秘密の逢瀬
(1)

 近頃、夜になると、ちらほらと虫の声が聞こえてくる。
 コロコロ、チロチロ、リリリリ……といった、そんな虫の声。
 九月ともなれば、そろそろ秋の気配も近づいてきているということだろうか。
 人間界。佐倉邸。
 そんな九月もはじまったばかりの日の夜、その屋敷では、何やら不穏な動きがはじまりつつあった。
 それは、世凪が忠告したことと関係しているのだろうか。
雫蛇(だじゃ)。例のことは、順調にすすんでいるのか?」
 窓辺に立ち、冷たい風が吹き込むそこで、どこか不敵な笑みを浮かべつつ、蒼太郎が後ろに控えている男に言った。
 その男は、世凪が蒼太郎のもとへやってきて、そして蒼太郎が世凪を怒らせ、壁にたたきつけられた時に、蒼太郎をかばいきれなかった、あの体格のよい男である。
 この男はやはり、蒼太郎の(しもべ)のような存在なのだろうか?
 しかし、その日本人ばなれした名は、一体……?
「はい。マスター。マスターのご協力もあり、上手く奴らを誤魔化せています」
 雫蛇と呼ばれたその男は、蒼太郎の足元にひざまずき、じっと床を見つめ、静かにそう言った。
 蒼太郎は、そんな雫蛇を威圧的に見下ろしている。
「そうか」
 そして、雫蛇のその言葉に満足げにうなずき、くすくすと笑う。
「それで、どちらにするおつもりですか?」
 笑う蒼太郎を見上げ、雫蛇が確認するように尋ねる。
 すると、蒼太郎は窓枠に手を触れ、身を乗り出すように窓の外、夜空を見上げる。
 見上げた空には、小さな光を発する星が、ぽつぽつと、一つニつばかりある。
 やはり、都会の夜空では、たくさんの星を見ることはかなわないらしい。
「そうだな〜。まあ、どちらでもいいから、上手くいった方をとればいいよ」
 そう言いながら、夜空を見ていた顔をゆっくりと雫蛇に戻し、不気味な笑みを浮かべた。
「かしこまりました」
 雫蛇は無表情でそう答える。
「……しかし、この短期間で、ずいぶん計画も狂わされたな。世凪の奴が余計なことをしてくれたし……。いや、やはりあそこでばらしたのがまずかったかな?」
 その言葉とは違って、蒼太郎の表情はとても楽しそうである。
 何やら、自分の企みが、一応は順調にいっているらしく、満足もしているらしい。
 それにしても、問題は、蒼太郎が企む、この例のこと≠ナある。
 一体、蒼太郎は何を企み、そして実行しようとしているのか。
 そして、世凪の名が出てくるということは、すなわち世凪に関したことであると……?
 いつか世凪が、蒼太郎に「余計なことはするな」と忠告しに来たことは、このことだったのだろうか?
 しかし、よりにもよって、あの世凪を敵にまわしてまでも何かをしでかそうとしているとは、蒼太郎は、相当の怖いものしらずか、よほどの馬鹿か……。
 そして、その蒼太郎に従順なこの男、雫蛇も――
「いえ。あそこで言ってしまっていて、正解だったと思います。そのおかげで、奴らはまったくこちらをマークしていません」
 蒼太郎の問いかけに、本気なのか口だけなのかわからないその疑念を払拭するかのように、雫蛇は答える。
 すると、当然返ってくるはずの答えが返ってきて、蒼太郎はまた、得意げに不気味に微笑む。
「そうだね。どうやらあの世凪ですらも、まんまと引っかかってくれているようだから」
 そして、くくくと、愉快そうに声を出す。
 しかし、本当に、蒼太郎が言う通り、世凪はまんまと蒼太郎の策略に引っかかっているのだろうか?
 何しろ、あの世凪である。
 人の一歩も二歩も前を行き、人があくせくするのを、余裕の顔で見て笑っている。
 そして……普通は知り得ないことを、当たり前のように知っている、あの世凪――
 もしかすると世凪は、蒼太郎のこの企みにも気づいていて、あえて泳がせているだけかもしれない。
 あの世凪ならば……あるいは、それもあり得る話……。


