記憶の欠片
(2)

 その日の夜、庚子は柚巴に言われた通り、御使威邸にやってきていた。
 ともにとった夕食後、柚巴の私室へ誘われ、そこで食後のコーヒーをしながら、会話をはじめようとしている。
 夕方、話しておきたいことがある、と言っていたそれ。
「それで、話って……?」
 ずずっとコーヒーをすすりながら、庚子はちろりと柚巴に視線を移す。
 すると柚巴は、持っていたカップをソーサーの上にかちゃんと置き、視線を落とした。
 どこか言いにくそうに、だけど言わなければならないと、小さな葛藤をしているように見えた。
 そのような柚巴の様子は、庚子の目には、どこかいじらしく映ってしまう。
 やはり、このようなところは、柚巴の変わらないところ。
 以前の柚巴とくらべれば、だいぶかわったが、どうやら根本的な部分はかわっていないようなので、そこに言い知れぬ安堵感を覚えてしまう。
 本当は、そんなことは駄目なのかもしれないけれど、このままずっと、以前のように自分に甘えて欲しいとすら願ってしまう。
 柚巴の成長を喜ばなければならないはずが、何故だかそれを残念に思ってしまうなんて……。
 なんて自分は心がせまいのかと、胸の内で自嘲する。
 こんなに柚巴を独占したいと思うなんて、これではまるで、どこかの俺様王子様と一緒ではないか……。
「うん……。あのね、実は……。庚子ちゃん、前に何かが足りないような気がする……と言っていたよね?」
 ちらっと向けられた柚巴の視線が、気まずそうにゆらゆらゆれている。
 そのような柚巴を見て、庚子はすっと胸に淋しさを覚えた。
 そして、苦笑まじりに、思い出すようにぽつりとつぶやく。
 たしかに、そのようなことを言った覚えがある。
「あ? ……ん? んん〜……。ああ、そういえばそんなことを言ったかな?」
 いや。言った覚えがある、その程度では片づけられない。
 今でも、そう思っている。感じている。
 庚子には、何か大切なものが欠けているような気がする。
 それは本当に、大切だった。
 まるで、片翼を失ったような……風切りを失った鳥のような気分……。
 とても大切な何かを失ったような……。
 それは、大切な記憶の欠片。
「それ、今もそう?」
 首をかしげる庚子を、柚巴はじっと見つめる。
 何かを訴えかけるように、まっすぐに向けられた柚巴の瞳。
 庚子は柚巴のその瞳に、一瞬気おされそうになったが、すぐにこくんとうなずいた。
「ああ、時々ね。ふとした時にそう感じる。……今もそうかな? こうやって音を立ててコーヒーを飲んだりしたら、誰かがちゃちゃを入れていたような……」
 ふっと切なそうに微笑み、庚子は一口コーヒーを口にふくむ。
 その様子が、柚巴の目には、辛く苦しいものに映っていた。
 庚子は、知らない。
 それが、失った記憶の欠片だと……。
 その事実が、柚巴の胸を締めつける。
 本当は、忘れて欲しくなんてなかった。
 二度と会えないとしても、大切なその人の記憶だけは……。
 とても大切なものだから。
 だけど、それを限夢界の神は許してくれなかった。
 柚巴にだけ記憶を残し、あの人をいちばん大切に思っていた人から、記憶を奪った。
 愛しいと感じる思いとともに――
 恐らく、失った友は、庚子にとって、かけがえのない存在、友人だっただろう。
 柚巴にとっても、とても大切な友人であったように。
「……そっか……。そうだよね……」
 柚巴は、自嘲気味にそうつぶやき、カップを持ち上げる。
 そして、それを口へと運ぶ。
「だけど、それがどうかした?」
 そのような柚巴に、庚子は首をかしげていた。
 何も知らず、そうやって首をかしげる庚子を見るのは、やはり柚巴にはいたたまれない。
 コーヒーを口に含むことなく、再びカップをソーサーに置く。
 口内に入れていないにもかかわらず、口の中に、じわりと苦い味が広がっていくような気がする。
 そして、両手を膝の上できゅっと握り締める。
 握り締めたそこに、じわりと汗がにじんできたような気もした。
「実はね……庚子ちゃんから、ある人の記憶が消されているの」
 きゅっと握り締めた手に促されるように、柚巴はきっぱりとそう言い放った。
「はあ!?」
 瞬間、庚子はすっとんきょうな声をあげ、ずるりと座っていたソファからずり落ちそうになった。
 今、柚巴から告げられたそれは、庚子にとっては、あまりにもすっ飛んだ話だったから。
 自分の中から、ある人の記憶が消されている!?
 そんなことがあるはずがない。
 怪訝に顔をゆがめながら、じっと柚巴を見つめ、庚子はゆっくりと体勢を立て直していく。
「……って、それはどういう意味なんだ?」
 そして、訝しげに柚巴に問いかける。
 庚子のその様子は、ある程度予想していたことだといっても、やはり柚巴に苦笑いを浮かべさせずにはいられない。
 本当に、庚子にとっては、どういう意味なんだ?ということだから。このことは。
 まさか、庚子まで、知らず知らず、御使威家と限夢界の因縁に巻き込まれていたなんて……。
 それも、こんな残酷なかたちで。
 愛しい者の記憶を失う……。
 そのような、非情なかたち。
 柚巴は一度首を小さく振り、決意をあらたにするように、じっと庚子を見つめる。
 庚子もまた、柚巴を見つめていた。
「庚子ちゃんは知っているよね? 御使威家と限夢界の関係……」
「ああ。まあ、一応は……」
 気のない返事をしてみる。
 たしかに、御使威家と限夢界の関係のことは知っているが、それが今、一体何の関係があるのだろうか?
