記憶の欠片
(3)

「そうか……。でも、だからって、どうして、わたしがそいつのことを忘れることになるんだ?」
 庚子は、何かをふっきるように一度首を大きくふり、そしてあっけらかんとそう言った。
 それは、柚巴の目には、とても痛々しく映ってしまう。
 庚子は……明らかに無理をしている。
 その胸には、はかり知れない痛みを覚えているはずなのに、それでもそうやって気丈に振る舞う。
 それが庚子だと知っているけれど……だけど……。
 恐らく、庚子はそうやって、いつも辛いことに対峙しているのだろう。
 今、柚巴の口から告げられたそれは、残酷なことであるはずなのだから……。
「庚子ちゃんを、悲しませないため……かな?」
 柚巴もまた、ふるっと一度首をふり、にっこりと微笑んで見せる。
 どこかぎこちない、悲しみをはらんだ微笑み。
 今の柚巴には、これが精一杯。
 庚子に合わせ、微笑んでみせるだけで……。
「わたしを悲しませないため……?」
 庚子は、そうやって答える柚巴に、首をかしげる。
 先ほどからそうであるように、柚巴が告げる「庚子から消された記憶」とは、やはり訳がわからないものばかりである。
 それは、失ったものだから、記憶にないものだから当たり前かもしれないが……。
 全てが、庚子の理解の許容範囲をこえているように思えてならない。
 ただ、先ほどから、「九条多紀」の名を聞いた時から、ずきずきと胸が痛んでいる……。
 それだけが、今の庚子の本当。
「だって、庚子ちゃんは、わたしと出会うずっと前から、多紀くんと仲良しだったもの。……多紀くんは、庚子ちゃんのおさななじみだったのよ」
「え……? そいつとわたしが……?」
 優しく語られるその事実に、庚子は、どこか納得がいかないというように、柚巴を見つめ返した。
 おさななじみ?
 だとしたら、こんなに胸が痛むのは、何故……?
 たかがおさななじみで、こんなに胸が痛むと?
 もしかすると……柚巴が知らないだけで、庚子は、その九条多紀という人間に、もっと別な感情を抱いていたのでは……?と、自分自身を思わず邪推してしまいそうになる。
 この胸の苦しみが、そうさせる。
 こんなに苦しいのは、何故? その名を聞くだけで……。
 それは、柚巴に聞いても、絶対に答えを導き出してはくれない。
 だから、聞くことはできない。
 ただ、自分一人でたえなければならない苦しみだろう。
 きっと、そうに違いない。
 庚子はそう思い、その疑問を胸の奥深くへ沈めていく。
 思い出すと、考えると、胸が呼吸ができないほどに痛むから。
 そのような庚子に気づいているのかいないのか、柚巴はさらに言葉を続けていく。
「だからね、彼は庚子ちゃんを悲しませないために、庚子ちゃんの中から自らの記憶を消したの。庚子ちゃんのために……」
 それは、本当は、少し違うかもしれないけれどね?
 柚巴はその思いは、自分の胸にとどめることにした。
 彼は……そうは言ってはいなかった。
 だけど、そうなのだと信じたいから。
 そう信じることで、思うことで、少しでも彼と過ごした日々が、優しい思い出になっていけばよいと願うから。
 そして、庚子にそう伝えることによって、庚子の苦しみが少しでもやわらげばと……。
 彼は、人ではない。
 そして、この世界のものでもない。
 彼は……神だった。
 彼に与えられた使命は、柚巴を限夢界へ導くこと。
 それだけのために、柚巴が生まれた頃、人間界に遣わされた。
 そして、柚巴と彼……九条多紀に巻き込まれてしまったのが、庚子。
 多紀は、人でも、この世界のものでもなく、限夢界の神だった。
 いくら柚巴とて、神にはさからえない。
 逆らいたくとも、逆らえない。
 そして、精一杯の柚巴の願いも、聞き入れてはもらえなかった。
 彼は、限夢界の最高神・シュテファンに遣わされた神だったから。
 彼はただ、その使命をまっとうしたにすぎない。
 今、柚巴と庚子が抱く苦しみは、一体誰のためにもたらされたものなのか?
