つかの間の安らぎ
(1)

 もう八月も半ばを過ぎ、そしてそれから幾日か過ぎると、暑さも次第にやわらぎ、夕方ともなるとかなり過ごしやすくなってきている。
 しかし、そんな頃、学業に励む者たちにとって、決まって浮上する問題がある。
 それは、あまりにもわかりすぎていて、言葉にすることさえどうかと思われる。
 夏休みも、あとわずかという八月の末。
 柚巴は泣いていた。号泣していた。
「宿題、していない〜っ!!」
 御使威邸の居間で、柚巴はそう叫ぶと、ソファの前に置かれたテーブルへ、ばたんと突っ伏してしまった。
 いや、テーブルというよりは、その上に置かれた、一冊のノートの上に。
 そして、そのまわりには、ドリルやら問題集といった、もうありがちすぎる夏休みの課題の山。
 柚巴は、八月三十一日の夜になって慌てる小学生と同じ状況に追い込まれていた。
 そんな柚巴の助っ人に来たのが、庚子と多紀。
 学校一の秀才とうたわれる多紀はまだしも、どうして、学校一の問題児といわれる庚子がやってきて、柚巴の山積みの課題を手伝えるというのだろう?
 まあ、そこはあえて触れてはいけないところではあるけれど。
「ああ、もう、泣かない泣かない。仕様がないだろ。宿題なんてしている暇はなかったのだから。ほら、わたしのを写させてやるから」
 そう言って、庚子が自分のノートを、泣きべそをかいている柚巴の前へすっと差し出す。
 どうやら、庚子にしては気をきかせて、自分の終わった課題を持参してきたらしい。
 それにしても、よりにもよって、学校一の問題児の課題を柚巴に写せとは、ある意味、いやがらせではないだろうか?
 柚巴は差し出された庚子のノートをじっと見つめ、そしてぷいっとそっぽを向いた。
「……いらない。宿題は自分でしなきゃ意味がない」
 柚巴はせっかくの庚子の申し出を断ってしまった。
 いかにもまじめな柚巴らしい言葉とともに。
 今時にしては、まじめすぎるほどまじめな意見である。
 まあ、たしかに、柚巴の言うとおりではあるけれど、今はそんなことを言っていられる時ではないような気がするのだけれど……?
 柚巴は庚子の申し出を断ると、放り投げたシャープペンを再び手に取り、またノートにかじりつきはじめる。
 もう庚子など眼中に入っていないような、熱中……いや、切羽つまりよう。
「まったく……。変なところでまじめなのだから。写さなきゃ終わらないだろう? この量じゃ……」
 そうあきれながら庚子が視線を落とした先には、真っ白な課題が山のように積まれている。
 庚子の言うとおり、柚巴の前には、まだまったく手がつけられていない課題の山がある。
 国語、数学、英語、生物、日本史、物理――
 その他もろもろ、たくさんの課題の山。
 さすがは、世間でも名の知れた進学校なだけはある。
 出される課題の量も半端ではない。
 こんな課題の山、もうわずかしか残されていない休みでは、柚巴のようにまじめにしていては、とうてい終わるはずがない。
 それでも柚巴は、頑固なほどに、自力でその課題の山を片づけようとする。
 そんな一生懸命な柚巴を見て、庚子はあきれて、それ以上何も言わないとばかりに、頭をぽりぽりとかき、ソファにどっと身を沈める。
 そして多紀は、一生懸命に課題をこなそうとする柚巴に、彼には似合わない優しげな視線を向ける。
「そうだよ、柚巴ちゃん。今回は諦めて、写そう?」
 そう言うと、シャープペンを持つ柚巴の右手にそっと触れた。
 一生懸命な柚巴を見るのもそれはそれで楽しいけれど、やはり今はそんな時ではないとわかっているので、一向に庚子の言うことをきこうとしない柚巴を、少し困ったように説得しはじめた。
「多紀くんまで〜……」
 柚巴は涙をためたその瞳で、恨めしそうに多紀を見つめる。
 どうして多紀くんまで、そんなことを言うのよ〜と、訴えかけている。
 しかしやはり、多紀にそのようなものは通じない。
 誰が泣こうがわめこうが、我関せずな多紀らしい態度である。
「ああ、でも、庚子のノートはダメ。ほら、俺のノートを使いな」
 多紀はひょうひょうとそう言ってのけると、柚巴の前に置かれていた庚子のノートを取り、自分のノートを置いた。
 そして、その取り上げたノートを、ソファでふんぞり返っている庚子へぽいっと放り投げる。
 するとよけそこなった庚子の頭に、ノートは見事命中した。
 ぽろりと、そのまま膝の上に落ちる。
「多紀……。それ、どういう意味だ?」
 庚子は命中したそのノートを拾い上げながら、ぎろりと多紀をにらみつける。
