狂気の序幕
(2)

「……まったく。とんでもない小悪魔だな。わたしの空間のひずみから逃げ出してくるとは。無茶をしなければ、傷つかずにすんだものを」
 柚巴の胸の中で、ぴくりとも動かない鬼栖を蔑むように見下ろし、覇夢赦は平然とそうはき捨てる。
 そして、一歩、柚巴に歩み寄る。
 その手が、ずいっと柚巴へとのびてくる。
 胸の中から、鬼栖を奪い取ろうと。
 汚れた小悪魔など、柚巴にはふさわしくないとその目が語っている。
 いや。ただ、邪魔なだけだろうか。
 もともと、柚巴だけをこの比礼界へつれてくるつもりだった。
 しかし、この小悪魔は、調子にのり、ついてきた。
 まったく、余計なものが一緒にきたものだ、そう思っていた。
 覇夢赦のその冷たい言葉を聞き、柚巴はうつむいた。
 そしてそこで、ぎゅっと唇をかみしめ、何かを必死にたえるようにふるふると震える。
 次の瞬間、がばっと顔が上げられ、覇夢赦をにらみつけていた。
「あなた、何様のつもりよ! どうしてこんなひどいことができるの!? 一体、鬼栖ちゃんが何をしたというのよ! もういい加減にして!!」
 涙の粒を飛び散らせ、柚巴は噛みつかんばかりの勢いで覇夢赦をにらみつける。
 どうして、何故、こんなことになったのだろう。
 一体、どこから狂ってしまっていたのだろう。
 この比礼界へ来た時から?
 それとも、覇夢赦が限夢界にやってきた時から?
 もう、わからない。
 どうして、こんなことができるのか……。
 柚巴は、誰かが傷つくのが、いなくなるのが、こんなにも怖いのに。
 大好きだった大切な友だちを失ってから、身近な誰かを失うことが、とても怖い。
 もう、自分のまわりから、誰一人として、いなくなって欲しくない。
 それが、自分よりも長い長い、はるかに長い寿命の者ならば、なおのこと。
 自分よりはやくいなくなることは……許さない。
「……うるさい小娘だな。たかだか小悪魔の一匹や二匹、死んだところでたいしたことはあるまい」
 はんと鼻で笑い、覇夢赦はのばす腕をさらに近づけてくる。
 そして、柚巴の胸の中にいるふわふわの黒い毛に触れようとする。
 その時だった。
 ばちんと、のばされた覇夢赦の腕に、電気が流れたような衝撃があった。
「……最低……」
 それを怪訝に思い、柚巴を見てみると……ぼろぼろと涙をこぼすその瞳が、憎しみをたたえ覇夢赦をにらみつけていた。
 ぞくりと……身の毛がよだつ。
 それは、決して恐怖とかいったそのようなものからではない。
 どこからか湧き出てくる、恍惚とした悦びから。
 ようやく、見つけた。
 ふっと、頭の隅で、そう思う。
 覇夢赦をにらみつける柚巴のその体から、青白い光のようなものが次から次へとにじみだしてきているから。
 それは、外からまとわりついているのではなく、柚巴の体の中から泉のように湧き出てくる。
 そして、その淡い青白い光は、微動だにしない鬼栖へと注がれていく。
 神秘的な光景だった。
 全ての優しい光が、柚巴の思いそのものの光が、傷ついた鬼栖を優しく包んでいく。
 覇夢赦は目を見開き、それを一つも逃さず見つめている。
 次第に浮かべる表情が、嬉々としたものへと変わっていく。
 そして、にやりと微笑み、その腕を勢いよく柚巴の胸めがけてのばしてきた。
 胸に抱く、鬼栖を奪い取ろうと。
 瞬間、先ほどよりも強い衝撃を、覇夢赦は受けた。
 はずみで弾き飛ばされ、凄まじい音を立てて、床へ叩きつけられる。
 それでもなお、覇夢赦は嬉々とした笑みを浮かべ続けたまま。
 それが、例えようのない不気味さを柚巴に運んでくる。
 柚巴は、そのすきをつき、がばっと立ち上がる。
 そして、そのままこの場から逃げ去ろうと、扉の方へと踵を返す。
 そう。このチャンスを逃してはいけない。
 覇夢赦が倒れているすきに、できるだけこの男から遠ざからなければ……きっと、もっと恐ろしいことになる。
 柚巴は、本能でそう判断していた。
