逃げられなかった子羊
(1)

 世凪が柚巴に告白したその夜。
 いや、もう日がかわっていたかもしれない。
 時計はすでに、真夜中の時刻を刻んでいた。
 その頃、御使威家に、一本の電話が入って来た。
「はい。御使威でございます」
 電話をとったのは竜桐だった。
 使用人たちはみんな眠りについていたが、竜桐たち使い魔は眠りにつけないでいた。
 竜桐とともに電話のそばにいたのは、由岐耶だった。
 他の者は皆、自室に引き取った後だった。
 そんなところへ、深夜にもかかわらず電話がかかってきた。
 その呼び出し音は、静まり返った彼らをびくつかせるには十分だった。
 一瞬、飛び上がりそうになった。
 それにしても、こんな夜中に、一体、誰が電話をかけてきたのだろう。
 非常識とも思えたが、こんな時刻にかけてくる電話に、よいものなどないことを無意識に知っていたので、それをとがめることはできない。
 胸騒ぎがする。悪い予感が頭をよぎる。
 竜桐のとる電話に聞き耳を立てる。
 そして、電話に出た竜桐の耳に、とんでもない事実が飛び込んできた。
 その瞬間、受話器を持つ竜桐の手が、小刻みに震えていたのを由岐耶は見逃さなかった。
 悪い予感は、当たってしまったらしい。


