逢魔が時
(3)

「せ、世凪!? 何しに来たのよ!」
 いつもなら、おとなしく世凪に抱かれているところだけれど……。
 今の柚巴は、世凪に腹を立てている。
 だから当然、そうやって世凪に抗う。
 世凪の腕の中から逃れようと、賢明にもがく。
 しかし、そんなものは、世凪にとってはたわいもない。
「お前が、いきなり部屋を飛び出すからだろう?」
 そうやって、ぎゅうとさらに抱きしめてしまった。
 それでも、柚巴は諦めることなく、悔しそうに世凪をにらみつけ、もがき続ける。
「だって、世凪が悪いのじゃない!」
 柚巴は、とうとうぶすうっとふてくされてしまった。
 世凪の腕の中、つんと顔をそらし、おとなしく抱かれる。
 どうやら、世凪に抗うことはもう諦めたらしい。
 そのかわり、今度は、無視を決め込むつもりである。
「そう言ってもだなあ、あれくらいで怒るか? 普通……」
 柚巴のそんな態度に、多少非難がましく、世凪はぶつぶつとつぶやく。
 そして、強引に柚巴の顔を自分へ向けようと、その頬に手をかける。
 そんな柚巴と世凪のやりとりを前に、華久夜は目をすわらせ呆れていた。
 これで、先ほど、柚巴が一人、回廊を走っていたその理由を悟ってしまえた。
 蓋を開ければ……なんともおまぬけなことか……。
「あのねえ、痴話喧嘩もいいけれど、そこそこにしておきなさいよ。――ほら……」
 結局、それだったのだから。
 そして、はあとため息をもらし、すっと建物の方を指差す。
 するとそこには、柱の陰から、わらわらと湧いて出てくる重臣たちの姿があった。
「まずい……!」
 瞬間、世凪はそう舌打ちをし、ひょいっと柚巴を抱き上げる。
 もちろん、いつものようにお姫様だっこで。
「だから言ったでしょう?」
 そんな、少し慌てたような世凪に、華久夜はやはり呆れたように視線を流す。
「うるさいぞ。華久夜」
 ぶすうとすねた世凪の声が、華久夜に返って来た。
 そして、華久夜もまた……。
「だったら、柚巴をいじめないでよね!」
 多少憤ったような声で、世凪にそう返す。
 世凪は、一瞬悔しそうな顔をして、そのまま、何も答えず、ふいっと華久夜から顔をそらした。
 どうやら、言葉につまってしまったらしい。
 たしかに、今回のこのいわゆる痴話喧嘩≠ヘ、柚巴を少しいじめすぎたために起こってしまったものだから……。
 むっつりとすねた世凪は、華久夜から顔をそむけたまま、その姿を消していく。
 その瞬間、楽しそうな華久夜の声が神域に響いた。
 ローレライの泉と呼ばれるその噴水から飛び散る水しぶきに負けないくらい、透き通った声が。
「がんばってね、柚巴!」
 姿を消す瞬間、華久夜のその言葉を受け、柚巴は訳がわからないと首をかしげていた。
 本当に、柚巴ってば……。
 そんな相変わらずの柚巴を見て、華久夜はおかしそうにころころと笑いはじめる。
 「世凪も、苦労するわね」と、そう言いたげに。
「華久夜さま……! あなたまで、柚巴さまにご協力なさるのですか!?」
 そのような華久夜のもとに、息を切らせた重臣たちが駆け寄ってきた。
 そして、そんなことを叫ぶ。
 瞬間、楽しそうな華久夜の笑い声はやみ、面倒くさそうなため息がもれる。
「うるさいわね。わたしは、もとから柚巴の味方なのよ」
 そう言い放ち、くるりと身を翻す。
 そして、つかつかとその場を去っていく。
 華久夜にまであっさりと見捨てられた重臣たちは、ただ力なげにその場に呆然と立っていた。
 せっかく、柚巴を捕まえられると思ったのに――