「だって、庚子のノートでは写したことがばればれだよ。柚巴ちゃんは、そこまでお馬鹿じゃない」
 多紀は冷たい視線を庚子へ向け、さらりとそう言うと、今度はわざとらしいにこにことした笑顔を柚巴に向ける。
 そして、柚巴のすぐ横のテーブルの上に片肘をつき、柚巴の前に置かれたノートに視線を移す。
 完全に、庚子を無視する体勢に入る。
「てめっ……。今日こそ、まじ殺す!!」
 もちろん、多紀にそのような挑発的な態度をとられては、庚子が黙っているはずがない。
 ソファに座ったままで、庚子に向けられている多紀の背をどんとひと蹴りする。
 するともちろん、ぐるりんとまわされた多紀の顔には――
 その後、間髪いれず、庚子と多紀のバトルがはじまったことは言うまでもない。
 今はそれどころではないのに、やはり柚巴は、庚子と多紀の喧嘩に巻き込まれてしまう運命にあるらしい。
 いや、直接巻き込まれるのではなく、間接的ではあるけれど、こうも耳の近くでぎゃあぎゃあ騒がれては、集中できるものもできなくなる。
「……これじゃあ、本当に間に合わないよ」
 柚巴はまた、恨めしそうに、そして諦めきったように庚子と多紀を見て、大きく一つ、ため息をつく。
 そして、それだけですまないのが、柚巴の宿命である。
 それが当たり前のように、また柚巴の課題を邪魔するものが現れる。
 嵐が……向こうから喜んでやってきた。
「柚巴〜っ!!」
 どこからともなくそんな叫び声が聞こえたかと思うと、柚巴は後ろから誰かに抱きしめられていた。
 その衝撃で、持っていたシャープペンが、勢いよくテーブルの上に転げ落ちる。
 一体何が起こったのかわからず、柚巴の動きは一瞬止まった。
 そして次の瞬間、その抱きついてきた人物を確認するために、がばっと振り返る。
 柚巴が振り返ったそこには、うっとりとした表情の華久夜の顔があった。
「え? どうして華久夜ちゃんがここに!?」
 あまりにも意外な、そしてあるはずのない顔がそこにあり、柚巴は目を白黒させ驚く。
 何しろ、華久夜は誰の使い魔にもなっていない、普通の限夢人。
 その普通の限夢人が、ここ、人間界へやってこられるはずがないのだから。
 ――そう、ただ一人の例外、世凪を除いては。
 契約なしに人間界へやってくることは不可能である。
 そんな思い切り驚いている柚巴を、華久夜は楽しそうに見る。
 相変わらず、柚巴に抱きついたままで。
「んふふっ。実はね、世凪に頼んで連れてきてもらったの」
 そして、そんな爆弾発言をした。
 まさかあの世凪が、誰かのために、そして誰かの頼みをきくというのだろうか?
 たしかに、世凪の目的はすでに達成されている。
 しかし、だからといって、世凪がそこまでまるくなったとは、とうてい思えないのだけれど……?
 利益なしに……世凪が華久夜の頼みをきくなどとは――
「え……!?」
 もちろん、柚巴が華久夜のその言葉に驚かないわけがなかった。
 そして、それと同時に、ばっと顔を上げていた。
 柚巴が顔を上げると、そこには面白くなさそうに華久夜をにらみ、見下ろしている世凪がいた。
「それはまた、珍しいことを……。でも、どうして?」
 柚巴は世凪の姿をみとめると、急に冷静を取り戻し、面白くなさそうにじとりと世凪を見る。
「こいつがうるさくせがむからだよ。……それにまあ、こいつでも何かの役に立つかもしれないからな」
 そう言って、いまだに柚巴に抱きつく華久夜を、べりっと引きはなす。
 そして、ぽいっと放り投げた。
 華久夜は、ぽすんとソファの上におしりから落ちる。
「だって、世凪しかいないのですもの。使い魔の契約をかわしていなくても、こちらの世界に来られるのって。それに、自分だけじゃなく、他人も連れて来られるなんて」
 華久夜はソファに身を沈めたまま、ちょっとすねたふうにそう言う。
 そして、憎らしげに、世凪をじとりとにらみつける。
 どうやら、あっさり柚巴から引きはなされ、そしてまるでボールのように扱われたことに、相当怒りを覚えているらしい。
 そんなことをされては、いつもの華久夜なら、それ相応の反撃をお見舞いするところなのだけれど、しかし、今回は相手が悪い。
 あの世凪相手に、華久夜がかなうはずがない。
 そして、無茶だとわかっていて攻撃をしかけるほど華久夜も馬鹿ではないので、泣き寝入りする他ない。
 しかし、その怒りを伝えることだけは怠らない。
「ところで、こいつでもって失礼ね。わたしは十分役に立つわよ!? 少なくとも、お兄様よりは!」
 華久夜は世凪に食ってかかる。
 しかし、何やら少し、論点がずれているようなのは、気のせいだろうか?
