狂気の序幕
(1)

 冷たい。
 冷たい。苦しい。
 息ができない。
 まるで、酸欠の魚のよう。
 冷たい水の中、酸素をもとめ、水面へと上る。
 だけどそれでも、肺いっぱいの酸素を送り込むことができなくて……。
 そのまま、息絶える。
 きっと、地下深く、水を流し込まれたその牢で、柚巴はそんな魚になってしまうのだろう。
 ここには、加護をくれる智神・タキーシャもいない。
 天空楼の時のように、もう助けてはくれないのだろうか。
 危険が迫る時、助けてくれる存在。
 心のどこかでは、そう信じているのに。
 しかし、皮肉にも、ここは限夢界ではない。
 限夢界ならば、それも可能かもしれないけれど。
 彼は、限夢界の神だから。
 そして、あの人も、ここにはいない。
 智神・タキーシャよりも、あの人を無条件に信じている。
 あの人なら、不可能なことでも可能にしてしまいそうだから。
 だけど、やっぱり、あの人も来てくれる気配はない。
 ここには、柚巴を助けてくれる人は、一人もいない。
 場所≠ェ違うというだけで、他は何も変わらないのに、こんなにも違ってくるなんて。
 絶望を隣に感じる。
 もう、ほとんど働かなくなった頭で、冷たい水の中、ぼんやりとそう思った。
 ふわふわと体が妙に軽い。
 もう……これで終わりなのだろうか。
 ほら。あそこに、光の出口が見えるから。
 きっとそこへ行けば、この苦しみから解放されるだろう。
 それと同時に、その刻む鼓動もとまるだろうけれど。
 でも、体が勝手に、吸い寄せられる。
 その光の中へと。
 もう、抗う気力さえ残っていない。
 まぶしくて、目がくらみそう。


 光の中に吸い込まれる瞬間、そのあまりものまぶしさのために目をつむっていた。
 そして、ゆっくりとそのつむった目を開いていく。
 うっすらと、光が差し込んでくる。
 淡い、橙色の光。
 想像するに、死後の世界は、きっと絵にも描けないような不思議な色を放つ世界だと思っていた。
 なのに、実際は……淡い橙色?
 うっすらと開いたその目に、橙色の光とともに、白い天幕が見える。
 金の天蓋から垂れる、その真っ白い天幕。
 そして、体にすいつくように、包む真っ白いシーツ。

