比礼という名の世界
(1)

「鬼栖ちゃん、一体、今回のこれって何だと思う?」
 覇夢赦との話の後、柚巴は用意された貴賓用の客室に場所移りをした。
 ここに来るまでの間に通った廊下は、限夢界のそれとはやはり異なった。
 限夢界の王宮は、白亜の王宮。
 やわらかい赤絨毯が、足音を吸収してくれて、嫌な音はしない。
 しかし、この比礼界の王城は、歩くたびに、かつんかつんという無機質な冷たい音を発する。
 石造りの廊下は、ぼこぼことして歩きにくくもある。
 壁もまた、石を組んだようなそれで、飾り気の一つもない。
 まさしく、第一印象通りの、戦うためだけに造られた要塞のようである。
 これが限夢界ならば、無意味に、あちらこちらに、大きな花瓶やら壺やらが飾られているところだけれど……。
 それこそ、鬼栖が姿を隠し、虎視眈々と柚巴をつけ狙える程度に。
 柚巴は、通された部屋の窓に両手を触れ、そこから憂鬱そうに外の景色を見ている。
 景色……といっても、ここから見渡せるものは、いかにこの城が厳重に警備されているか、といったものくらい。
 限夢界のように、美しい景色が広がっているわけではない。
 城下を見下ろすことさえできない。
 何重にもはりめぐらされた、防壁のために。
 そして、その防壁のあちらこちらには、兵の姿もある。
 恐らく、どこをつついても、死角が存在しないのではないか……と思えるほどの、厳重な警戒ぶりである。
 それが、ほんの少しだけ、柚巴に、「んー。やっぱり、危機なのかな?」と、皮肉にも思わせてしまうけれど。
「俺様も、さっぱりわからん」
 柚巴が手をつくそのすぐ横にぴょんと飛び乗り、くりんと首をかしげてみせる。
 鬼栖がいくらそんなことをしたって、かわいらしくもなんともないけれど。
 何しろ鬼栖は、真っ黒い毛むくじゃらの球体。
 お世辞でも、かわいいなどとは、口がさけたって言えない。
 むしろ、不気味。
「やっぱり、そっか〜……。だってね、危機とか何とか言って、結局何もしないまま、一日終わっちゃったよね? 一体、何なのかな……」
 たしかに、そうである。
 柚巴がこの比礼界に連れてこられたのは、たしか昼頃だったと思う。
 そして、あれから、何やかやと過ごし……。
 もう、あくる日の朝を迎えた。
 窓の外の明るさは、ここに来た時から一度もかわっていない。
 何故ならば……この世界は、その時からすでに、暗かったから。
 比礼界は、常闇の世界。
 柚巴が見る景色では、ゆらゆらと松明が燃え上がっている。
 きっと……この辺りに、地獄……といわれる所以があるのかもしれない。
 柚巴は、なんとなくそう思いはじめていた。
 それはあくまで、あて推量にすぎないけれど。
 なんとかして、比礼界のことをわかろうとすると、そうなってしまう。
 何しろ、これまでに与えられた情報は、少なすぎるから。
 そして、このままこうやって、残り二日も過ごさなければならないのかと思うと……ぞくっと、体が震える。
 何かよくないことが起こりそうな、そんな気がしてならないから。
 このまま大人しく、あと二日も、この比礼界にいていいのだろうか?