 夏も終わりの平日の昼下がり。
 莱牙は、テラスに置かれた椅子に座り、そよそよとそよぐ涼しくなりかけた風を受けていた。
 ここは、人間界は御使威邸。
 莱牙は、週のほとんどをそこで過ごすようになっていた。
 それはもちろん、柚巴の使い魔になったからである。
 使い魔になった理由が、柚巴と一緒にいたい。
 それだったので、ほとんどを人間界で過ごすのも当たり前のことである。
 しかし、今はそう悠長なことも言っていられない。
 柚巴と世凪の急接近が、莱牙には気になって仕方がない。
 莱牙にはわかっている。
 たとえ柚巴と世凪の急接近がなくとも、莱牙は――
 そして、悠長なことを言っていられない最大の理由。
 それは……よりにもよって、華久夜までがこの人間界にいるということ。
 莱牙の宿敵、誰よりも恐ろしい華久夜が……。
 莱牙は日のほとんどを、柚巴の護衛にあたるのではなく、華久夜から逃げまわることに費やしている。
「こんなところにいたのですか、莱牙さま」
 風にあたる莱牙を見つけ、紗霧羅が歩み寄ってきた。
 どうやら莱牙は、ようやく華久夜の追跡を逃れ、ひと時の静かな時間を楽しんで……いや、疲れを癒していたようである。
 あともう幾時間もしないうちに、またあの追いかけっこが待っていることを、莱牙は知っているから。
 華久夜との追いかけっこ、それも実は嫌いじゃない。
 むしろ、楽しんでいるかもしれない。
 しかし、華久夜は手加減というものを知らないので、莱牙とてそうそうまとわりつかせているわけにはいかない。
 それでは身がもたないから。
 そして、華久夜との追いかけっこは、嫌なことを、不安なことを忘れるには最適だったけれど、やはりそれでも一人、もの思いにふける……傷ついた心を癒す時間は必要だった。
 今も恐らく……そのような時間だったのだろう。
「ああ、紗霧羅か……」
 紗霧羅に気づき、莱牙は横目で彼女の姿を確認し、また涼しげにそよぐ風に身をまかせる。
 その姿が、紗霧羅には、どこかはかなげで切なげに見えた。
 莱牙のその思いを知っているだけに、それはひとしおである。
 莱牙は……今も恐らく、柚巴を思って、一人、その傷ついた心と戦っているのだろう。
「どうしたのですか? ここのところ元気がないようですが。それに、ずいぶんおとなしいじゃないですか?」
 紗霧羅ももちろんそんなことには気づいていたけれど、そこはあえてからうかうように話しかけてみる。
「ああ、ちょっとな……」
 しかし、莱牙の反応は、いつものものとは少し違っていた。
 普段の莱牙なら、かわかられたと気づけば、当然嫌味の一つや二つは言ってこようものなのだけれど。
 やけに素直に、紗霧羅の言葉を受け入れる。
 どうやら今の莱牙には、紗霧羅と口喧嘩をする余裕すらないらしい。
 そこまで……それほどまでに、莱牙は――
「……柚巴?」
 そんないつもと違う、哀愁さえ漂わせている莱牙に、紗霧羅はぽつりとつぶやいた。
 そうつぶやいた彼女もまた、どこか切なそうだった。
「な……っ!?」
 紗霧羅のつぶやきを聞き、莱牙は座っていた椅子からがたっと落ちそうになる。
 どうやらといおうかやはりといおうか、案の定、図星だったらしい。
「ははは。動揺しちゃって」
 紗霧羅はいつもの馬鹿笑いではなく、静かに苦笑した。
 もう紗霧羅には、今のような莱牙を笑い飛ばすことができない。
 痛いほどに莱牙の思いを知ってしまったから……。
「……黙れ」
 多少頬を赤らめ、憎らしそうに紗霧羅をぎろりとにらみつける。
 しかし、莱牙の思いを知っている紗霧羅は、そんな莱牙のにらみもまったく怖いとは、恐ろしいとは思わない。
 むしろ、そんな反応を見せる莱牙が、愛しく感じてしまう。
 それはまるで、子を思う母のような……そんな慈愛に満ちた、母性愛のような感情。
「ハイハイ。ところで、莱牙さま」
 さらりとあしらい、紗霧羅は話題の転換をする。
「黙れと言っているだろう」
 当然、そんな馬鹿にされたような態度をとられては、莱牙がむかっとこないわけがない。
 横目で、じとりと紗霧羅を見る。
「そうですね。もう少し話したら黙りますよ。莱牙さま、あなたも見たのでしょう?」
 しかしやはり、案の定、紗霧羅はそれでもまともに莱牙を相手にしようとしない。
 適当にあしらい、やりすごす。
「……何をだ?」
 莱牙も、もうこれ以上、紗霧羅にすごんでも無意味だと思ったのか、諦めたように椅子にふんぞり返る。
「ん〜、なんでしょうね?」
 ふんぞり返り、ぶすっとした莱牙の顔をのぞき込むようにして、くすくすと紗霧羅が笑った。
 莱牙はやはり、そんな紗霧羅をぎろりとにらみつけるが、しかしそれはすぐにやめた。
 紗霧羅から目線をそらし、苦しそうに言葉をしぼり出す。
「……わかっている。わかっているのだ。しかし……」
「辛いのでしょう? それで? もう柚巴の使い魔はやめるのですか? 別に途中で契約を破棄だってできるわけだし。まあ、それなりの代償は必要だけれどね?」
 紗霧羅の口調は、多少からかい気味ではあったけれど、その表情は、紗霧羅がのぞかせる表情は、とても辛そうだった。
 まるで……今の莱牙の気持ちとシンクロしているような、そんな表情をしている。
 たしかに莱牙ならば、望めば契約を破棄できるだろう。柚巴も反対しないだろう。
 そして、柚巴から破棄というかたちをとれば、莱牙は何も代償を払うことはない。
 もとの、契約がなかった頃の生活に、柚巴と出会う前の生活に戻るというだけ……。
 ただ、莱牙にとっては、その生活が、代償そのものなのである。
 もう人間界にはやって来られない。
 それは、すなわち、もう柚巴と会うことはかなわないということ。
 柚巴と一緒にいたいがために使い魔になった莱牙にとっては、それがいちばんの痛手。
 本当はわかっている。
 莱牙は、柚巴の使い魔をやめることなどできないと。
 頭でやめようと思っても、それを心が許してくれない。
 柚巴を愛しく思うその感情のために、莱牙は苦しんでいる。
 莱牙の心は、今空に浮かんでいる雲のように、ゆらゆらと大空をさまよっている。
「……一度破棄してしまうと、もう二度と、人間と契約を結べないというものだろう?」
 彼らがいう代償とは、それである。
 もし、次に誰かの使い魔になりたいと思っても、その過去がある限り、決して使い魔になることは許されない。
 一度は人間と心を通わせ、そして契約を結んだ限夢人にとっては、それはとても辛いこと。
 人間の優しさに触れ、それを知っているだけに。


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update:03/09/23