比礼という名の世界
(2)

 柚巴の姿を見つけると同時に、覇夢赦は不敵な笑みからふっと表情を変えた。
 やわらかく見せかけた微笑みを浮かべる。
 しかし、それでも、どうしても嫌なものを感じさせる笑みには変わりない。
 恐らく、他の者が見れば、そうではないのだろうけれど……。
 柚巴には、すりこまれた先入観……思い込みというものがあるので、どんな表情を浮かべられようと、それら全て、よいもののようには感じられない。
「おはようございます。昨夜は、よくお休みになれましたか?」
 すたすたと柚巴のもとまで歩み寄り、そうご機嫌うかがいをしてくる。
 それに、柚巴は思わず、一歩後ずさってしまっていた。
 無意識のうちに、覇夢赦との限界の距離をたもつ。
 それ以上、自分のテリトリーに侵入させないように。
 これが、平静をたもてる、ぎりぎりの距離。
「……この顔を見ても、そう言えます?」
 ぎゅうと鬼栖を抱きしめ、柚巴はぶすっと目をすわらせた顔を覇夢赦に向ける。
 しかし、覇夢赦はそんなことには気もとめず、にっこりと微笑む。
 明らかに、柚巴のご機嫌はよろしくないとわかるにもかかわらず。
 もとより、覇夢赦には、柚巴のご機嫌などどうでもいい。
 ……そう。汚い手を使ってまでも、この世界に連れて来るような男なのだから。
「今日は良いお天気ですし、街をご案内しましょう」
 そして、勝手にそうやって話を進めていく。
 このような自分本位のところは、どこかの誰かさんにも通じるものがあるけれど、この男にされるのは、なんだか腹立たしく感じる。
 相手の意思を無視して話を進めるなど、女性に対して礼に欠ける。
 これが、本当に王ともなる男のすること?
 ……まあ、もともと、いかさま詐欺師であるけれど。
「……これが、良いお天気……ですか? 一体、朝なのか昼なのか、それとも夜なのか判断のつかない、この空で!?」
 すいっと覇夢赦から視線をそらし、多少語気を荒げてそう言い切る。
 本当に、柚巴にしては信じられないほどの、刺々しい言葉。皮肉。
 ここまで敵意をあらわにするなど、信じがたい。
 世凪が柚巴をさらった時だって、王子様のお妃になると告げた時だって、こんなにぎすぎすした敵意を、むきだしになどしていなかったはずである。
 窓の外には、真っ暗な空と、そこにゆらめく数多の松明の灯り。
 たしかに、これでは、天気が良いのか悪いのかわからない。
 時間すらも。
「こちらでは、これを良い天気といいます。それに、あなた方の世界とは違い、こちらでは、常にこの空ですよ」
 覇夢赦もすっと視線を窓の外に移し、そう言い切る。
 瞬間、あからさまに柚巴の顔がゆがむ。
「……信じられない。もう帰りたい……」
 こんな空の下にいると、気分まで滅入ってきてしまう。
 ……いや。もう十分滅入っているのだけれど……。
 どうにも、この空は好きになれない。
 たしかに、この世界は、人間界とは違う。
 ならば、その常識や概念も違って当たり前なのかもしれないけれど……。
 柚巴には、どうにも受け入れがたい現実である。
 こんな空は……嫌い。
 だから、かもしれない。
 思わず、そんな本音がぽろっと出てしまっていた。
 どんなに気丈に振る舞ったって、思うことは変わらない。
 怖いものは怖いし、心細いものは心細い。
 まったく知らない場所に、一人連れてこられることが、こんなに落ち着かないものだなんて……今まで知らなかった。
 それは、今まで一度も経験したことがないから、知らないだけであるけれど。
 いつもまわりには、優しい使い魔たちがいて、あたたかな目で柚巴を見守っていてくれた。
 だけど、ここには、そんな彼らはいない。
 たった一人……一匹の味方は、この黒いもじゃもじゃの鬼栖だけ。
「そうおっしゃらずに、ゆっくりしていらしてください」
 そんな柚巴の内なる恐怖を知ってか知らずか、覇夢赦はあくまでそう言って悠然と振る舞う。
 嫌味なくらい、にっこりと微笑んで。
 この男……一体、何を考えているのだろうか。
 一日ともに過ごしたけれど……やっぱり、どうにもわからない。
 ただ、嫌な予感がする……。
 それだけが、柚巴にはっきりわかること。
「……ゆっくりなんてしていられないのじゃない? この世界、危機に瀕しているのでしょう? なのにどうして、あなたはそう、落ち着き払っているのですか!?」
 くるっと覇夢赦に背を向け、柚巴は半ばはき捨てるように言った。
 それは気になっていたこと。
 昨日、この世界にやってきた時、覇夢赦はたしかにそう言っていた。
 この世界は、危機に瀕していると。
 それなのに、それを告げてから後、覇夢赦な何ら動きを見せない。慌てた様子もない。
 そして、この城の中もまた然り。
 柚巴にまで協力を求めるほど、この世界が危ないなど、どうしても思えない。
 だから、覇夢赦の言っていることは、いまいち信用できない。
 いかさまをした男なだけあり、言っていることは、胡散臭くて仕方がない。
「これは、生まれつきです。そう見えていたのなら、申し訳ありません」
 ふっと表情を曇らせ、覇夢赦は柚巴にそう謝罪を入れる。
 たしかに、そう言われればそうかもしれないけれど……。
 だからって、その言葉を簡単に受け入れるほど、柚巴も素直ではない。
 そこまで、危機感がないわけでもない。
「……もう、いいです……」
 もうこれ以上の会話は無駄だと思ったのか、柚巴はそこで会話を終了させる。
 そんな柚巴を見て、覇夢赦は薄く笑っていた。
 その笑顔の下に隠されたものは……一体、何だろうか?
 柚巴には、まだわからない。
 覇夢赦に背を向ける柚巴に、鬼栖がこっそりと耳打ちする。
 くいっと、柚巴の首に手をからませて。
「柚巴……。こいつ変だ。どこかおかしい」
 鬼栖の言葉を聞き、柚巴の顔が、きっと強張った。
 そして、柚巴もまた、鬼栖の毛むくじゃらの体に顔をうずめ、そっとささやく。
「……わかっているわ。鬼栖ちゃんも気をつけていてね」
 柚巴の何かが、警鐘を鳴らしている。