 庚子はまだ、これから告げられるであろうことを、わかっていなかった。
 いや、わからなくて当然なのかもしれない。
 いくら関係を知っていようが、やはり、庚子にとっては、対岸の火事のようなものだろう。それは。
 まさか、知らず知らず、巻き込まれていようなど、思うはずがない。
 だから、柚巴は、やはり苦く笑うことしかできない。
 特に、これから庚子に告げようとしていることを思えば。
「そして、庚子ちゃんは、佐倉蒼太郎の件の時、さらわれた……」
「う……ん?」
 なかなか本題に触れようとしない柚巴を、少し怪訝に思いつつも、庚子は素直に相槌をうっていく。
 恐らく、こうやってじらすのも、柚巴がこれから話そうとしていることには必要なことなのだろうと、自分に言い聞かせ。
 そして、それは確かに必要なことだと、庚子はすぐに確信することになる。
「ねえ、その時、庚子ちゃんの他に、一緒にさらわれた人はいなかった!?」
 がばっと身を乗り出し、苦しそうに庚子を見つめてくる。
 柚巴の、その鬼気迫った様子に、庚子は思わず顔をしかめてしまった。
「え……!?」
 目を見開き、柚巴を凝視する。
 ……たしかに、庚子は蒼太郎のあの一件に巻き込まれた。
 しかし、庚子以外にも、他に一緒にさらわれた者がいる……?
 そんなはずはない。
 途中で気を失ってしまったが、たしかにあの時さらわれたのは、庚子ひとりだったはず……。
 しかし、さらわれたのは、庚子だけではないと? 他にもいたと?
 庚子は複雑に顔をゆがめ、頭を抱え込んでしまった。
 わからない。
 一体、何がどうなっているのか。
 頭が混乱して、正常に状況を判断、分析してくれない。
「……? いた……かな? いや、いなかった!? ――わからないよ、そんなの……」
 半ば投げやり気味に、庚子はそう答えるしかできなかった。
 何しろ、庚子には本当にわからないから。
 ともにさらわれた者がいたと言われても……庚子には、その記憶はないのだから。
「それこそが、消された記憶なの……」
 身の内で苦悩する庚子に、柚巴はすぐに答えを用意した。
 そのような答えを。
 庚子が悩むそれこそが、庚子が失った記憶であると。
 わからないそれが、失った記憶……?
 だから、自分にはわからないのか?
 そのような眼差しを、庚子は柚巴に向ける。
 柚巴を見つめる庚子の瞳は、頼りなげにゆらゆらゆれる光を放っていた。
 それは、柚巴にすがるように、助けを求めるように。
 柚巴は、すっと庚子に寄りそい、そっとその肩を抱く。
「庚子ちゃん……。わたしたちは、いつも二人でいた? 他にもう一人いなかった?」
 そう言った柚巴の目には、うっすらと光るものが浮かんでいる。
「だから……」
 そのような柚巴を、不安げに、そして頼りなげに庚子は見つめている。
 何故……柚巴は今、泣いているのか?
 何故、そんなにも悲しそうなのか? 苦しそうなのか?
 やはり、庚子にはその答えは導き出せない。
 ただ、頭が混乱するばかりである。
「うん。だからね、いたのだよ、もう一人。たしかに。わたしたちの横には。それがね、消えた彼、多紀くん。九条多紀くん……」
 柚巴は庚子をぎゅっと抱きしめ、苦しそうにその名を呼んだ。
 九条多紀。
 柚巴と庚子の大切な友人。
 彼の名を――
「九条多紀? 誰? それ……」
 きゅっと抱き寄せられた柚巴の腕の中で、庚子はやはり首をひねることしかできない。
 その名ははじめて聞いた。
 そんな奴、知らない。
 だけど、柚巴は、それが庚子から消えてしまった記憶という。
 本当に、何が何だか……わからない。
 だけど、その名を聞いた瞬間、胸がしめつけられるように痛んだ。
 それは、本当……。
 一体、九条多紀とは……?
 そして、その人物は、庚子とどのような関係だった?
 柚巴に、庚子の不安げなまなざしが向けられる。
「庚子ちゃんの忘れている何かだよ。多紀くんはね、庚子ちゃんと一緒にさらわれ、彼だけ、佐倉蒼太郎に限夢界に連れて行かれたの……」
 庚子の眼差しに答えるように、柚巴は静かにそう告げた。
 瞬間、庚子の顔が複雑にゆがむ。
「――って、ちょっと待てよ! 連れて行かれたって、それじゃあ、そいつは……!!」
 自分を凝視する庚子に、柚巴は辛そうにうなずくだけだった。
 庚子は、柚巴のその肯定のうなずきに、体中の力が抜け落ちるような脱力感に襲われた。
 いや、喪失感? 絶望感?
 もしかすると、そのようなものだったかもしれない。
 柚巴の無言のうなずきは、言葉にせずとも、庚子にある答えをもたらしていた。
 そう。御使威家の者以外が、限夢界に足を踏み入れる。
 それは、即刻、死を意味する……。
 それでは、彼は……九条多紀は、もうこの世にはいない?


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update:04/06/18