ひとときの平和
(2)

 世凪が柚巴に正体を明かしてから、数週間が過ぎようとしていた頃。
 限夢界は限夢宮で、また新たな嵐が巻き起ころうとしていた。
 まったく、この世界には、心休まる日はないのだろうか。

「お師匠さまあ〜っ!!」
 そう泣き叫びながら、あちらこちらとつまづいたり、ぶつかったりしながら、王宮内を駆けまわる少女の姿があった。
 くるくるのくるみ色の長い髪を振り乱し、ずたぼろになりながら駆けまわっている。
 すると、その少女の呼びかけに答えるように、薄暗い柱の陰から幻撞が姿を現した。
「こらこら。何を騒いでおる。芽里(めいり)
 それはまるでいつものことと言うかのように、半分面倒くさそうに、やれやれといった様子だった。
 芽里と呼ばれたその少女は、幻撞の姿を確認するやいなや、だっと駆け寄り、がばっとその胸を両手でつかんでいた。
 そして、真に迫ったように幻撞にすがりつく。
「お師匠さま! ここにいたのですか!? もう、芽里がどれだけお探ししたか……!!」
 ふにゃっと、何とも情けない、今にも泣き出しそうな顔で幻撞を見つめる。
 その顔を見たとたん、幻撞はくらりと嫌なめまいを覚えた。
 「嗚呼……」と頭を抱え、うなだれる。
 そして、気を取り直し、芽里に優しく問いかける。
「どうした? 芽里」
 さすがは幻撞。年の功といおうか、間違いなく厄介事が舞い込んできただろうにもかかわらず、無下に芽里を追い払ったりはしない。
 幻撞の言葉に、少女は一瞬救われたような表情をうかべたが、すぐにその顔は曇ってしまった。
 するりと幻撞の胸から手をはなし、幻撞から視線をそらし、もじもじとしながらうつむく。
「……あの……その……。実は〜……」
 そして、ちろちろっと、幻撞の顔色をうかがうように盗み見る。
 その芽里の態度に、やはりまた、幻撞はこの上なく嫌なめまいを覚えた。
 そんな幻撞と芽里のもとに、何もないその景色の中に、一人の青年がすっと姿を現した。
 限夢界ではさして珍しくもない、瞬間移動でここへやってきたらしい。
 そして、これでもかというほど大きなため息をもらし、芽里にじろりと一瞥を下す。
「芽里の奴、またしでかしたのですよ」
 完全なうんざり顔である。
虎紅(ここう)。お前までどうした? ……またしでかしたということは……」
 幻撞は、虎紅と呼んだその男から、ゆっくりと芽里に視線をうつし、もの言いたげにじっと見つめた。
 すると芽里は、「あはっあはっ」とひきつり笑いをはじめる。
 その目は、きょろきょろと、あちらこちらを泳ぎまわっていた。
 それを見た幻撞は、やはり嫌な予感があたったと、今度はその体いっぱいでくらりとよろけた。
「芽里〜! お前は、またやったのか!? 一体、今度はどんな失態をしでかしたのだ!?」
 幻撞にしては語気荒く、そう叫んだ。
 その瞬間、芽里は「ぴゃっ!」という声を上げ、瞬時に縮こまってしまった。
 そんな芽里の横で、またしてもこの男、虎紅がさらりと言い捨てる。
「……小悪魔を一匹、逃がしたのですよ」
「小悪魔を……? どのような奴だ?」
 幻撞の眉がぴくりと動いた。
「……鬼栖(キース)です。まあ……さして問題はないかと思いますが、これが間違って人間界に行ってしまうと……」
 虎紅はそこまで言うと、しゅるしゅるしゅる〜と徐々に小さくなっていく芽里に、問答無用でにらみを入れる。
 それで芽里は、塩をかけられたなめくじになってしまった。
 情けなく、頭を抱えうずくまる。
「ああ、そうだな」
 そんな二人を前に、幻撞は、持っていた褐色のステッキをくるりとまわし、思い切り面倒くさそうにつぶやいた。