 その後、覇夢赦の提案を半ば強引に受け入れさせられ、柚巴は街へと連れ出されることになった。
 もちろん、貴賓を徒歩などとそんな無粋なもので連れ出せるわけもなく、この世界にやってきた時にものっていた、あの空を駆る真っ黒い馬車で。
 上質のその革張りの座席は、乗っていて不快感はないけれど……。
 心を占め続ける不安が、どうにも気分を滅入らせる。
 空も、相変わらず、暗い。
 月一つ、星一つないその空は、まるで地底にいるように思わせる。
 それにもかかわらず、重い黒い雲がどんよりと浮いているから……。
 ここが地底でないことをつきつける。
「……本当……真っ暗……」
 馬車に乗り込もうと、扉に手をかけた時だった。
 おもむろに空を見上げ、柚巴はそうつぶやいていた。
 そして、ぶるっと身震いをする。
 ……今朝は、少し肌寒い。
「大丈夫か? 柚巴。寒いのか?」
 そんな柚巴に抱かれている鬼栖は、心配そうにそうやって柚巴の顔を見上げる。
 直接柚巴に触れているのだから、否が応でも小さな動きにすら敏感に反応してしまう。
 すりっと、柚巴の腕に自分の体をすりつける。
 そうすれば、少しはあたたかくなるとでも思ったのだろう。
 鬼栖の体は、ふわふわの毛で覆われているから。
「え? ううん。大丈夫」
 鬼栖の問いかけに、柚巴はそうやって笑ってみせる。
 しかし、その顔には、明らかに無理をしている様子がうかがえる。
 そんな柚巴を見て、鬼栖の胸がちくんと痛んだ。
 明らかに、柚巴はもう限界まできている。
 いくら馬鹿で鈍い鬼栖にだって、それくらいはわかる。
 きっと、寒いのは……その肌に感じるものではなくて……心が。
 今朝、思わずもらしてしまっていたように、柚巴は心細くて仕方がないのだろう。
 少しでも、そんな柚巴の力になれればと思うけれど……きっと、鬼栖の存在では、柚巴の不安をぬぐうことなんてできない。
 ……いや。鬼栖でなくたって、それが、幼い頃より信頼を寄せている、由岐耶たち使い魔だって……果たして、柚巴の不安をぬぐうことができるかどうかはわからない。
 きっと、柚巴の不安をぬぐうことができるのは……どの世界を探したって、たった一人。あの男しかいない。
 柚巴が、誰よりも愛しいと思っている、あの憎い男。世凪。
 どうして柚巴は、そんなにも世凪に絶対的な安心を抱いているのだろう。
 どうしても、腑に落ちない。
 鬼栖は、胸におもしろくない感情を抱く。


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update:04/11/24