試された少女
(1)

 比礼界。
 地中深く。
 怪しくうごめく何かがある。
 それは、まだ形をなしていない。
 どのようなものかはわからないが、どうやらよくないものである、ということだけは確か。
 次第に形作られているその物体を見れば。
 物体のまわりには、重苦しい陰気な空気が漂っている。
 漆黒の闇。希望のない世界。
 そんな負のものばかりがどこからともなく感じられる、それ。
 そのものの名は、たしか……。
 絶望。
 そう誰かが言っていたような気がする。
 望みなき世界。全ての希望に見放された世界。
 まだ、誰にも確かなことはわからないが、比礼界の地中深くで、それがうごめきはじめたことだけは、否定できない事実。
 その正体は、まだわからない。
 そして、このことに、この世界の者、誰一人として気づいていない。
 目先のことばかりに、まどわされて。
 本質を、見逃している。見失っている。


「おかしいですね……?」
 絶対絶命。
 そう思った瞬間、柚巴の耳元で、そんなささやきが聞こえた。
 低く、訝しさを隠すことなくあらわにしたその声音。
 一瞬、自分の耳を疑ってしまった。
「え……?」
 恐怖のあまり思わずつむっていた目を、ゆっくりと開けていく。
 すると目の前には、またあの顔があった。
 まさに今、柚巴を、地獄の底に突き落とした、その男、覇夢赦。
 ぎゅっと柚巴の腰を抱き、ふわりと宙に浮いている。
 柚巴のすぐ足元では、ぶくぶくと赤黒い液体が、柚巴をひきずりこもうと手をのばしてくる。
 とっぷんとはじけた赤黒い液体のしずくが、まとわりついてくる。
 接触するかしないかのその位置に、力なくたらされた柚巴の足がある。
「……!?」
 その事実に気づき、柚巴は再び体を恐怖で強張らせていく。
「驚きましたか? 冗談ですよ」
 そんな柚巴に、覇夢赦は、くすりと嫌味な笑みを落とす。
 その笑みと言葉に、それまでの恐怖も手助けしてか、ぷつっと柚巴の中の何かが音を立てて切れる。
「なっ……!!」
 腰を抱き、ふわりと浮く覇夢赦の胸倉を、思わずつかんでいた。
 もちろん、普段の柚巴からは、こんな行動は想像すらできない。
 びくびくとおびえる小動物のように、守られることを待っているだけ。
 柚巴の怒りは、それほどまでに大きく、ぎりぎりのところに達しているらしい。
 最初から、この覇夢赦という男は、虫が好かない。
 そう。限夢宮にやってきた、その時から。
 ぶるぶると怒りで震え、覇夢赦の胸倉をつかむ柚巴の手に、すっと覇夢赦の手が重ねられる。
「仕方がありません。今日のところは、これくらいでいいでしょう」
 そして、ふうとあてつけがましく、呆れたようなため息を一つもらし、覇夢赦はそのまま口を閉ざす。
 そして、ぶわっと風を起こし、そのまま一気に、今落ちてきた崖の上へと舞い上がる。
 柚巴は、そんな覇夢赦を悔しそうににらみつけていた。
 覇夢赦というこの男は、一体、何を企んでいるのだろうか?
 協力を求めたかと思えば、この仕打ち。
 からかわれているとしか思えない。
 柚巴は泣き出したくなってしまいそうなのを必死でこらえ、この腹立たしい男の胸の中で、きゅっと唇をかたく結ぶ。


 あの後すぐ、馬車に押し込められ、王城へと帰ってきた。
 帰りの馬車の中は、もちろん、重苦しい空気に支配されていた。
 警戒心をあらわにする柚巴と、今にも舌打ちが聞こえてきそうなほど不機嫌な覇夢赦。
 二人の間の溝は、ともに時間を過ごせば過ごすほど、深まる一方のように思える。
 この男が考えていることが、ますますわからなくなる。
 どうして、柚巴のような何の力もない普通の少女が、こんなところにつれられてきたのか……。
 そこが、いちばんわからないところ。
 たしかに、協力を求められはしたけれど、具体的には聞いていない。
 まあ、それは、柚巴が耳を傾けようとしなかったことも、一因かもしれないが……。
 それにしたって、今回のこれは、謎だらけ。

 王城に着き、覇夢赦に続き馬車から降りると、待っていたかのように、鬼栖が柚巴に飛びついてきた。
 ぎゅむうとその胸に、体全部をおしつけて。
 感じる鬼栖のぬくもりが、何故だかほっと安心させてくれる。
 やっぱり、こんな役にもたたないまるいだけのマスコットでも、与えてくれるそのぬくもりは、今はとても心強い。
 一人じゃない……。
 そう思えるから。
「柚巴〜! すまん、俺様がついていながら……!!」
 そう叫び、ぐりぐりと柚巴の胸にさらに体をおしつけてくる。
 あまりの勢いに、柚巴は、思わず、気おされてしまいそうになる。
 ふてぶてしい態度しかとらない、態度の悪いあの小悪魔が、こんなにも柚巴の身を案じてくれていたなんて……。
 限夢界の王宮で、従魔の契約を結んでから、そう時は過ごしていないけれど……それでも、そんなのは、もうずっと前からわかっていたような気はする。
 鬼栖は、柚巴の従魔になってから、誰が見てもそれとわかるほどに、いたずらをしなくなった。
 むしろ、呪術部屋のペットに成り下がるほど、その振る舞いは一変していた。
 心臓を一つ差し出すだけで、こうも変わる従魔は、そうそう見ない。
 しかも鬼栖は、小悪魔の中でも、位高い部類に入る。
 そんな自尊心のかたまりのような小悪魔を、そこまで従えることができるなんて……。
 鬼栖は、一体、柚巴のどこに、そんなに惹かれてしまっているのだろうか。
「鬼……栖ちゃん……」
 胸に抱きつく鬼栖をそっと抱きしめ返し、そのふわふわの体に顔をうずめ、柚巴はぽつりと鬼栖の名をつぶやく。
 顔色がひどく悪いようにも感じる。
 その綺麗な目がうるみ、涙があふれてきそうで……。
 柚巴を見つめる鬼栖は、きゅっと胸をわしづかみされたように感じた。
 自分がついていながら、こんなにも柚巴に不安な思いをさせているのかと思うと……自分自身が腹立たしく思う。
 自分がついていながら、柚巴を一人、こんな禍々しい気をまとう男と二人きりにさせてしまったなんて……自分に憤りを感じて仕方がない。
 今にも泣き出しそうな柚巴の頬にそっと触れ、鬼栖はすりっと体をすり寄せる。
 そして、ぱらりとたれる柚巴の髪を、そうっとなでる。
 ふわふわで、絹糸のような柚巴の髪が、鬼栖の細く小さな手にからまる。
 きゅんと、胸が悲鳴を上げる。
 もっと大きな体があれば、せめて柚巴くらいの大きさならば、その胸に柚巴を抱きしめて、その不安をぬぐってあげられるのに。
 小さな自分の体が、とてももどかしい。
 感じる柚巴は、とても優しくて、あたたかい。
 いい香りがする。
 気持ちがいい。
 一瞬、頭がぼうっとなった。


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update:04/12/18