記憶の欠片
(1)

 人間界。
 私立 翔竜崎高等学校。
 そこは、世間でも名の知れた、進学校。
 良家の子息がたくさん通う、どこにでもありふれたようで、だけどやっぱりどこかが違う高校。
 放課後の陽の光が差し込む渡り廊下に、威勢のよい声が響く。
 それは、いつかどこかで聞いたような、見たような光景。
 あの日の記憶が、鮮明によみがえってくるようである。
 あの、楽しかった日々が。
 今はもう、決して戻ることはない、手にすることはない、あの日の記憶。
「柚巴〜。今日も特別授業?」
 右手をぶんぶんと振りながら、庚子が先を行く柚巴に駆け寄ってきた。
 声をかけられた瞬間、ぴたっと足をとめ、恨めしそうにくる〜りと振り返る。
 そして、柚巴には似つかわしくない、目をすわらせ、どこかすねたようなその顔で、じとりと庚子にもの言わぬ視線を送る。
「……そうだよ。庚子ちゃん、楽しんでいない?」
 ため息まじりに、疲れたような言葉がもれた。
 そのような柚巴の様子に、庚子はますますご機嫌を浮上させていく。
 いや、意地悪く楽しそうににやにやと笑う。
「別に〜。そりゃあ十日近くも姿をくらましてりゃあ、当然でしょうな〜」
 まるで、カカカという笑い声が聞こえてきそうなその表情で、庚子はやはりにかにかと笑っている。
 そのような庚子に、柚巴はさらに脱力してしまう。
「やっぱり、楽しんでいるね……」
 そうつぶやき、げんなりと肩を落とし、うなだれる。
 庚子のこのにやにや笑いがはじまっては、もう何を言っても無駄なことくらい、柚巴にはわかりすぎている。
 本当にこの友達は、たちが悪いのだから。
 さすが、学校一の問題児の異名を持つ友人である。
 そしてまた……学校一の変わり者と異名を持つ友人も、柚巴にはかつていた。
 秀才でありながら、そのひょうひょうとしたどこかつれない態度が、人を寄せつけない雰囲気が、まわりからの印象を悪くしていた。
 しかも、学校一の問題児庚子とおさななじみの上に仲がよいという点が、周囲に与える印象をより悪くしていた。
 だけど、まわりがどう評価しようが、柚巴にとっては、とても大切な友人だったことに変わりない。
 そう。現在形ではなく、過去形。
 もう二度と、一緒に笑い合うことのできない、その友人。
 庚子が忘れてしまった、大切な存在。
 庚子だけではない。
 この学校、いや、この世界から、存在を消されてしまった少年。
 彼を失った時、柚巴の心をぽっかりと穴があいたような空虚感が襲った。
 そして今も、それは変わることはない。
 二度と戻ってはこないとわかっているあの楽しかった日々を、いまだ諦めることができず、ずっと夢見ている。
 願わくは、楽しかったあの日々を、もう一度と――
「でもまあ、よくやったよ、柚巴。話によると、相当大変だったのだって?」
 うなだれる柚巴の肩をぽんとたたき、庚子は相変わらず楽しそうにそう言う。
 そして、ぐいっと肩を抱き寄せ、優しい瞳で柚巴を見つめる。
 口は悪いが、柚巴を思うその気持ちは、とても優しいものだと柚巴は知っている。
 だから、思わず、胸の内で苦笑いを浮かべてしまう。
 この素直じゃない、友人を思い。
「それほどでもないけれど……。でも、どうにか落ち着きはじめたみたいだから、それは良かったと思うよ?」
 抱き寄せる庚子の肩にぽてっと頭をもたれかけ、柚巴はそこからにこっと微笑んだ。
 すると、庚子もそれにあわせるように、にこっりと微笑む。
 しかし、その顔は、すぐに曇ってしまった。
 たら〜りと、一筋の冷や汗がその額から流れ落ちたような気がする。
「しかし……何だな〜。特別授業、別にあんたなら受けなくてもいいのに……」
 柚巴を抱き寄せながら、あいたもう一方の手で、ぽりぽりとこめかみあたりをかく。
 そして、ははと肩をすくめて見せた。
 そのような庚子の様子に、柚巴もまた苦笑いを浮かべる。
「ああ……そうだね……」
 そしてそうつぶやき、どこか遠くを見るように、視線を泳がせた。
「だけど、どうしていきなり、あいつが出て来るんだ? しかも非公認。おしかけ講師」
 そう言った庚子は、先ほどまでの困った様子はなく、どこか苦々しげだった。
 ぽりぽりとかいていたその手を、今度はぎゅっと握り締める。
 心なしか、ぶるぶると震えているような気がする。
 それはもちろん、怒りのために。
 そのような庚子を、柚巴は困ったように見つめることしかできなかった。
 庚子のその言い分は、わかる。わかりすぎるほどわかってしまうから……。
 そして、柚巴もまた、そう思っていないわけではないから。
 その時だった。
 前方から、手を振り、にこやかに微笑み、近づいてくる一人の少年の姿が目に入った。
 放課後の陽を受け、無駄にきらきら光っているように見える。
 一瞬、女の子に見紛うほどの、かわいらしい少年だった。
「柚巴さん、おまたせ。それじゃあ、はじめましょうか?」
 柚巴のもとまでやって来ると、にこっと微笑み、少年はそう声をかけてくる。
 柚巴の肩を抱く庚子に、さりげなく冷ややかな視線を流しつつ。
 もちろん、柚巴はその視線には気づいていない。