「ああ、うるさいうるさい。お前は、そのお兄様とやらで遊んで来い!」
 いかにもうっとうしそうに、世凪は華久夜をしっしっと手で追い払う。
 華久夜は世凪のその態度に、顔を真っ赤にして世凪をにらみつけると、いきなりばっと立ち上がり、びしっと指差した。
 そして、叫ぶ。
「覚えていなさいよ! 王族にそんな態度をとったことを!」
 華久夜はそんな捨て台詞を残し、勢いよくばんと扉を開け、どすどすと居間を出て行った。
 ようやく、そのように怒りをあらわにした華久夜の足音が聞こえなくなった頃、庚子が待っていたかのように柚巴にすり寄り、耳うちする。
「な、なあ。ちょっと柚巴。こいつが世凪とかいう奴なのだろう? いいのか!? 誰か呼ばなくても?」
 心配そうに庚子が聞く。
 すると柚巴は、きょとんとした顔を庚子に向けた。
「え? うん、大丈夫だよ。世凪は何もしないわ。ね? 世凪」
 そして、確認するように、世凪を見上げる。
「……まあ、しないといえばしないが、するといえばするかな?」
 世凪はにやにやとしたいつもの調子の顔で、柚巴を見下ろす。
 しかし、そんなものは、もう柚巴には通用しない。
 世凪の本当の目的を知った柚巴には……。
「あ、そ。――わたしはそんなことより、こっちの方が大切なの」
 そうあっさり嫌な笑みを浮かべる世凪をあしらうと、柚巴は世凪を無視して、先ほど放り投げたシャープペンを再び手に取り、そのままノートにかじりつく。
「おい、お前たち。柚巴は、一体何をしている?」
 そんな柚巴を見て、怪訝そうに世凪が庚子と多紀に聞く。
 別に世凪は、柚巴にこのように冷たくあしらわれてしまっても、どうとも思っていない。
 何しろ、世凪の目的は柚巴に告げられ、そしてそれを柚巴は受け入れた。
 そんな安心感が世凪の中にあるので、このような扱いをされても、世凪は柚巴を信じられる。
 ――いや、一度受け入れられたので、もう世凪は、柚巴を疑うことはできなくなってしまった。
 それは、単純ともいえるかもしれないけれど……。
 それほどまでに、世凪にとっては、柚巴の存在は絶大なのである。絶対なのである。
 一体、世凪の中で何があったのかはわからないが、世凪にとって柚巴の存在は、もうなくてはならないものになりつつある。
 どんなに冷たい態度をとられても、世凪は柚巴を、柚巴の心を信じずにはいられない。
「……」
 庚子は、やはり庚子たちにはふてぶてしい態度で聞いてくる世凪の問いには答えず、疑わしそうに世凪を見る。
 けれど、多紀は、そんな世凪を疑うことなく、あっけらかんと答えた。
「宿題だよ。あんたが柚巴ちゃんをつけまわしていたおかげで、柚巴ちゃんは大迷惑をこうむっているというわけ」
 そして、そんな皮肉までこめる始末。
「あ、そ」
 しかし、多紀のせっかくの皮肉も世凪には通じていないらしく、おもしろくなさそうにはき捨てる。
 世凪がおもしろくないと思ったのは、自分のせいで柚巴が迷惑をこうむっているということではなく、自分だけ仲間はずれのような、そんな小さな疎外感を覚えてしまったから。
 庚子と多紀には、何も語らずとも、今の柚巴の状況がわかるのに、世凪にはそれがわからない。
 やはり、住む世界が違うと、その生活のあり方はこうも違ってくるものなのか。
 「柚巴が手に入ればそれだけでいい」と言って満足した世凪にとっては、そんなちっぽけなことも大切らしい。
「……ねえ、ところで世凪。いつまでここにいる気よ? あっちで、あなたもみんなと遊んで来てよ。そこでそうして見ていられると、集中できないのよね」
 先ほどからじっと柚巴を見下ろしている世凪を見上げ、柚巴はそう冷たい言葉を投げかける。
 たしか柚巴は、世凪の目的を理解し、そして受け入れると言ったはずなのに、それにもかかわらず、以前と変わらぬこの態度は……?
 どうやら柚巴という少女も、なかなかにくせ者らしい。
 まあ、この庚子と多紀と友達をしているのだから、そしてあの世凪をおとなしくさせてしまえるのだから、それは当然なのかもしれないけれど。
「ああ、気にするな。俺はここでおとなしくしていてやる」
 柚巴に冷たい言葉を投げかけられたにもかかわらず、やはりそれも世凪には通じていない。
 すとんと柚巴の横に腰を下ろす。
 そして、またじっと柚巴に熱い……暑苦しい視線を送る。
 こんな至近距離で見つめられては、当然、柚巴の集中力も散漫になるというもの。
「だから、気になるから言っているのでしょう!!」
 柚巴はそのままテーブルに突っ伏し、わあっと声を上げ、泣き出してしまった。
 ――まったく……。柚巴も、厄介な者たちに気に入られたものである。


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update:03/09/11