 ばたばたと、乱暴に駆ける足音が、寝静まった御使威邸に響く。
 その足音から少しはなれて、何人もの同様の足音が響く。
 その足音は、次第に、柚巴の自室へと近づいていく。
「姫! 姫、無礼を承知で失礼します!」
 足音が完全に止まることを待たずに、乱暴に柚巴の自室の扉が開け放たれた。
 言い終わらないうちに、ノックもせずに、柚巴の真っ暗な部屋に竜桐が飛び込んできた。
 竜桐にしては、礼に欠け、冷静を欠いたものだった。
 それほどまでに、竜桐を動揺させるものとは一体……。
 竜桐に続き、由岐耶に報告を受けた他の使い魔たちも、由岐耶と一緒にやって来た。
 彼らの普通でない体力から、息こそ切らせていないが、まるで息を切らせているようでもあった。
 顔色がとても悪く、焦りの色が見える。
「な、なに!?」
 柚巴は、竜桐たちのいきなりの乱入に驚き、飛び起きる。
 そして、ばっと扉へ振り返る。
 柚巴もまた、眠れないでいた。
 先ほど世凪と別れてからずっと、泣き続けていたのかもしれない。
 目の下が真っ赤にはれ、とても醜い顔になっている。
 柚巴は、この真っ暗な部屋が、この時ばかりは妙に頼もしかった。
 何しろ、明かりがなければ、この腫れた目を見られずにすむから。
 そして、それについて追求されずにすむから。
 しかし、この竜桐たちの様子から、普通でない、何かとても大変なことが起こっていると察しがつく。
 そんなところに、ほっとしている場合ではない。
 開け放たれた扉の中央に立ち、背に廊下の光を受け、竜桐が苦しそうに言う。
「心を鎮めてお聞きください。……庚子さんと多紀さんが、行方不明になりました」
「……!?」
 柚巴は、そのあまりもの事実に、声にならない叫びを上げた。
 いや、口に出して叫ぶことができなかった。
 驚きと衝撃のあまり、言葉を失ってしまった。
 竜桐の後ろには、黒く影になった、何人もの使い魔の姿が見える。
 もちろん、シルエットだけで、どれが誰の影なのか柚巴にはわかる。
 誰もが、苦しそうにそこにたたずんでいる。
「先ほど、庚子さんの親御さんから電話があり、庚子さんと多紀さんの行方を知らないかと尋ねられました。そして、詳しく聞いてみると、おニ人は、ここしばらくふさぎがちだった姫の様子を見にいくと、家を出たそうなのですが……」
 竜桐は、ベッドの上に座り呆然としている柚巴へと、ゆっくりと歩み寄ってくる。
 しかし、呆然と見えただけで、案外、柚巴はしっかりと気をたもっていた。
「え? でも、庚子ちゃんも多紀くんも来ていないでしょう?」
 怪訝そうに、歩み寄る竜桐を見つめる。
 先ほど、驚きと衝撃を受けたが、よくよく考えてみると、どうも腑に落ちなかったらしい。
 いや、信じたくなかっただけかもしれない。
 それにしても、救いは、柚巴が、案外気丈にしていること。
 竜桐は、柚巴のその様子にほっと胸をなで下ろす。
 そして、他の使い魔たちも、ばらばらと柚巴へと歩み寄ってくる。
「はい。あちらの方にもそうお伝えしました。そうなると、もうどこに行ったのかまったく見当がつかない。よければ一緒に探して欲しいと……」
 そこまで言って、竜桐ははっとし、言葉をとめた。
 この後、望ましくない言葉が、柚巴の口から発せられると気づいてしまったから。
 しかし、気づいた時にはもうすでに遅かった。
 柚巴は決めていた。
 ゆるぎない決意を胸に抱いている。
 もうこうなると、柚巴を誰もとめることができない。
 一見、気弱そうに見える柚巴だが、一度決めたらてこでも動かない。
 それが柚巴だと、竜桐は心得ている。
 だから、自分の発言に後悔せずにはいられない。
「……わかった。出かけます」
 柚巴は、妙に落ち着き、重たく言葉を発した。
 瞳は、ぎらりと輝いている。
 この真っ暗な部屋の中、その光だけが妙に目につき、不気味だった。
 そこに、柚巴の底知れぬ怒りを感じる。
「こんな夜中にですか!?」
 竜桐は、ベッドから下り立ち上がろうとする柚巴を、慌ててとめようと手をのばす。
 しかし、竜桐のその手は、容赦なく柚巴に払いのけられてしまった。
 ぱしっと、乾いた音が暗い部屋に響く。
 その音が耳につき、使い魔たちは、一瞬恐ろしさを感じてしまった。
 ごくっと、つばをのむ。
「そんなこと、かまっていられないでしょう? きっと……これはわたしのせいだから……」
 柚巴は苦しそうにつぶやく。
 ぎゅっと胸の辺りの服をつかみ、ふるふると体を震わせて。
 今にも泣き出してしまいそうに見える。
 だけど、そうではなかった。
 柚巴の目から、いつもこういう時は流れるであろう、流れるものはない。
 今目の前にいる柚巴は、これまで彼らが見たことのない柚巴だった。
 こんな恐ろしい姿の柚巴は見たことがない。
 全身から、そのおさえられない怒りを発している。
 気をよむことを得意とする亜真に言わせるならば、恐らく、「まがまがしいどす黒い気を、今の姫さまはまとっている」と、そう言うに違いないと、誰もが感じてしまった。
「姫……!」
 竜桐は、柚巴に手を振り払われてもなお、めげることなく制止しようと手をのばしてくる。
 しかしその手は、今度はいつの間にかやって来ていた紗霧羅によって、払いのけられてしまった。
「よっしゃ! じゃあまずは、ここから、庚子か多紀の家に向かいながら気を探ろう。もしかしたら、何かわかるかもしれないからな?」
 そう言って、紗霧羅はぐいっと柚巴の手を引く。
 多少、先ほど、たじろいでしまったが、しかしよくよく見ると、あの時の柚巴もそう恐ろしいものではない。
 それは、友を思い、友を心配する柚巴の気持ちを考えればすぐにわかることで、当たり前のことだった。
 ただ、そのような誰かを強く思う気持ちは、限夢人は、人間ほど激しく感じることができないというだけで。
 それが、果たして、彼らにとって、長所になり得るのか、欠点なのか、まだ誰にも答えは導き出せていない。
「うん! おねがい、紗霧羅ちゃん」
 得意げに柚巴を見下ろす紗霧羅を見て、柚巴は嬉しそうに微笑んだ。
 そして、紗霧羅の手を握り返す。
「紗霧羅、お前は正気か!? こんな夜中に……!」
 竜桐は険しい顔で、紗霧羅をにらみつける。
 まったく、お前は何を考えているのだ。姫に、そんな危険なことをさせるなど!!と、苦々しく紗霧羅をにらみつけている。
 そんな竜桐に、紗霧羅の冷たい視線が注がれる。
「あんたこそ正気かい? 竜桐さま。友達の行方がわからないというのに、おとなしくしている奴がどこの世界にいる?」
 そう言って、はんと鼻で笑い、竜桐をこれみよがしに無視し、柚巴の手を引く。
 そして、竜桐の前を通り、扉へと歩いていく。
「しかし……!!」
 それでもやはり、竜桐は認めるわけにいかない。
 竜桐にとって、庚子など、多紀など、はっきり言えばどうでもよいこと。
 それよりも何よりも、竜桐にとって大切なのは柚巴である。
 柚巴にそんな危険なことをさせるわけにいかない。
「心配しないで、竜桐さん。ちゃんと紗霧羅ちゃんたちを連れて行くわ」
 紗霧羅に手を引かれながら、柚巴はすっと振り返り、竜桐に淋しそうな微笑を残し、また扉へと顔を戻していく。
「姫……!!」
 それでもまだ、竜桐は何か言いたげである。
 竜桐はこの時、心にぽっかりと穴があいたような淋しさを感じてしまった。
 あの微笑は、いうなれば、竜桐に決別を告げる微笑だったかもしれない。
 柚巴が、竜桐を見限ったという微笑み。
「……竜桐さん。勘違いしないで。あなたの主人はわたしじゃない。誤ってはいけないわ」
 あくまで竜桐を見ようとはせず、柚巴は冷たく言い放つ。
 そして、今度は柚巴が紗霧羅の手を引き、扉の方へと歩いて行く。
 その様子を、使い魔たちは、何とも言えぬ表情で見つめていた。
 彼らには、どうすればよいのかわからなかった。まだ判断しかねていた。
 そして、とうとう決定づけられてしまった。
 竜桐は、完全に柚巴に見放されてしまった。捨てられてしまった。拒絶された。
 柚巴はもう二度と、竜桐の言うことになど、耳を傾けてはくれないだろう。
 柚巴の言葉は、氷の刃となり竜桐の胸を突きさし、脳に深く刻み込まれる。
「姫……!!」
 竜桐が、力を振りしぼり叫ぶ。
 しかし、やはり柚巴は、何も反応してはくれない。
 柚巴の冷たい背だけが、竜桐に向けられている。
 これは、自業自得かもしれない……。
 竜桐は、これまでの自分の言動を後悔しはじめていた。
 柚巴に見捨てられては、もう――
 たしかに自分の主は弦樋であるが、それよりも柚巴は、竜桐にとって大きな存在だった。
 あの春の日、はじめて柚巴を目にした時、柚巴に触れた時、竜桐は、これまで抱いたことのないあたたかな気持ちに支配されていた。
 あのぬくもりは、どんなに長い寿命でも、恐らく、一生忘れることはないだろうぬくもりだった。
 そのぬくもりを、自らの失態によって、懐疑心によって、失ってしまった。
 それは、竜桐を、奈落の底へ突き落とすには十分だった。
 そんな嗚咽を胸の内で上げる竜桐に、柚巴は気づいているのだろうか。


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update:03/10/17