さりげない優しさ
(1)

 また王につかまってしまった世凪を見捨て、王宮の中をぶらぶらと散策していた。
 これは、ここのところの柚巴の日課となりつつある。
 柚巴との婚約が正式に決まってから、世凪は渋々といった感じで、王について政治向きのことをいろいろと教え込まれている。
 それは、次の王となる世凪には必要なことだけれど、これまでは散々逃げまわっていた。
 面倒だの邪魔くさいだの、仕舞いには、王になる気はないなどと言ったりして。
 柚巴との婚約を認めさせるかわりに、半ば強引に王からつきつけられた条件がある。
 それが、今世凪を苦しめている、まさしくこれ。
 しかし、柚巴が手に入る以上、もう諦めてそれに従うことにした。
 柚巴が不幸にさえならなければ、柚巴を幸せにできるのなら、嫌なことでもしなければならないと、世凪にそんな責任感を与えていた。
 そう、全ては柚巴のため。柚巴のためであれば、何だってできる。
 世凪の世界は、柚巴を中心にまわっているから。
 限夢界に名を馳せる暴れん坊、世凪が唯一恐れるもの。それは、柚巴。
 王は、そんな世凪の思いなど、お見通しなのである。

 あちらこちらと、まだ足を踏み入れたことのない場所を探検することは、けっこうおもしろかったりする。
 限夢界のことはある程度は聞いていたが、実際その目で見たことのなかった柚巴にとっては、限られた王宮内であっても、見るもの全てが新鮮だった。
 きらきらと陽の光差し込むテラス。バルコニー。
 忙しなく動きまわっている、いい香りが漂ってくる厨房。
 剣の鍛錬をしていると見せかけて、実はちゃんばらごっこをして遊んでいる近衛の兵たち。
 書類の整理をしているふりをして、その陰でこっそり、カード遊びをしている文官たち。
 そして、花が咲き乱れるあの中庭。
 王宮には、柚巴の心を弾ませるものがたくさんある。
 真面目なふりして、みんなそれなりに自由に楽しくやっているのだと、少し呆れて、微笑ましく思っていた。
 知れば知るほど、限夢界というところは、平和なところだな〜と、ぼんやりと思ったりなどして……。
 やはりそれは、人間とはくらべものにならないほど長い長い時間を生きる限夢人だからこそ、そう生き急ぐことはなく、のんびりと日々を過ごしているのだろうか。
 そんなきらきらと輝く世界から、いつの間にか、柚巴は薄暗く、どこかどんよりとした空気をはらむ廊下に迷いこんでいた。
 湿気の匂いが、いやに鼻につく。
 両側の壁は、崩れかけた、さらには苔すらはえているような、そんな石造り。
 下手をすれば、かび臭さまで感じてしまいそうな、そんな嫌な場所。
 これまで柚巴が目にしてきた場所とは、明らかに異なっている。
 どくんどくんと、不安を覚えた心臓が、少しはやく脈打つ。
 一刻も早くこの場所から抜け出したいと、柚巴は逸る思いを懸命に押し殺し、彷徨いこんだ不気味なこの場所から抜け出そうと辺りを見まわす。
 すると、柚巴の目に、半開きになった木の扉から、ほんのりと橙色の明かりがもれる部屋を見つけた。
 誰かいる。これで助かると思った柚巴は、その扉に駆け寄っていた。
 そして、そろ〜りと、扉の中をのぞきこむ。
 この王宮内で柚巴に危害を加える者などいないとわかっていても、やはりはじめてのところは緊張する。
 そして、不安。
「あれ? 芽里さん?」
 部屋の中をのぞいた柚巴は、ぽつりとそうつぶやいていた。
「あ……。柚巴さま。こんにちは」
 柚巴のそのつぶやきに気づいた部屋の中にいた人物、芽里は振り返り、にっこりと微笑んだ。
 いきなり目の前に柚巴が現れたというのに、まったく驚いた様子はない。
 もしかしたら芽里は、気配をよんで、すでに柚巴の存在に気づいていたのだろうか。
 そう考えるのが、この場合、自然のような気がする。
 そして柚巴は、その緊張から、不安から、気配をよむことを忘れていたようである。
 だから、部屋の中をのぞいてはじめて、部屋の中にいる人物が誰であるかわかったのだろう。
 柚巴は芽里の姿を確認して、さらに笑顔を向けられて、ほっと安堵した。
 これまでの緊張も不安も、まるで嘘のようにすうっとひいていく。
 だけど、浮かべたその微笑みは、まだどこかぎこちない。
「こんにちは。もしかして、芽里さんはここでお仕事をしているのですか?」
「はい。よかったら中へどうぞ」
 半開きの扉をはさんでの会話に終止符を打つように、芽里がそう言った。
 そして、扉を完全に開き、そこに立っていた柚巴を中へと促す。
 柚巴は嬉しそうに微笑み、こくんとうなずいた。
 促されるまま、部屋の中に足を踏み入れる。
 そして、興味深げにまわりを見まわした。
