比礼という名の世界
(4)

 目的地についたらしく、馬車はしばらく走った後、ガタンと音を鳴らしとまった。
「つきましたよ」
 そして、覇夢赦のその言葉が、それを決定づける。
 目的地についたらしいではなく、ついたのだと。
 しかし、覇夢赦のその言葉に答える柚巴の言葉はない。
 相変わらず、逃げ出さないようにと、覇夢赦の胸の中に、柚巴はすっぽりとおさめられている。
 その中で、うつむき、ずっと押し黙っている。
 ここに来るまでの間も、ずっと。
 何の反応も示さない自分の腕の中の柚巴を、何かを考えるように、覇夢赦はじっと見つめる。
 そして、次の瞬間には、
「柚巴殿……?」
そう言いながら、柚巴の顔をむりやり上げさせようと、あごに手をかけようとのばしてきた。
 もちろん、柚巴はそれをすかさず払いのける。
「……嫌!!」
 ぱちんと、乾いた音が、馬車の中に小さく響く。
 その音に、一瞬、柚巴はびくっと体を震わせる。
 思わず……だったとはいえ、まさかそんなに激しくぶつつもりはなかったらしい。
 そう。振り払う程度。
 だけど、実際は、その手をぶつことになってしまっていた。
 思いがけずふるってしまった自らの暴力に、柚巴は震えてしまった。
 そんな柚巴を、覇夢赦は愉快そうに目を細め見つめる。
 そして、次の瞬間には、くすりと口の端をあげていた。
 同時に、ぐいっと柚巴の体が持ち上げられる。
 この馬車の中に放り込まれた時と同じように。
 そして、そのまま馬車の扉が開かれる。
「何するのよ! 放して。下ろしてよ!!」
 ここに来るまでの間は、おとなしくしていた。
 だけど、どことも知れないところへつれて来られ、その車外に連れ出されるとあっては、さすがに恐ろしくもなってしまう。
 半分泣きかけの声で、そう抵抗する。
 しかし、柚巴は抵抗むなしく、あっさりと馬車の外に連れ出されてしまった。
 最後の抵抗も、結局は無駄に終わってしまった。
 悔しそうに、ぎゅっと唇をかみ、またうつむく。
「いいから、目を開けてみてみなさい」
 そのような柚巴の顔に手をかけ、覇夢赦は強引に顔を上げさせる。
「いたっ……」
 そのつぶやきとともに、柚巴の顔は上げられていた。
 そして、同時に、柚巴の目に、とんでもない光景が飛び込んできた。
 ぐっと……息をのむ。
 声にならない悲鳴を上げ、柚巴は首をまわし、あろうことか、覇夢赦の胸へとおしつける。
 そんなことをしてしまえるくらい、今、柚巴の目に飛び込んできたその光景は、目を覆いたくなるようなものだった。
 おぞましい光景だった。
 しかし、覇夢赦は、それでも嫌がる柚巴の顔を強引に自分の胸からひきはなし、その眼前の景色を見せようとする。
「どうです? 美しいでしょう?」
 うっとりと、そう声をもらす。
 柚巴の目は、ぎゅっとかたく閉じられている。
 その体も、がくがくと震えている。
「や、やだ……」
 そんな柚巴の様子に、覇夢赦は気をよくしたように、にやりと不気味に微笑む。
「……何故です?」
 そんな言葉とともに。
 柚巴はまた、ぐっと息をのんだ。
 体全部で、今すぐこの場から去りたいと訴えている。
 しかし、訴えれば訴えるほど、覇夢赦は意地悪い笑みを浮かべる。
 自分の腕の中で、がくがくと震える柚巴を見つめ、くすりと笑う。
 そして、かすかにゆれるそのやわらかな髪を、さらりとすく。
 瞬間、あまい花の香りが、鼻をくすぐった。
 その香りは、間違いなく、柚巴の香り。
 世凪が大好きで大好きで仕方ない、ずっと感じていたいと願うその香り。
 しかし、覇夢赦は、その香りに、一瞬、顔をゆがめていた。