 ……え?
 その現実にはっと気づき、柚巴はがばっと起き上がる。
 同時に、かけられていたのか、さらさらのシーツが、小さな衣擦れの音をさせ、さらりと柚巴の体の上からずり落ちる。
 そのシーツにつられるように、視線を横にずらしていく。
 するとそこには、冷たくて暗い水の中、もう目にすることはないと思っていたその男の姿があった。
 ぎしっとベッドと鳴らし、そこに腰かける覇夢赦の姿。
 とても不機嫌なオーラを放っている。
 その顔もまた、不機嫌そのもの。
「……!?」
 その姿を目にとらえ、柚巴の意識は、ようやく現実に引き戻される。
 ここは、この世界にやってきた時に与えられた、貴賓室。
 そして、今、柚巴が座るそこは、貴賓室のベッドの上。
 一日中暗い部屋にともされた、淡い燭台の灯り。
「ようやく目を覚ましたか。まったく、人間はこれだからやっかいだな。ほんの少し、水につかっていただけで……」
 ふうとため息をもらしながら、覇夢赦の手が柚巴へとのびてくる。
 当然のことながら、柚巴の体はびくんと震え、同時に、ずり落ちたシーツをつかみ上げていた。
 ばさりと、白いシーツが、一瞬、覇夢赦の視界を奪う。
「あなた、わたしを殺す気だったでしょう!」
 そして、のびてきた覇夢赦の手を、容赦なくうちつける。
 ばちんと、小気味よい音が響く。
「……いや。殺す気はなかった……つもりだが?」
 打たれたその手をじっと見つめ、覇夢赦は静かにそう答える。
 そして、ちらりと柚巴に視線を送る。
 また、ぎし……と、ベッドのきしむ音がした。
 それと同時に、覇夢赦の体が、少しだけ柚巴へと近づいてくる。
 ぎしぎし……と、嫌な音がまた鳴る。
 近寄る覇夢赦から、少しでも遠ざかろうと、柚巴の体が、ベッドの上でずり動いている。
 そのような柚巴に、覇夢赦も気づいているが、素知らぬふりをして、もう少し近寄ってくる。
 柚巴はベッドの上から逃れようと、体を持ち上げる。
 瞬間、ぐらりと視界がゆれ、体もゆれていた。
 目が……まわる。
 そのまま、再びベッドになだれ込む。
「……!?」
 ……かと思ったが、いっこうに、ベッドの感触が伝わってこない。
 それどころか、妙にがっしりとした何かが、頬に触れている。
「おとなしくしていろ。ものすごく体温が上がっている」
 頬に触れるそれが、その言葉に合わせ、静かに上下した。
 そうかと思うと、今度は頬を何か大きなものが覆い、ぐいっと顔をあげられていた。
 そこで、柚巴はようやく気づくことになる。
 先ほど、倒れかけた瞬間、どうやら、覇夢赦に助けられてしまっていたよう。
 そして、今まで、柚巴の頬に触れていたそれは……覇夢赦の厚い胸。
 一気に、血の気がひいていく。
 顔を上げられたそこには、どこか不気味に微笑む赦夢赦の顔があった。
 その顔に、柚巴の瞳の奥が、恐怖にゆらめく。
 しかし、それはすぐに消え、悔しそうにばっと顔をそむけた。
 同時に、覇夢赦の柚巴の頬を包む手も、振り払われる。
「まあ、いい。とにかく今は休んでいろ」
 そう言うと、覇夢赦は再び柚巴の頬にふれ、ぐいっと顔を自分へと向かせる。
 そして、もの言いたげに、じっと柚巴を見つめる。
 また、柚巴の瞳が、不安にゆらぐ。
 頬に触れた手が少しずれ、今度は柚巴のやわらかい髪に触れた。
 さらりと、手から髪が落ちていく。
 覇夢赦は、その様子を、じっと見ていた。
 柚巴は、覇夢赦のこの行動がわからず、ただただ不安でいっぱいだった。
 そうやって、柚巴の体は覇夢赦の腕に抱かれ、再びベッドへとしずめられていく。
「あなた、何を考えているの? まったくわからないわ。いい加減、答えなさい」
 力なくベッドに横たわりながらも、その目だけはきっと覇夢赦をにらみつける。
 そして、その口から出る言葉も、変わらず、そんな強気なもの。
 そのような柚巴を、覇夢赦はまた、じっと見つめる。
「さて、どうしたものか……?」
 ふっと口の端を上げ、陰湿に微笑む。
 ぞくりと、冷たいものが、柚巴の体中を駆け抜ける。
 その時だった。
 柚巴に影をかける覇夢赦のその背後が、カっと光った。
 それと同時に、そこがぐにゃりとゆがむ。
 それに、柚巴は目を見張る。
 覇夢赦は、今後ろで起きているその異常現状に気づいているようだが、それでも表情一つ変えることなく、柚巴を見つめている。
 さらに、空間がぐにゃりぐにゃりとゆがむ。
 光が、さらに大きくなる。
 そして再び、カっと大きな光を放った。
 それと同時に、その光の中から、何か黒く丸いものが飛び出してきた。
 そして、それは、ごろんと床に転げ落ちる。
 ちっという舌打ちをする音が、柚巴の耳にとどいた。
 それに続き、柚巴にかかっていた影も、ゆっくりとなくなっていく。
 柚巴は、いきなりのその異常事態に、重い体を起こし、今、黒いものが転がったそこへ視線を落とした。
「き、鬼栖ちゃん……!?」
 その物体が何であるかを確認すると同時に、そう叫ぶ。
 すると、床に転がる黒い物体は、むくりと起き上がり、力なく柚巴を見つめる。
 それを見て、柚巴は苦痛に顔をゆがめながらベッドを抜け出し、その物体へと駆け寄った。
 無残にはらいのけられた白いシーツが、ベッドの下に広がっている。
 そのシーツにしわをつけ、その上に柚巴がしゃがみこんでいる。
 胸に、先ほどの黒いものを抱きしめて。
「ゆ、柚巴か……。すまん……。俺様は……俺様は……」
 柚巴の胸に抱かれたそれは、そうかすれる声でつぶやき、かくんと気を失ってしまった。
 同時に、柚巴の腕に、もう少し重みが加わる。
「鬼栖ちゃん!!」
 悲痛な柚巴の叫びが、貴賓室に響く。
 胸に抱く鬼栖をぎゅうと抱きしめ、ぼろぼろとその目から涙を流し。
 今、柚巴の腕の中で気を失った鬼栖を、力いっぱい抱きしめる。
 一体、何が起こったのか……やはり柚巴にはわからない。
 覇夢赦によって消された鬼栖が現れたかと思えば、この状態。
 瀕死の状態。
 柚巴の心に、絶望感が広がっていく。


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update:05/01/06