 相変わらずここも、どこかかび臭いような気はしたけれど、そんなものはその瞬間、どうでもよくなっていた。
「すごい……。ここって何のお部屋ですか? 薬瓶のようなものがたくさん並んでいますね?」
 柚巴が招き入れられたその部屋は、件の呪術部屋だった。
 部屋の真ん中に置かれた三つの机の上には、どこか胡散臭い、黄ばんだ書物が煩雑に置かれている。
 中には、虫が食って、もうそのかたちをなしていない紙切れなどもある。
 とにかく、そこにある三つの机の上は、むちゃくちゃ。いろいろなものが散乱している。
 そして、入り口のある壁を除き、三方の壁には、びっしりと、奇妙な形や不気味な色をした薬品の瓶のようなものが並んだ棚がある。
 あまつさえ、おあつらえむきとばかりに、ちゃっかりくもの巣なんかもはったりして。
 もちろん、うっすらとや、深くほこりがつもったりしている瓶もある。
 何やら、物語に出てくる魔女の地下室のような雰囲気がある。
 煩雑でめちゃくちゃなその部屋だけれど、不思議とおどろおどろしいものはない。
 ゆらゆらと揺れる燭台の灯りは、かえってこの部屋に調和していた。
 そして、呪術部屋という名に演出効果を与えていた。
「ここは呪術部屋です。あ……。その辺りに適当に座っていてください。今、お茶を淹れますので」
 そう言って、芽里は人なつこい笑顔を柚巴に向けてきた。
 数日前、世凪との時間を邪魔するようにわって入ってきた時もそうだったけれど、柚巴はこの芽里という少女とは仲良くなれそうな気がしていた。
 幻撞がいうには、かなりのおっちょこちょいらしいけれど、それは麻阿佐でもう慣れている。だから、たいしたことはない。……はず。
「はい。ありがとうございます」
 芽里に言われるがまま、柚巴はにっこりと笑ってそう答える。
 そして、座れそうな場所を探すために、辺りを見まわしてみた。
 しかし、適当に座れる場所など皆無。
 入ってきた時も思ったけれど、この部屋はとにかく好き放題散らかっている。
 下手に触れたら雪崩が起こりそうなくらい床に積まれた書物など、とにかく触れることすら危ぶまれるものまである。
 柚巴はとりあえず、座れそうな場所として、机と……それに付属する椅子へと狙いを定めた。
 机の上は、いろいろなものが散らかっていて、片づけている間に日が暮れそうである。
 だからといって、椅子も……書物を置き、その上に不安定に置かれた色あせた薬瓶。
 とにかく、少し片づけようとしても、どこから手をつければよいのかわからない。手のつけようがない。
「あ、その辺りのものには触らないで下さいね。危ないものが混ざっているかもしれませんから」
 そうやって思案していると、ふいに芽里がそんなことを言ってきた。
 ふんふんと鼻歌まじりにお茶を淹れつつ。
「え!?」
 当然、柚巴は芽里のその言葉に、慌てて後ずさる。
 後ずさったそこには、床に積み上げられた書物があり、それに触れ、懸念していた雪崩が起こってしまった。
 しかし芽里は、そんなことは気にした様子すらない。
 相変わらず、楽しそうにお茶を淹れている。
 当然、るんるんという鼻歌つき。
 まったく、無頓着にも程がある。
 しかし、柚巴が、たおしてしまった書物のことを気にしないはずがなく、慌てて積み直そうとしゃがみこむ。
 ちょうどその時、芽里がお茶を淹れ終えて、柚巴のもとへやってきた。
 そしてさらりと、「そんなもの、放っておいていいですよ」などと言って、柚巴を立ち上がらせる。半ば、強引に。
 それで、柚巴はすっかり困り果ててしまった。苦笑いを浮かべる他ない。
 ぽつりと「ごめんね」とつぶやきつつ。
 そのつぶやきに芽里も気づいたようで、にっこりと柚巴に微笑みかえした。
「おまたせしました。――ああ、すみません。座る場所がなかったですね〜」
 そう言って、芽里は愛想笑いをする。
 そして、ひとまず、書物が積まれてはいるが平坦な場所にカップを置いた。
 そうしたかと思うと、今度は豪快に、椅子の上に置かれた書物をばさりと手で払いのける。
 同時に、ばさばさばさと、にぎやかな音が呪術部屋に響く。
 そんな芽里の行いを、やはり柚巴はあっけにとられて見ていた。
 この呪術部屋からして信じられないにもかかわらず、芽里のその行動はもう言葉にもならないほど、柚巴を驚かせていた。
 柚巴は、生まれてから一度も、このような経験をしたことはなかっただろう。
 これもまた、新鮮なできごとだったかもしれない。


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update:04/02/15