 庚子だけがそれに気づき、ひくりと頬をひきつらせていた。
甲斐(かい)くん……」
 柚巴に気づかれぬよう、ばちばちと火花を散らせる少年……甲斐の言葉に、柚巴はぽつりとそうつぶやいた。
 そして、ちろりと庚子の顔を盗み見て、肩をすくめる。
 先ほどまでのご機嫌はどこへやら、現在の庚子はすこぶるご機嫌がななめのよう。
 それはもう、誰が見ても明らか。
 甲斐がやってきた瞬間、柚巴の肩を抱く庚子の手に、少し力が加えられた辺りから、それは間違いではないだろう。
 庚子は、甲斐を嫌っている。
 その理由としては、柚巴をかっさらっていくから。
 先ほどの甲斐の言葉から、そう推察できる。
 明らかに怒っている庚子をよそに、甲斐は涼しい顔で、にっこりと柚巴に微笑みかける。
 それはもちろん、庚子にあてつけられた微笑み。
「やはり柚巴さんですね。一週間のブランクなんて感じさせない。さすがですよ」
 この少年は、そのかわいらしい容姿とは裏腹に、なかなかにいい性格をしているらしい。
 庚子に対抗できる程度に。
 そして、そのかわいらしい顔の使い方を、心得ているようで……。
 さらりとにらみつけてくる庚子を無視し、甲斐はあくまで柚巴にだけ、にこにこと微笑みかけてくる。
 そのような庚子と甲斐の様子に、柚巴はさらに疲れを覚えたような気がした。
 これでは、限夢界で世凪にまとわりつかれているのと、さほど変わりない。
 疲れる……という点において。
「ってさあ、甲斐。あんた、柚巴は別に、あんたの特別授業なんて必要じゃないんだよ? いい加減、人の迷惑ってものも……」
 完全に無視を決め込まれていることに気づいているのか、庚子は柚巴と甲斐の間に乗り出すようにひょいっと顔をわり込ませ、思いっきり盛大にため息をついた。
 それはもちろん、「あんたの存在は、迷惑以外のなにものでもないのだよ」と、無言の圧力をかけている。
 しかし、さすがと言おうか、甲斐は庚子のそんな逆襲にも動じることはない。
 むしろ、そんな庚子を、ふふんと鼻で笑い飛ばす勢いである。
「たしかに、あなたのような頭では、してもしなくても同じでしょう? 松原さん。しかし、柚巴さんは違います。少しでもお役に立てるのなら……と、僕は思いましてね」
 ちらりと嫌味な視線を庚子へ送り、甲斐はにっこりと柚巴に微笑みかける。
 そして、庚子の腕の中から、ぐいっと柚巴を奪い取ってしまった。
 柚巴は、その勢いのまま、前のめりに甲斐のもとへと引き寄せられてしまった。
 そして、そこでやはり、どっと肩を落とす。
 どうやら、この甲斐という少年には、抵抗しても無駄だと諦めているようである。
「う〜わ〜、すっごくムカつく! 第二の蒼太郎現るって感じだな」
 けっとはき捨てるように、庚子はそう言った。
 もちろん、ぎろりと甲斐をにらみつけることも忘れてはいない。
 庚子は、自分が馬鹿にされたことよりも、柚巴を奪い取られたことに憤っているように見える。
 いまだ、柚巴を抱いていたその手が、手持ち無沙汰に、そのままのかたちにたもたれているのが、見ていて少しばかり気の毒になってくる。
 そのような庚子を、甲斐は横目でちろりと見て、くすっと笑った。
 もちろん、相変わらず、嫌味ったらしく。
「……蒼太郎とは、あの佐倉蒼太郎? 彼は残念なことになりましたね。何やらお家の方が破産してしまい、学校を辞めざるをえなかったとか……?」
 肩をすくめ、残念そうにそう言ってみせる。
 しかし、明らかに残念がってはおらず、むしろ馬鹿にしている。
 この少年、やはり、かわいい顔をして、その性格はなかなかに素晴らしいものらしい。
 ここまで容姿と性格にギャップがある少年も、珍しいだろう。
 甲斐のこの性格の悪さに、庚子は当然気づいていて憤っているが、柚巴はというと、どうもそのようなことはどうでもよいらしい。
「……そういう噂も流れているのね……」
 甲斐に腕をつかまれたまま、どこか上の空といった感じで、そうひとりごちていた。
「では、馬鹿は放っておいて、行きましょう。柚巴さん」
 そのような柚巴にかまうことなく、甲斐はぐいっと柚巴の腕をひき、くるりと踵を返す。
「え……!? あ。う、うん」
 庚子と甲斐の戦いを蚊帳の外にしていた柚巴は、いきなりの甲斐の行動に、多少慌ててしまった。
 しどろもどろにそう答えながら、有無を言わせぬ態度の甲斐に、ずるずると引きずられていく。
「庚子ちゃん。後で家へ来て! 話しておきたいことがあるの……!」
 甲斐にさらわれながら、柚巴はそれだけを庚子に言い残していった。
 夕日に照らされた庚子は、憎らしげにそれを見送っていた。
「……ったく。あの甲斐って男は、迷惑極まりない奴だな……」
 まるでどこかの誰かさんのように。
 そこまでは言わなかったが、明らかにそのような色を見せ、庚子は苦々しげにつぶやいていた。
 そして、呆れたように、はあと大きなため息をもらす。
 それは、傾きかけた太陽の光さしこむ、放課後の学校でのことだった。


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update:04/06/14