悲しみの中の願い
(1)

 人間界。
 そろそろ秋から冬になろうとしている頃。
 世凪と蒼太郎の件より、普段の装いを取り戻しはじめていた頃。
 長かった日も、すぐに暮れるようになった。
 時折吹く冷たい風が、肌をつく。
 気づくと、もう、そんな季節になってしまっていた。

 傾きかけた太陽の陽が差し込む、放課後の学校の廊下。
 遠くの方では、活気あるクラブ活動の声が聞こえる。
 すぐ近くでは、しんと静まり返った廊下に響く、チャイムの音。
 誰もいない廊下に響くそれは、少しの淋しさを運んでくる。
 平常通りの日常に戻りつつあった柚巴は、一人廊下を歩いていた。
 はやく家路につきたいのか、ぱたぱたと多少早足で。
 そんな柚巴がこの後しようと……いや、行こうとしているところは、使い魔たちにはわかりきっている。
 しかし、この人にはそれはわかっていない。
「柚巴〜!」
 そう叫びながら、庚子が柚巴を追いかけてきた。
 そして当然、柚巴のもとまでやって来た庚子がとる行動はこれ。
 ぜいはあと荒い息を整えることも忘れ、がしっと柚巴を抱き寄せ、ぎゅっと抱きしめる。
 庚子の腕の中では、柚巴が嬉しいやら、だけど少し恥ずかしいやらで、どぎまぎとしている。
 しかし、決して庚子を振り払おうとしないことだけはたしかである。
「庚子ちゃん。どうしたの?」
 庚子に思い切り抱きしめられ、その腕の中で、柚巴は首をかしげてきょとんと庚子を見る。
 するとそれに気づいた庚子は、さっと柚巴を解放した。
 しかしそのかわりに、今度はがしっと両肩をつかむ。
 そして、少しすねたふうに頬をふくらませ、じっと柚巴を見つめる。
「どうしたの?じゃないだろう。あんた、ここのところずっと、学校が終わったらすっ飛んで帰ってさ。一体、何してるんだよ?」
 それはまるで、「最近、ほったらかされていてつまらない。っていうか、淋しい」と体全部でいっているようでもあった。
 今さらであるが、庚子にとって柚巴は、目に入れても痛くないくらいかわいい存在である。
 そんな柚巴の最近のこの行動は、当然、庚子にとってはおもしろくない。おもしろいわけがない。
 庚子の言うとおり、ここ最近、庚子は柚巴と一緒に過ごすことが少なくなってしまっていた。
 放課後はほぼ毎日、あの秘密の場所、女子更衣室で、徒然にともに時間をつぶしていたのだから。
 ……そう。時間を――
 そのような庚子だから、今日こそは、その理由を聞き出してやると思って、柚巴を追いかけてきたのだとしてもおかしくはないだろう。
 自分をないがしろにしてまでも優先するその事柄とやらが、気になっても仕方がない。
 これまでは、庚子が優先されていたのだから。
 庚子はいわば、その事柄にとってかわられたようなものである。
「別に、何も……」
 すねる庚子に対し、柚巴はそんな歯切れの悪い言葉を返す。
 その言葉に、庚子は当然、さらに不満を募らせていく。
 何か……誤魔化されている。そのような邪推すらしてしまいそうである。
 じとりと、もの言いたげに柚巴を見つめた。
 そして、半分諦めたようにはあとため息をもらし、ぱっとその手を柚巴の肩からはなす。
「まあ、いいけれどね。それより聞いた? あの佐倉蒼太郎のこと!」
 そう言った庚子の顔は、もうすでに、先ほどまでのすねたようなものではなく、にやりとどこかたちの悪い笑みを浮かべていた。
 まったくもって、変わり身のはやいことである。
 柚巴を追いかけてきた本来の目的は、もう庚子の頭からぽんとはじき出されてしまったらしい。
 まあ、そこが、庚子らしいといえば庚子らしいのだろうけれど。
 柚巴はそんな庚子に驚いた様子はなく、むしろそれが当たり前のようにさらっと受け入れる。
 そしてやはり、きょとんと首をかしげ庚子を見つめる。
「佐倉蒼太郎?」
 いきなり出たその名前に、柚巴がぴくんと反応しないはずがないが、しかしそこはあえて悟られまいと、そのように振る舞ってみせた。
 あくまで、いつもの柚巴を装う。
 佐倉蒼太郎。
 その名は、もうあまり聞きたくはなかった。
 彼の祖父の代から続いている逆恨みのために……結局、彼は彼のいちばん大切なものを失ってしまった。
 そんな辛い場面に、柚巴は居合わせてしまった。
 同時に、蒼太郎の件が片づいた、柚巴たちにとっては喜ばしい場面であったはずだけれど……決して、喜ぶことはできない。
 それよりも、もっと複雑で醜い部分を見てしまったから。
 それまで、大切に大切に育てられ、汚いものなど見たことがなかった柚巴にとって、それはどれほどに大きな衝撃を与えられるものだっただろうか。
 落ち着きを取り戻してもうだいぶ経つが、それでも今もなお、それは柚巴の心を痛めさせる。
 佐倉蒼太郎の件は、同時に、彼を思い出させるから……。
 柚巴の大切な大切な友人のうちの一人、九条多紀。彼である。
 彼は本当に、柚巴によくしてくれた。
 庚子と一緒に柚巴をからかって遊ぶこともよくあったけれど、それにもまして彼は優しかった。
 変わり者と評判だったけれど、決してそうじゃなく……。
