悲しみの中の願い
(4)

 限夢界、神のドーム。
 ここは相変わらず、人気がない。
 神域……という神聖な場所にあることが災いしているのか、本当にここに近づく者は少ない。
 神域の中でも、ひときわ大きくそびえるそれ。
 白い大理石のように輝く壁に覆われている。
 しかしこのドームに使われているものは、大理石ではない。
 大理石といえば、マーブル模様がすぐに思い出されるが、これにはそのようなものはない。
 ただ、大理石よりも硬度がある石で、そして輝いている。
 神のドームの外壁に使われている石。
 その石が何であるか、現在では知る者はいない。
 この王宮が……いや、この世界ができた時から、このドームはすでにここに存在していた。
 信仰から建てられたものではなく、最初からそこにあった。
 あくまで……王宮の奥深くに残る、虫食いの破れかけた文献によれば……であるけれど。
 外壁は全て光り輝く真っ白い石であるのに、その中に入れば、虹色に輝くステンドグラスの海。
 まったくもって不思議な建物である。
 多紀が自らの存在をもって証明したように、この建物は限夢人でさえも予想もつかない出来事を起こしてくれる。
 それはやはり……この建物が、神域の中でも特に神聖な建物だからかもしれない。
 智神・タキーシャが覚醒し、そして最高神・シュテファンの声を聞けるこの場所――
 柚巴は、そこにいた。
 王から中に入る許可を得た柚巴は、しばしばここを訪れる。
 柚巴の目の前には、床に彫られた智神・タキーシャの姿。
 冷たいその体に触れると、余計に悲しくなってくる。
「いつでも会える……」
 そう言って、かつて華久夜と紗霧羅は慰めてくれたけれど……やはり、ぬくもりを感じないこんな彫刻などでは、余計に苦しくなるだけ。
 会えないその辛さが募る。
 そっと床の彫刻に触れ、柚巴はそれを静かに見つめていた。
 誰もいない……柚巴しかいない、この神のドームの中で。
 きらきらと、ステンドグラスを通り抜け、七色の陽光が差し込んでくるけれど、柚巴の目にはモノクロームにしか見えない。
 以前は、とてもきれいだと思ったそれが……。
 今は、不思議に色あせて見えてしまう。
「多紀くんの嘘つき……。全然、忘れていないじゃない。庚子ちゃんは覚えているよ。ちゃんと覚えている。頭じゃない、気持ちで、心で……!」
 触れていた床に、ぽつりと小さなしみができる。
 それは最初は小さな点だったが、次第にじわじわと大きくなり、また数も増えていく。
 気づけば、ぽろぽろと、柚巴の目から落ちるものがあった。
 智神・タキーシャの彫刻は、色を変化させていく。
 淡い色から……濃い色へと。
 柚巴の涙を吸って……。
 たしかこの彫刻は、彫刻と人が踏むその間に空気の層のようなものがあり、直接彫刻に触れることはなかったはずだが、皮肉なことに、涙だけは通り抜けて、直接触れてしまうらしい。
 摩擦により削れることはなくても、人の涙によって浸食されることはあるかもしれない。
 そう。今まさに柚巴が体現しているように、悲しみの涙によって。
 目の前に増える丸いしみに柚巴は気づき、やりきれなく顔をゆがめた。
 そして、だんと床を打ちつける。
 まるで、目の前にいる智神・タキーシャの頬をぶつように。
 それは、嘘をついた友達の頬をぶつようであった。
 柚巴は、ぶった自分の手のひらを見つめた。
 よほど強くぶったのか、ほのかにじんじんと痛みを感じるような気がする。
 そして、じわりと手のひらが赤くなっていく。
 そんな自らの手を、ぎゅっと握り締める。
 ぎゅっと握りしめると、体の全ての力が抜けるような気がした。
 くらっとめまいを覚え、ずるずるとその場にくずおれていく。
 今感じためまいは……悲しみによる、苦しみによるめまい。
 もう、正気でいられないくらい、辛い――
「ねえ、多紀くん。記憶を消すならちゃんと消してよ。できないなら、最初から消すなんて言わないで。しないで……! わたし、どうすればいいのかわからないよ。庚子ちゃんに話してもいい。だけど、そうしたら、余計に庚子ちゃんが苦しむような気がするの……! ――ねえ、お願いだから、何か言ってよ、教えてよ、多紀くん……!!」
 ぎゅっと握り締めていた手を再びひらき、まただんと智神・タキーシャの頬をうちつけた。
 すぐ近くまできていた、智神・タキーシャを。
 限夢界の智を司る神のはずのタキーシャなのに、何故、このような決して賢いとはいえないようなことをするのか。
 何故、このような中途半端なことをするのか……。
 柚巴はそう非難したくて仕方がなかった。
 非難せずにはいられない。
 そうしないと、やりきれないから。
 多紀がいなくなった悲しみは……癒えないから。
 本当は、智神・タキーシャなんていらない。多紀がいればそれでいい。
 そう思っているけれど、だけどそれはやっぱり言えなくて……。
 もう、苦しくてたまらない。
 庚子が、その心で彼の存在をちゃんと覚えていると知った今は、なおさらそう思わずにはいられなくなる。
