逃げられなかった子羊
(2)

「ごめんね、紗霧羅ちゃん。わたし着がえたいの」
 自室を出ようとした時、柚巴はふいに紗霧羅に向かいそう言った。
 紗霧羅は、こくんとうなずき、ふっと微笑む。
 すると柚巴は、紗霧羅の返事を待たず、隣の部屋へと入って行った。
 そこは、柚巴の衣服をしまうウォークインクローゼットとなっている。
「ああ。じゃあ、わたしは、その間に莱牙さまたちを……って、あれ? もう来ていたのかい?」
 紗霧羅は、莱牙がそこにいることを見つけて苦笑する。
 先ほどかけつけた使い魔たちの中には、莱牙と華久夜はいなかった。
 さすがに眠れないとはいえ、うっつらうっつらとしてきた華久夜を寝かしつけようと、莱牙と華久夜は一足先に客間へ行き、華久夜をベッドの中に押し込めていたから。
 だから、他の使い魔たちより、一足も二足も出遅れていたようである。
「当たり前だ」
 莱牙は腕を組み、ふんと鼻で笑い、ふんぞり返っている。
「わたしもいるわよ?」
 その莱牙の後ろから、ひょこっと華久夜が顔をのぞかせる。
 そして紗霧羅に、にこりと微笑みかける。
「華久夜さままでもかい……。悪いが、もう少し待ってやってくださいね。柚巴は今、着がえに行っていますから」
 紗霧羅は、嬉しそうだけれど、少し困ったように微笑む。
「ええ、もちろんよ。少し遅くなったくらいで、気配をよめなくなるほど落ちぶれてはいないもの」
 華久夜が得意げに微笑む。
「ところで、世凪の奴はどうした?」
 莱牙は、そこにいる他の使い魔たちや、廊下の向こうなど、きょろきょろと見まわしそう確認する。
「世凪は来ないわよ」
 そう言いながら、着がえをすませた柚巴が扉を開け出てきた。
 柚巴の表情は、どこか冷めたものだった。
 冷たい眼光を放っている。
「え? 来ないってどういうことだい?」
 紗霧羅は、そんなことがあるのか!?と、かなり意外そうに柚巴に確認する。
 どうやら、先ほどの柚巴の冷たい視線には、気づいていないらしい。
「……わからないけれど、そんな気がする」
 柚巴は、紗霧羅の目を見つめ、きっぱりと言った。
「柚巴……」
 そんなゆるぎない柚巴を見て、うろたえたのは紗霧羅の方だった。
 柚巴と世凪の間に、一体何があったのだろう。いや、柚巴に、何があったのだろうと、少し不安を感じてしまった。
 先ほど、竜桐とやり合った時の柚巴といい、今の柚巴が、どこか恐ろしいと感じてしまう。
 柚巴は、これから一体、どのように変わっていくのだろう。
 いや、変わっていくというよりは、むしろ――
「さあ、行きましょう!」
 しっくりとこない思いを抱く紗霧羅と、ふんぞり返る莱牙、得意げに微笑む華久夜に向かい、柚巴は促すように微笑みかける。
 そんな柚巴にこたえるように、紗霧羅も莱牙も華久夜も、にっと笑った。
 その時だった。
 柚巴の自室から由岐耶が出てきた。
「待ってください。わたしもおともします!」
 そう言って、腹をくくったように清々しい顔をし、由岐耶が柚巴を見つめていた。
 そしてその横には、嚇鳴と茅、そして亜真、祐、麻阿佐が、由岐耶同様の表情をたたえ、立っている。
 彼らの姿を目にした瞬間、柚巴は鳩が豆鉄砲を食ったような表情を見せた。
 しかし、すぐに嬉しそうに微笑む。
「……ありがとう」
 彼らの心は今、庚子と多紀を見つける、それに一致し、まっすぐと前を向いている。
 迷うことなく、ゆらぐことなく、ただ庚子と多紀の無事を祈って。