「柚巴、いい加減、機嫌を直せって。……あれは、その……俺が悪かった。からかいすぎた」
 世凪の私室に連れ帰った柚巴を前に、世凪はそう素直に頭を下げていた。
 あの、世凪が。
 その世凪を前に、柚巴は相変わらず、つんと顔をそむけている。
 どうやら、柚巴は相当ご立腹らしい。
「口だけでしょう?」
 冷たく、そう言い放つ。
「だから、違うって……」
 そんな柚巴に、世凪は困りきったように言葉を続ける。
 本当に、ここまでしつこく怒る柚巴は珍しい。
 いつもなら、笑って許してくれるはずなのに、どうして、よりにもよって今回はこんなにも……。
 世凪は、もうどうしたらいいのかわからなかった。
 どうやって柚巴のご機嫌をとったらいいのかわからない。
 柚巴と結ばれてから、これまで、こんな喧嘩らしい喧嘩などしたことがなかったから、なおのこと……。
「どうだか? 信じられないわね」
 しかし、そんな困りきった世凪を前にしても、柚巴は相変わらずご機嫌をななめにしたままである。
 一向に世凪を見ようともしない。
 つんとそらした顔は、窓の下に広がる限夢界へと向いている。
 そのような柚巴に、世凪はもうほとほと困りきってしまった。
 それ以上何かを言おうとはせず、そのまますっと柚巴に歩み寄る。
 そして、おもむろに、きゅっと柚巴を抱きしめた。
 胸にこわれものを抱くかのように、優しく労わるように抱きしめる。
「……嫌いなのだからね」
 その世凪の胸の中から、すねた柚巴の声がぽつりともれる。
「ああ。わかっている」
 しかし、世凪は妙に優しく、そうささやくだけだった。
 ふわりと柚巴の耳に口を近づけ。
 ふわっと柚巴の首筋に、世凪のあたたかな吐息がかかる。
「だから、嫌いだって言っているじゃない」
 相変わらずのすねた柚巴の声がもれる。
 ぐいっと世凪のその胸に顔をうずめ。
 きゅっと世凪を抱きしめ返し。
「そうだな」
 それにあわせるように、柚巴を抱く世凪の腕に、ほんの少し力が加わった。
 びくんと柚巴の体が反応する。
 そして、抱きしめ返していたその手をばっとはなし、今度はぐいっと世凪を引きはなしにかかる。
「もう、放してよ」
 だけど、やっぱりびくともせず……。
「嫌だ……」
 そんなあまいささやきとともに、またその腕に力が加わった。
「せ、世凪……!?」
 あまりにも熱く、求めるように抱きしめてくるので、柚巴は急に慌てはじめた。
 今の今までのすねた様子はもうどこにもなく。
 ただただ、慌てている。
 世凪の、あまりもの熱っぽさに。
 しかし、柚巴のその戸惑いに答える世凪の言葉はなく、ただぎゅっと柚巴を抱きしめる。
 けっこうな時間、追いかけっこを続けていたらしく、気づけば、太陽はもう西に傾きかけていた。
 窓の向こうでは、淡いオレンジ色で空が染められはじめている。
 しばらくして、柚巴を抱く世凪の腕から、すっと力が抜けた。
 そして、熱い眼差しが柚巴に降り注がれる。
「……俺は、決してお前を嫌いにならない――」
 切なそうに、世凪はそうつぶやいた。
 その瞬間、目も、心も、世凪のそれにとらわれてしまった。
 そして、一瞬の隙が生まれる。

 時はすでに、夕方になっている。
 太陽も、頭をほんの少し残しただけ。
 オレンジ色と紫色が絶妙に混ざり合う。


 逢魔が時。
 大禍時(おおまがとき)――
 日の傾きかけた夕暮れを、時に人はそう呼ぶ。
 この時分は、辻々を鬼が通り、人の心を惑わせるとされ、古来より忌み嫌われている。
 しかし、この二人にとって、夕暮れ時は――

 窓越しに入ってくるオレンジ色と紫色がまじったその光を受け、この時はじめて、二人のシルエットが重なり合う。
 口づけをかわすように……。
 それは、誰も知らない、二人だけの出来事――


限夢界編 おわり

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update:04/10/02