 もちろん、いまもってぎゅっと目をつむったままの柚巴は、その一瞬の表情の変化には気づいていない。
 もしかすると、髪をすかれてしまったことにすら、気づいていないかもしれない。
 今の柚巴は、そんな余裕はないから。
 強引に馬車からおろされた柚巴が見たその光景は、普通の人間には耐え難いものだったから。
 柚巴を抱えた覇夢赦の足元には、垂直に切りたった崖。断崖絶壁。
 その下には、一面、どろどろとした、黒くかたまりかけた血のようなものが、ぶくぶくと泡をたてうごめいている。
 そして、そのどろどろの液体の中では、人間……とは限らないが、いろいろな形をした生き物たちが、苦しそうに叫んでいる……ように見える。
 恐らくそれは、ぶくぶくとわく泡が、そのようなかたちを作っているのだろう。
 そこから聞こえてくる、耳鳴りのような奇妙な音。
 耳をふさがずにはいられない、この世のものとは思えぬ悶絶。
 それは、断末魔に近い音かもしれない。
 鼻をつくような腐敗臭も漂っている。
 鼻がもげるかと思うほどの、臭い。
 吐き気がする。
 それは、まさしく地獄絵図。
 小さい頃、絵本でみたような、そんな生やさしいものではない。
 もっと残酷で、もっと悲惨で、もっと不気味な……。
 今すぐにでも、この場から逃げ出したい。
 どんなに探しても、求めても、決してくもの糸一本ですらおりてはこないだろう。
 そんな望みなき光景。
 ここが、地獄といわれる所以がわかったような気がする。
「うっ……」
 当然ではあるけれど、柚巴は瞬時に気分が悪くなってしまった。
 胃がむかむかして、苦いものがこみ上げてくる。
 頭もがんがんと痛く、めまいまでしてくる。
 どこかぐったりと、覇夢赦の胸へともたれかかってきた。
 もう、一人では立っていられないのかもしれない。
 そのような柚巴に、覇夢赦は冷たい視線を注ぐ。
 凍てついた大地のような、その視線。
「やはり、あなたも、そのような反応をするのですね。異世界の者は、皆そうです」
 嘲笑うような、蔑んだような、そんな冷たい声が柚巴の耳に届く。
 そして、その瞬間、覇夢赦は柚巴を解放していた。
 柚巴を抱いていた腕を、ぱっと放す。
 あれほど執拗に柚巴を抱いていたのに、そのあっさりした態度に、柚巴は一瞬、違和感を覚えた。
 しかし、その違和感を覚えた時には、もうすべてが遅かったかもしれない。
「……!?」
 何しろ、覇夢赦から解放されたその途端、柚巴の体は、ふわりと宙を浮いていたから。
 覇夢赦の足元に広がっていた、あの断崖絶壁の中へと吸い込まれていく。
 下に広がるのは、鼻がもげそうなほどの腐敗臭を放ち、かたまりかけた血のようなどろどろの池。
 ……見た目は、噴き出してきたばかりのマグマにも見える。
 ぶくぶくどろどろと、表面で気泡が破裂している。
 柚巴は、突然のことに、声を出す余裕すらなかった。
 声を出す暇なく、不気味なその中へと落ちていく。
 これが、地獄に堕ちる……ということなのだろうか。
 妙に、それを実感しているように思えてならない。
 今、柚巴が吸い込まれていくそこは、さしずめ、血の池地獄といったところだろうか。
 声すら出すことができないほど、柚巴は恐怖を感じていた。混乱していた。
 妙にゆったりと、時間が流れていく。

 何故、覇夢赦は、いきなりこんなことをしたのか。
 それだけが、柚巴にはわからない。
 絶対絶命。


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update:04/12/04