「……どうやら、相当嫌われてしまったようですね。竜桐さま」
 柚巴の自室に取り残され、呆然と立ちつくす竜桐に、衣狭が声をかけてきた。
 その真っ暗な部屋は、まるで今の竜桐の気持ちを語っているようである。
 カーテンがひかれ、月の光が差し込むことのない真っ暗な部屋。
 扉から差し込んでくる廊下の薄明かりはあるけれど、竜桐の心には、そんなかすかな光すらなかった。
 全ての希望を、全ての思いを、見失っていた。
「い、衣狭!?」
 竜桐に話しかける衣狭を、慌てて都詩がとめようとする。
 さすがに、今は間が悪い。
 それよりも、どうしてわざわざ、竜桐に追いうちをかけるようなことを言うのか。
 都詩は、はらはらどきどきしている。
「しかし、仕方がありませんね。……あの時、麻阿佐が言ったことが、今ではなんだかわかるような気がします。では、わたしも失礼します」
 衣狭は、言いたいことだけ言って、すたすたと扉へ向かって歩いていく。
 その衣狭の後ろ姿を見て、都詩も、何かを決心したように首を縦に振る。
「失礼ですが、わたしもそう思います。……竜桐さまは、真面目すぎるのです。だから……」
 都詩が、申し訳なさそうに、竜桐の背に向かって話しかける。
 しかし、竜桐は何の反応も示そうとしない。
 ただ、がくっと肩を落とし、そこにたたずんでいるだけ。
 完全に衣狭の姿が消えると、かわりにそこに弦樋が姿を現した。
 廊下の薄明かりの中、部屋の中の、竜桐のうなだれた背を見ている。
「みんな、竜桐に厳しいな」
 困ったようにそう言いながら、弦樋が竜桐へと歩み寄って行く。
「マ、マスター!?」
 都詩は、いきなり自分の目の前に現れた弦樋を見て、驚きのあまり思わず叫んでいた。
 弦樋はそんな都詩に、ふっと複雑な笑みをもらす。
「都詩。お前も行きたいのだろう? 行っておいで。先ほど、衣狭もわたしに許可を求めに来た」
 都詩は苦しそうに弦樋を見つめる。
 そして、何かを納得したのか、ふいっと目線を弦樋からそらした。
 どうやら、弦樋には、都詩の今の気持ちを見破られてしまっているらしい。
 それに、都詩は気づいた。
「マスター……。申し訳ありません」
 弦樋は、恐縮する都詩に苦笑をもらす。
 都詩は、自分の主である弦樋に気を遣わせてしまったと、とても気にしているようである。
「大丈夫。わたしには竜桐がついているからね。それに、幻撞翁もいる」
「わしは年寄りだから、こんな時には役に立たないのでね。さっきお嬢ちゃんが、わしにはこの人を守るように言って出て行ったよ。ちゃんとわかっているようだ」
 開けっ放しになっていた扉から、ゆっくりと幻撞が姿を現し、くすくすと笑う。
「おじいさま。あなたまで……」
 竜桐が非難するように幻撞を見る。
 あなたまで、若い使い魔たちの勝手を許すのですか?と、恨めしそうに見ている。
「いい加減、意固地になるのはおやめ。お前もわかっているのだろう? あの娘の力は、決して悪いようにははたらかない」
 そんな竜桐に、困り果てたように幻撞は眉をひそめる。
「……」
 竜桐は、幻撞の言葉に答えることができず、くっと顔をしかめる。
 とても悔しそうに。
「竜桐。お前は、誰よりもよく、柚巴を気にかけてくれている。……恐らく、お前にとっても、柚巴は娘のようなのだろう。あの子もそれはちゃんとわかっている。だから、だからこそ、自分を信じて欲しいのだろう。……お前に」
 弦樋は竜桐に歩み寄り、ぽんと竜桐の肩をたたいた。
 竜桐に向けられた弦樋の視線は、困ったようだけれど優しかった。
 たしかにそうである。
 竜桐は、柚巴をまるで自分の娘のように思っている。
 あの日、生まれたばかりの柚巴を見た時から、触れた時から、その心にともったあたたかな光が、それであると竜桐も気づいていた。
 だからこそ、自分に反発し、危険なことへと突き進んでいく柚巴が許せなかった。
 いや、見ているのが辛かった。
 辛い思いを、大変な思いをするとわかっていて、みすみす見過ごすことなんてできなかった。
 全ては、柚巴を思ってのことなのに、それらは、ことごとく裏目に出てしまう。
 そして、たしかに竜桐は、まだ、柚巴の目覚めはじめた力を疑っている。
 それも、まぎれもない事実。
 だからこそ柚巴は、竜桐からはなれつつあるのだろう。
 いや、もう心は、完全にはなれてしまっているかもしれない。
 しかし、この思いは、竜桐にもどうすることもできない。
 それが、辛くて、悔しい。
「マ、マスター……」
 竜桐は悔しそうに、そして苦しそうに弦樋の顔を見る。
 どうすれば、この思いから解き放たれることができるのだろうかと、弦樋にその答えを求めるように。
 こんな思いは、限夢人は、普通は抱かないであろう思いだから、だからその対処に竜桐は困っている。
 こんなに誰かを強く思うなど、限夢人ではあり得ない。
 奇跡に近い。
 個人主義で、自分だけが全てと考える限夢人では……。
 友情や慈悲の心は持ち合わせていても、愛情という名の心は、なかなか手に入れることができないのが限夢人。
 ましてや竜桐は、限夢界でも相当な堅物。
 そんな堅物が、愛という感情を知っても、持て余してしまうのが現実である。
 すがるように弦樋を見る竜桐を、ひとまずはそっとしておいて、弦樋はすっと視線をずらし都詩を見る。
「さあ、都詩。わたしの護衛はいいから、行っておいで」
 弦樋は、今都詩が抱く思いを見透かしているかのように、視線を注ぐ。
 すると都詩は、困ったようにふっと微笑んだ。
 そして、一礼をする。
「申し訳ございません、マスター。では、失礼します」
 そう言って、都詩はすっと姿を消した。
 暗闇に溶け込むように。
 後には、妙な静けさだけが残った。
 弦樋は都詩を見送り、竜桐に静かに語りかける。
「竜桐……。一つお前に伝えておくことがある。しかし、これはお前の胸の中だけにしまっておいてくれ」
「マ、マスター?」
 竜桐はうつむいていたその顔を上げ、怪訝そうに弦樋を見つめた。
 さすがは竜桐である。
 この弦樋の意味深な言葉に、すっかり普段の竜桐を取り戻していた。
 これまでのような影の薄い竜桐ではなく、しっかりとそこに根づき、存在を主張しているような雰囲気をまとっている。
 これでこそ、竜桐である。
「由岐耶が……由岐耶が、わたしに契約を解除して欲しいと頼んできたよ」
 弦樋もまた、竜桐同様、険しい表情を浮かべている。
 もうそこには、先ほどまでの優しい様子はない。
「え……!? マスター、それは……!」
 竜桐は、弦樋の言葉に動揺してしまった。
 契約解除など、そんなことが許されるはずがない。
 たしかに、人間側からの一方的な契約解除は認められているが、使い魔側からの解除はタブーとなっている。
 それにもかかわらず、由岐耶はその禁を犯し、代償をこうむろうというのだろうか。
 その代償は、一度人間と心をかよわせた限夢人にとっては、死ぬよりも辛いことかもしれないのに……。
 そしてそれは、彼らの気の遠くなるような一生についてまわる。
 ……そう、死ぬまで。


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update:03/10/20