 本当に大好きだった。そして大切だった友達だから。
「……柚巴、やはりここにいたのか……」
 床に突っ伏してしまっていた柚巴に、静かにそう声がかかった。
 辛そうで、だけど労わる声色。
 そして、同時に感じる。誰かのぬくもり。
 いや、誰かなどではない。
 これは、あの人のぬくもり。
 いつの間にか現れていた世凪が、床にしゃがみこむ柚巴をふわっと抱きしめていた。
 そして、顔を上げさせ、そっとその頬に伝う涙をぬぐう。
 ぬぐってもぬぐいきれないとわかっていても、優しく。愛しく。
「何を泣いている?」
 顔を上げさせた柚巴を優しく見つめ、そして自分の胸へとすっと抱き寄せた。
 優しく柚巴をその胸に抱く。
「世凪……」
 柚巴は、世凪の胸の中、ぽつりと世凪の名を呼んだ。
 そして、ぐいっとその胸に自分の顔をおしつける。
 押しつけた世凪の胸は、柚巴の涙にぬれ、ひやりと冷たさを感じさせる。
 体ではなく……心で。
「柚巴……?」
 やはり、世凪にしがみつく柚巴をきゅっと抱きしめ、世凪は優しく柚巴の名を呼んだ。
 それはまるで、柚巴に話を促すように。
 何故、今泣いているのか。
 本当はその理由を知っているけれど、あえてそうする。尋ねる。
 胸に抱く辛いものを吐き出すことによって、少しでも柚巴の苦しみがやわらげばと……。
 その苦しみのはけ口に自分がなろうと。
 そのような世凪の柚巴の思う気持ちは、柚巴にもしっかりと伝わっている。
 そして、ついついそれに甘えてしまう。
 本当に辛いから。そして、世凪の優しさが嬉しいから。
「あのね、庚子ちゃんが……庚子ちゃんが、多紀くんのことを思い出しかけているの。どうしよう。どうすればいいの?」
 うずめた世凪の胸から少し顔をずらし、じっと世凪の顔を見つめる。
 それまで優しく見つめていた世凪の顔が、瞬時にゆがみを見せる。
「……それは、本当か?」
 それは……予想していた言葉と少し違うと言いたげである。
 柚巴はまた、多紀がいなくなったことを淋しく思っている……。
 その程度にしか世凪は思っていなかった。
 だから先を促した。
 しかし、柚巴が今言ったことは、そんなかわいらしいものではなく、とても重大なことである。
 神が施したものが、効かない……。
 つまりは、そういうことだから。
「う、うん……」
 あまりにも真剣な眼差しで聞いてくる世凪に、柚巴は逆に少し驚いてしまった。
 世凪のことだから、またさらっと流すに違いないと思っていたから。
 柚巴が世凪以外の者を気にかけると、この王子様はすぐにすねてしまうことを知っていたから。
 それなのに、今回の王子様の反応は……どこか違う。
「わかった。――行くぞ、柚巴」
 世凪のいつもとは違う反応に戸惑う柚巴など関係なしに、世凪はそう言い切った。
 そして、ひょいっと柚巴を抱き上げる。
 柚巴に何の苦労も、苦痛も与えることがないようにと、お姫様だっこで。
 きゅっと自分の胸へと柚巴の体を押しつけて。
 それは半分以上、このような状況でも、ここぞとばかりに行われた、柚巴を感じるための、抜け目のない行動だったかもしれないけれど。
「え……?」
 世凪に抱きかかえられた柚巴は、抵抗する素振りはないが、かなり戸惑ってはいるようである。
 世凪のこの行動と、その言葉に。
 行くって……一体どこへ?と。
 戸惑い、そしてきょとんと世凪を見つめる柚巴に、世凪は困ったように肩をすくめる。
「多紀に会いに行くんだよ」
 そして、さらっとそんなことを言ってのけた。
「そ、そんなことできるの!?」
 それは、投げかけてしかるべき疑問。
 神に会いに行く……などと、そんなことが果たして可能なのだろうか!?
 いや。仮に可能だとして、どうして今さら?
 多紀と別れたあの時は、そんなことは一言も言っていなかったのに……。
 あ……。しかし、そういえば、あの場に世凪はいなかった。
 では、あの場にいた使い魔たちでは無理だが、世凪なら可能だと? 世凪は知っていると?
 神に会いに行く。
 それはいくら人間界と異なった限夢界でも、不可能に近いのではないだろうか?
「できないこともない。……多少、犠牲は要するがな……」
 半信半疑だった柚巴は、世凪のその言葉を聞いた瞬間、絶句した。そして、信じる。
 何か言いたげに顔をゆがめ、だけどそれは口にはせず……。
 ただじっと世凪を見つめていた。
 あの世凪が、多少、犠牲を要するが……とそう言って可能と言ったのだから、それは本当に可能なのだろう。
 そして、とても危険なのだろう。
 自分の力を信じて疑わない俺様王子様が、犠牲という言葉を用いるくらいだから。
 しかし、それに気づいていても「会いに行かなくていい」と言えない自分の不甲斐なさを、柚巴は恨んでしまった。呪った。
 会いたい。多紀に会いたい。
 会って、庚子にどう語ればいいのか教えて欲しい。
 それは、今、柚巴の心を占める、悲しみの中の願いだから……。


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update:04/03/11