 こうやって目をとじれば、すぐ目の前に、今でも彼は立っているような気がする。
 鮮明に、その姿を思い出すことができる。
 どこかひょうひょうと、にっこり微笑んで。
 だけど、優しい目をして……。
 もう二度と会うことはできない、柚巴の大切な友人。
 蒼太郎さえあんなことをしなければ、もしかすると今もまだ、彼は柚巴の隣で笑っていたかもしれないのに……と思うと、苦い思いがこみ上げてくる。
 ふっきろうふっきろうとはしているけれど、だけどどうやってもふっきることができない。
 それだけ、柚巴の中では、九条多紀の存在は大きなものだった。
 同様に、庚子の中でもそうであったに違いない。
 三人で過ごした日々は、本当に楽しくて幸せだったから……。
 しかし、庚子はもう、そこのことは覚えていない。
「そうそう。あいつさ、ここのところずっと、学校に姿を現していなかっただろう?」
 首をかしげる柚巴に、庚子はため息まじりにそう答えた。
 そして、ずいっと柚巴に顔を寄せる。
「う、うん」
「ここだけの話。どうやらあいつ……家出したらしいよ?」
 そして、多少うろたえる柚巴の耳元で、そんなことをそっとささやいた。
 その声は、どこか重いものを感じさせる。
 その顔は、神妙な面持ちで、柚巴に向けられている。
「え……?」
 庚子がそのようなことを言った瞬間、柚巴の顔が庚子へ向けられていた。
 眉を寄せ、少し険しい眼差しで庚子の姿をとらえる。
 柚巴の顔は、強張っていた。
「理由は何かはわからないけれど、そういう噂が流れている。人によっては、たんなる自主退学だろう?とかいう奴もいるけれど、あいつがそんな奴と思うか!? ……まあ、家出というのも説得力に欠けるけれど……」
 すっと柚巴の耳から顔をはなし、腕組みをして、うーんとうなりはじめた。
 庚子はどうやら、どうしてもその答えを導き出したいようである。
 しかし、考えれば考えるほど、わからなくなってしまうらしい。
 蒼太郎という奴は、もともといけ好かない奴なので、あいつがどうしようが関係ないが、しかし、いなければいないで気になってしまう。
 まったく、嫌な奴ほど気になるって本当だな。皮肉なことに……と、庚子は無言で言っている。
「う……ん」
 そのような庚子に、柚巴はやはり歯切れ悪くそうつぶやく。
 どこか考え込むように。
 柚巴には、原因らしいことはわかっているけれど……だけど、それを言えば、彼の存在も言わなければならなくなる。
 もう庚子はその存在すら覚えていない、知らない、彼のことを――
 今庚子が抱く疑問の答えを、柚巴は持ち合わせていた。
 庚子が言ったこと。それは、そうではなく……本当は……。
「わたしが思うには、恐らく、例のあの事件が関係しているのじゃないかと……」
 悩んだ末、庚子はぽつりとそうつぶやいた。
「例の事件?」
 そのつぶやきに、柚巴の顔が険しくゆがむ。
 例の事件。例の事件といえば……。
「ほら、あっただろう? あいつ、柚巴を手に入れるために、わたしを人質にしやがってさ。もうあの後、あんたのところで気がついて、あんたの使い魔のじいさんに聞かされた時は、どうしようかと思ったよ」
 言葉にしたがためにその時のことを思い出し、困ったようにため息をもらす。
 本当にあの時は、もう駄目かと思った。
 あんなに怖い思いをしたのは、あの時がはじめてなんだぞ。
 一体、どうしてくれるんだよ。柚巴。
 まったくあんたは……心配かけやがって。
 そう言いたげに、庚子は優しく柚巴を見つめる。
 そして、先ほどから歯切れの悪い生半可な返事をくり返す柚巴の様子に、ようやく触れる。
 本当はさっきから気になっていたけれど、それに触れてもいいのかどうかためらわれていたから。
 だけど、次第に元気をなくしていく柚巴は、やはり気になって仕方ない。
 だから、思い切って聞く。
 うつむく柚巴の頬にそっと触れた。
 優しいけれど、だけどどこか淋しそうに柚巴を見つめ。
「柚巴? どうした? さっきから黙り込んで……」
 触れた庚子の手に、柚巴はそっと自分の手を重ねる。
 そして、きゅっと握り締める。
「うん……。実はね……」
「なんだ?」
 なだめるように、庚子は柚巴に語りかける。
 すると柚巴は、庚子の手に触れるその手にさらにきゅっと力をこめ、ばっと顔を上げた。
 そして、辛そうに庚子を見つめる。
「ここでは話せないから、今から家へ来て」
 柚巴のその顔が、その目が、あまりにも真剣だったので、辛そうだったので、そして悲しみを帯びていたので、庚子は気おされるように、思わずこくんとうなずいていた。
 そして、同時に悟る。
 柚巴がこれから話そうとしていることは、恐らく……重大なことなのだろう。
 そう。少なくとも、こんなところ、放課後の学校の廊下で話せるようなことではない。
 再び、静まり返った廊下に、やけに大きくチャイムの音が響く。
 晩秋の夕暮れにとけ込むように――


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update:04/03/02