 呼べば、助けを求めれば、世凪なら、今すぐにでも飛んできてくれるだろうけれど……今回は、その世凪が柚巴に比礼界へ行って欲しい、そう誰にも気づかれぬように耳打ちしてきた。
 だから柚巴は、怖いけれど、不安だけれど、頑張ってここまで単身乗り込んできた。
 ……いや。単身ではなかった。
 一応は、味方がいる。
 まったく役に立ちそうにはないけれど。
「まあ、安心しろ。何かあれば、俺様が助けてやる」
 窓におく柚巴の手を、そのもやしの貧弱な手でぽんと軽くたたき、鬼栖は悦に入ったようにうんうんとうなずいている。
 そんな、ふざけた発言をして。
 そして、おまけに、フっ……と悦に入った笑みを浮かべる。
 むしろ、何かあった時、助けられるのは、鬼栖の方に思えてならないのだけれど。
 だって鬼栖は、柚巴に言わせても、全然たいしたことない≠サんな生き物だから。
「あはは。ありがとう、鬼栖ちゃん。かわいい」
 さわさわと、柚巴の手をくすぐるもじゃもじゃのまるい毛を抱え上げ、そのままぎゅっと抱きしめる。
 柚巴の胸の中で、そのもじゃもじゃの球体は、不服そうに暴れているけれど……。
 その球体から伝わってくるぬくもりが、今はなんだか安心感をもたらしてくれる。
 平気な顔をして、比礼界にやってきたように見えるけれど……本当は、不安で不安で仕方がなかったし、怖くて怖くて仕方がなかった。
 だから、こんな鬼栖でも……いないよりはまし。
 安心できる。
 誰かのぬくもりに触れているだけで。
「おい、待て! 俺様はかわいいのではなく、格好いいのだ! 間違えるな!!」
 そんなことをきいきいと叫びながら、胸の中の毛むくじゃらの物体は騒ぎ立てる。
 胸の中で、もじゃもじゃの毛がすれて、なんだかくすぐったい。
 それにしても……この薄汚い毛のかたまりを、かわいいなどというとは……柚巴は、そんなにも、不安で不安で仕方がないのだろう。心細いのだろう。
 本当は、こんなイミテーションのぬくもりではなく、今すぐに、その肌に、大切なあの人のぬくもりを感じたいはずなのに……。
 限夢界一困った暴れん坊、俺様王子様のそのぬくもり。
 その腕の中にいるだけで、無条件に安らいだ気持ちになれる。
 そこは、無条件に優しい場所だから。
 無条件にあたたかい場所だから。
 柚巴を愛しそうに包み込む、その大きな腕。
「……早く帰りたいな〜……」
 むぎゅうと抱きしめる鬼栖に顔をぎゅっとうずめ、柚巴はぽつりとつぶやいていた。
 思わず。
 それは、無意識に口をついた、柚巴の本音。
 本当は、こんなところになどいたくはない。
 一分一秒でも、早く帰りたい。
 早く、あのあたたかくて優しい場所に、飛び込みたい。
 ここは、冷たくて淋しいところだから。
 ぽつりともらした言葉に、鬼栖は暴れることをやめて、そのままぎゅっと柚巴を抱きしめ返す。
 その小さな腕では、柚巴の背にまわすことはできないけれど……。
 めいっぱいにのばされた腕が、柚巴に優しく触れている。
 心配げに柚巴を見つめ。
 もじゃもじゃの真っ黒い毛に、柚巴のさらさらの髪がからむ。
 それが、とても愛しいと思う。
 鬼栖は、柚巴の頬にちゅっとキスをした。
 少しでも、勇気づけたくて。元気づけたくて。
 いつの間に、こんなにこの少女を愛しく思うようになっていたのか……。
 鬼栖にだってわからない。
 好物である人間のこの少女の従魔になったあの時だって、愛しいとかそういう気持ちはなかった。
 ただ、にやっと微笑んだ柚巴のその顔に、何か底知れぬ恐怖を感じ……そして、気づけば、従魔になっていたというだけ。
 愛しいとか、忠義心とか、そんなのは皆無だったはずなのに……。
 今は、この小さな体がもどかしい。
 小さな体が、鬼栖の望みをはばむから。
 この少女を抱きしめたいと思う。
 包み込むように。
 もじゃもじゃ球体のその小さな体では、それは叶わぬこと。
 鬼栖が贈ったキスに、柚巴は眉尻を下げ、複雑そうに微笑む。
 その時だった。
 コンコンコンと、この部屋の扉がノックされた。
 柚巴の体はびくんとふるえ、そして鬼栖を抱く腕に、もう少しだけ力がくわわる。
 恐る恐る、声がしぼりだされる。
「……どうぞ?」
 ゆっくりと扉へ視線を送り、柚巴はそう扉の向こうに返事をする。
 すると、数秒の沈黙の後、すうっと扉が開いた。
 その扉から現れたのは、覇夢赦だった。
 相変わらず、どことなく不敵な笑みを浮かべている。


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update:04/11/20