 責めるべきは誰なのか?
 いや、誰も責めることはできない。
 これが、まわりはじめた歯車というものだろうか?
 そうだとするならば、なんと残酷な歯車だろう。
 幸福だった記憶だけを残し……奪い、それを糧にまわる歯車とは――
「庚子ちゃん?」
 庚子は、柚巴の言葉を聞き、うつむき、押し黙ってしまった。
 そのような庚子を、心配そうに柚巴がのぞきこむ。
「……だいたいのことはわかった。だけど、何故、今頃になってそんなことを……!?」
 おもむろに上げられた庚子の瞳が、責めるように柚巴の姿をとらえる。
 瞬間、柚巴は言葉を失いそうになった。
 あまりもの衝撃のために。
 庚子は……きっと――
 そう思ったものの、柚巴はその思いをふっ切るように、じっと庚子を見つめ返す。
「何かを……忘れていると悩んでいた庚子ちゃんを見ていられなくて……。それに、庚子ちゃんにとってはとても大切な人だったから、そんな大切な人を忘れたままなんて……」
 それは、嘘偽りなく、本当のこと。
 最初は、庚子のために黙っていようと思っていた。
 それは、自分の胸の中だけにしまっておけばよいことだったから。
 忘れているのなら、無理に思い出す必要はない。
 同じ苦しみを、庚子にも味わわせる必要はない。
 そう思い、黙っていた。
 しかし、黙っていられないと、庚子のある言葉から確信させられた。
 それは、何かを忘れている……そのような言葉。
 庚子が忘れてしまった大切なその何かとは……多紀であると、柚巴は知っている。
 庚子の言葉、思いを知り、もう黙っていられなくなった。
 庚子から、その喪失感を拭いさりたいと思い……。
 そしてまた、柚巴も辛かった。
 庚子に、本当のことを黙っていることが。
 悩み、苦しみ、そして神のドームで思わず叫んでいた。
 責めてもどうにもならないとわかりつつ、責めてしまった。
 庚子の記憶から、自らの存在を奪ってしまった、智神・タキーシャを。多紀を。
 大切な人を忘れたままで、もう苦しんで欲しくなどなかった。
 その思いが、今回、庚子へ真実を告げる引き金となったのかもしれない。
「OK。それじゃあ、あんたはわたしのために、話したというのだね?」
 そのような柚巴の思いが庚子にも伝わったのか、庚子は苦笑まじりにそう言ってみせる。
 そして今度は、庚子がきゅっと柚巴の肩を抱きしめる。
「う、うん。いけなかったかな? やっぱり……」
 自信なげに見つめてくる柚巴に、庚子は苦笑いを浮かべてしまった。
 そんなに不安げな瞳で見つめなくても、こんなことくらいで、庚子が柚巴を嫌いになったりはしないのに……。
 やはり、柚巴は放っておけないな〜と、あらためて庚子に思わせた。
 そして、柚巴は、誰より大切な友人であると、あらためて思う。
「いや、いいよ。……なんとなくわかるような気がするから……」
「え……?」
 そうつぶやかれた庚子の言葉に、柚巴はきょとんと首をかしげていた。
 庚子がつぶやいた言葉の意味を、柚巴は理解できないようである。
 柚巴がそうであるように、庚子もまた柚巴を思っている……。
 そんな簡単なことなのに、柚巴ときたら、全然わかっていない。
 だけど、そんな鈍いところもまた、柚巴を大切だと思う一因なのかもしれない。
 庚子は、鈍感な友人をさらに抱きしめる。
 愛しさを込めて。
「なあ、柚巴。少しずつでいいから、その多紀って奴のことを話してくれない? ……なんとなく、思い出せそうな気がする。わたしも思い出したい」
 柚巴を抱き寄せ、耳元でそっとささやかれたことは、それだった。
 柚巴は驚いたように庚子を見つめ、そして嬉しそうに微笑む。
「うん!」


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update:04/06/24