。
 そしてそのまま、いまだに入り口付近でにじり寄ろうとする使い魔たちに視線を移す。
 その時にはもう、いつものような不遜で不敵な表情に戻っていた。
「そして、お前たちは嫌いだ。馬鹿だからな」
 はき捨てるように言う。
「なんだと……!」
 今度は、莱牙が世凪のその言葉にたえられず飛びかかろうとしたが、あっさりと華久夜に足を払われ、その場に倒れてしまった。
「華久夜! 何故、邪魔をする!?」
 莱牙は悔しそうに、憎らしそうに華久夜をにらみつける。
 華久夜はそんな莱牙を見下ろし、冷たい視線を注ぐ。
「まあ、落ち着きなさいな、お兄様。本当、血の気が多いわね」
 そして、しらっとそう言うと、今度は世凪へ侮蔑の眼差しを向ける。
 憎らしげににらみつける。
「――そして、世凪は、相変わらず嫌な奴ね」


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update:03/09/05