 このままここにいては、必ず鬼栖は殺されてしまう。
 そして、柚巴も、きっと、ただではすまない。
 とりとめなくだけれど……そう思う。
 いや、確信できる。
 一歩、足を踏み出した時だった。
 胸の中で、何かがもぞっと動いたような気がした。
 それと同時に、か細い声が聞こえてくる。
「……ん? 柚巴……?」
 そう、柚巴の名を呼ぶ声が。
 柚巴は踏み出した足をぴたっととめ、自分の胸へと視線を落とす。
 するとそこでは、まるで眠い目をこするかのように目をこする鬼栖の姿があった。
 ぼんやりと、その視界はまだおぼろげで、ぼやけているように。
「き、鬼栖ちゃん? 大丈夫?」
 はらはらと涙をこぼし、柚巴はぎゅうと鬼栖を抱きしめる。
 すると鬼栖は、柚巴の胸の中で、くすぐったそうに目を細める。
 そして、柚巴にすりっと体をすりつける。
「あ、ああ。おかげで……」
 そして、自分を抱く柚巴の手の甲に、そっと口づけを落とす。
 そこに、柚巴の目からこぼれおちたしずくが一つ、落ちていたから。
 それをすくいとるように、ぺろりとなめる。
 なめたそれは、キスしたそれは、しょっぱい味がした。
 だけど、それと同時に、胸いっぱいが、妙にあたたかくなる。
 このぬくもりは、とても気持ちがいい。
「柚巴が、俺様の傷を治してくれたのか?」
 きょとんと首をかしげ、鬼栖は柚巴を見つめる。
 たしかに、鬼栖のその言葉通り、あれだけ負っていた傷が、いつの間にか、鬼栖の体から消えていた。
 どこにも、怪我の痕など残っていない。
 いや、それ以前に、確かに瀕死の状態にあったはずなのに……。
 今の鬼栖には、その片鱗すらうかがうことができない。
「え……?」
 柚巴の目が、複雑にゆれ動く。
 どうやら、今、鬼栖に告げられたそれに、動揺しているよう。
 だって、柚巴には、鬼栖のその言葉の意味がわからないから。
 一体、誰が、誰の傷を治したと……?
 複雑な表情を浮かべる柚巴に、鬼栖はくすっと困ったように笑う。
 どうやら、柚巴は、そのことに気づいていないらしい。
 いかにも柚巴らしくて、おかしくなる。
 今、柚巴の体の中に戻っていくその優しい淡い光が、それが真実であると告げている。
 きっと、その優しい光で、鬼栖の傷を癒してくれたのだろう。
 鬼栖は、そう確信する。
 柚巴の中に戻っていく光は、なんて綺麗なのだろう。
 それはまるで、女神のように。
 語られる、美の女神・ローレライよりももっと美しく、鬼栖の目には映る。
 鬼栖は、そう思ってしまった自分に、思わず苦笑する。
 一体、誰が綺麗だっていうのだろう。
 絶対に、そんなことは思っていないはずなのに……。
 いつの間にか愛しいと感じるようになっていたが……綺麗なんて、そんな人間臭い感想を覚えるなんて。
 ただ、このぬくもりが、いやに心地いいだけ。
 それが、鬼栖が抱く、柚巴への思いの全てのはずなのに。
 優しいぬくもりをくれるこの人間の少女が、ただ大切だというだけ。
 鬼栖は、またすりっと柚巴に体をすりつける。
「すばらしい! やはり、聞いていた通り、すごい力だ!」
 思いに浸る鬼栖の耳に、嫌な叫びが飛び込んできた。
 それは、今、床の上でむくりと起き上がった覇夢赦から飛び出てきた叫び。
 ぎんぎんとその目が輝いている。
 まるで、欲にまみれたように。
 瞬間、鬼栖の中で、警鐘が鳴り響く。
 しかし、その時にはもう遅かった。
 勢いよく起き上がった覇夢赦が、柚巴に飛びかかってきていたから。
 それと同時に、柚巴の体は、だんと床にたたきつけられていた。
 そして、その上に覆いかぶさる、大きくて黒い影。覇夢赦の影。
 柚巴が床に押し倒されると同時に、はずみで、鬼栖は柚巴の腕の中から弾き出されていた。
 ぼんぼんと、床の上を二度ほどはずむ。


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update:05/01/12