「あれ……?」
 限夢宮。
 王宮の一角に設けられている、世凪の専用居住区に向かう回廊。
 庭に面したその回廊は、あたたかな陽光が降り注いでいる。
 柚巴は一人、そこを世凪の部屋へと向かっていた。
 限夢界も、今は季節は秋。
 よって、その春の陽だまりのようなあたたかさは、本日が小春日和だと告げている。
 王宮内でだけだが、王子と柚巴の仲は、もうすっかり公認となっていた。
 それはもちろん、王の陰謀によるものである。
 柚巴に王子の名を教えた後、王は重臣たちに、実に愉快そうに、これから起こるであろう王子と人間の少女のかけひきを言いまわっていたから。
 だから、柚巴が、そんな秘密に包まれた王子がいるだろう場所へと歩みを進めていても、誰にも見とがめられたりはしない。
 むしろ、柚巴のその行動によって、皆、王子の存在を確認しているようなものだった。
 柚巴が足しげく王子のもとへ通っているということは、たしかに存在はしているのだろうと――
 かつて、幼い王子をののしっていた者たちも、すでに王子の生死についてはわからなくなっていた。
 また、当時から「王子」と呼んでいただけに、王子の名も知らない。
 だから今もって、王子のその正体は、一部を除き、誰にも知られていないのである。
 それにしても、この見事な情報操作ぶりには感嘆する。
 柚巴は、世凪の部屋へ向かう途中、回廊の庭に面した柱の陰からちらっと見える、黒いふわふわの毛むくじゃらの真丸い小さな物体に気づき、声をもらしていた。
 そのふわふわの毛むくじゃらの物体は、もう何十年、何百年と掃除をしていなかったらそれだけになるのだろうといった、色こそ違えど、ほこりのようなものだった。
 そこで柚巴は、「限夢界のほこりって、こんなのかな?」と、どこか論点のずれたことを考えていた。
 毛むくじゃらの大きさは、ちょうどバスケットボールほどだった。
「ん……? 何?」
 そして、その正体がどうしても気になり、歩み寄り、それに顔を近づけてみると……。
「もらった〜っ!!」
 そう叫びながら、いきなりその物体が柚巴に襲いかかってきた。
 飛び出してきたその物体からは、もやしのような黒い手と黒い足のようなものがぴょこんと飛び出していた。
 そして真ん中に二つ、ぎょろっとした真丸い目が光り輝いている。
 真っ黒の綿菓子にもやしが四本という、何ともふざけた生き物のようである。
 そう、たしかに言葉を発し、動いたのだから、生き物で間違いないだろう。
 まさかこれが植物なんてことは、さすがに異世界、限夢界といえど突飛すぎる。
 突然、飛び出してきたものだから、柚巴は一瞬たじろぎ、一歩後退してしまった。
 しかし、すぐに体勢を立て直す。
 次に気づいた時には、柚巴の目の前で、その物体がぶらぶらと揺れていた。
 そして、その物体からは、たくましいがしっとした腕がのびていた。
 その腕をたどっていくと、その先には世凪の顔があった。
「世凪……!」
 不細工なその黒い生き物は、頭……らしきところを世凪にがしっとつかまれている。
 物体とともに四本のもやしが力なく揺れていた。
 かと思ったら、次の瞬間にはその黒い生き物は、言葉のようで言葉でない言語で、きいきいと騒ぎ、無意味な抵抗を試みはじめた。
 世凪の手の中にあるという時点で、もう終わったも同じだというのに……。
「何だ。この小動物は?」
 相変わらずぶらぶらと黒い物体をゆらしながら、おもしろくなさそうに世凪が柚巴を見る。
 しかし、そのようなことを聞かれても、柚巴にもまったくわからない。
 このようなおかしな生き物は、はじめて見たのだから。
 当たり前だけれど、そんな柚巴を世凪はまったく気にしていない。
「まあ、いい。それより柚巴。なかなか来ないから、俺の方から来てやったぞ」
 首をかしげる柚巴にそう言って、生き物を持つ腕をひょいっと空高くのばし、顔だけを柚巴に近づけ、にやっと微笑んだ。
 そして、そのままその顔が柚巴の顔に重なろうとした時、べちゃっと音を立てて、世凪の顔は柚巴の手に押しのけられてしまった。
「あのね……世凪。わたしは、あなたと違って忙しいのよ」
 ふうと、面倒くさそうに柚巴がため息をもらす。
「あ、そ」
 そんな柚巴のつれない態度にも、世凪はまったくこたえた様子はなく、さらりとそう言った。
 そして、持っていた不細工な生き物を、ぽいっと回廊の外、庭へと投げ捨てた。
 それから、ほこりでも払うかのように、ぱんぱんと手をたたく。
「貴様! 俺様を誰だと思っている!? こんなことをして、ただですむと思っているのか!?」
 投げ捨てられ、「ふぎゃん!」と鳴き声をもらしたその生き物は、即座に体勢……体勢?を立て直し、もやしの手をぶんぶん振りまわしはじめる。
 そして、もやしのような足でひょいっと立ち上がり、ひょこひょこと世凪に歩み寄ってくる。
「ああ? ちびっこ。お前、うるさいよ」
 世凪は、面倒くさそうにそのちびっことやらを一瞥すると、そのままぷちっと踏みつぶしてしまった。
 世凪の足の下で、ばたばたともやしの両手両足を動かしている。
 もちろん、ぎゃあぎゃあわめきながら。
「ま、待って、世凪! 踏みつぶすなんて、あまりにもかわいそうよ」
 そう言って、柚巴が世凪の足の下から、世凪の言うところのちびっこを助け出す。
 世凪の足が柚巴によって持ち上げられると、そのちびっこは即座に足の下からするりと抜け出し、もやしの腕をあげ、もやしの毛のような指を柚巴に指し示した。
「人間! これで、俺様に恩をうったと思うなよ!」
 ちびっこはそれだけを言って、そそくさと逃げていってしまった。
 世凪の足の下敷きになっていたためか、ふらふらと、あちらこちらによろめきながら。ぶつかりながら。
 なんとも、お粗末な去り様である。
「なんだったんだあ、今の小悪魔は」
 よろよろと逃げ去るちびっこを見て、世凪は不機嫌にそう言った。
「え? 小悪魔?」
 柚巴はきょとんとした顔で、おもしろくなさそうな表情を浮かべる世凪の顔を見上げる。
 小悪魔。
 柚巴はその言葉を、限夢界のものとしてははじめて耳にした。


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update:03/12/13