狂気の序幕
(3)

「は、放して!!」
 床に押さえ込まれてしまった柚巴が、苦痛に顔をゆがめる。
 そして、どうにかそこから逃れようと、必死で抗っている。
 それでも、おさえつける覇夢赦の腕は、びくともしない。
 覇夢赦につかまれた手首が、ぎりぎりと痛みを訴える。
 鬼栖は、ごろんと転がったその床からすぐさま起き上がり、きいきいわめきながら、柚巴を押さえつける覇夢赦へと飛びかかっていく。
 しかし、案の定、簡単にはねのけられてしまった。
 それでも鬼栖は諦めることなく、また起き上がり、覇夢赦へと飛びかかっていく。
 その姿はまるで、不屈の精神をめらめらともやしているように見える。
「今までのものは、あなたを試させていただいていたのですよ」
 押さえ込む柚巴の顔にすっと顔を寄せ、覇夢赦はささやくようにそう告げる。
 互いの吐息がかかるほどに、その顔は近づけられている。
 柚巴は、それが耐え難く、すいっと顔をそらした。
 しかし、それについて、覇夢赦の顔もやってくる。
「あなたの力は、どうやら、自分のためではなく、他人のためにしか発動されないようですね。……しかし、それでもかまいません。それがわかれば……ね。そして、その力こそが、まさしく、我々が欲しているものです」
 生暖かい吐息が、柚巴のあらわになった首筋にかかる。
 ぞくりと、嫌なものが体の中を駆け抜ける。
 今、押さえつけられてさえいなければ、自由を奪われてさえいなければ、今すぐにでもここから逃げ出しているのに。
 こんなに近くに、世凪以外の男の顔があるなんて、どうにも我慢ができない。
 胃の中から、苦いものがこみ上げてくる。
 気持ち悪い。気分が悪い。
 吐き気がする。
 ここにあって欲しい顔は、こんな男の顔なんかじゃない。
 俺様だけれど、柚巴には優しい、その王子様の顔だけ。
 世凪じゃない男に近寄られることが、こんなに気持ちの悪いものだったなんて……。
 今まで、知らなかった。
 由岐耶や竜桐、そして莱牙といった使い魔たちに抱きしめられたって、きっと柚巴は嫌な気分にはならないはず。
 なのに、この男だけは……どうにも我慢ならない。
 今すぐこの場に飛んできて、この男をはらいのけ、ぎゅっとその胸に抱きしめて欲しい。
 そんなかなわぬ願いを抱く。
 世凪は、ここにはいない。
 ぎゅっと目をつむり、必死で気分が悪いのをこらえる柚巴の耳に、気持ちの悪い生暖かい吐息がかけられる。
「我々は、攻撃力には優れていますが、あなたが今見せたような力は皆無に等しい。ですから、我々にも、あなたのような力を備えるために、あなたの力を研究させていただきたい。……つまりは、それが危機です。どんなに攻撃力に優れているとしても、防御なしに直接攻撃をくらってしまっては、もともこもないですからね。……あなたのその力、是非、我々にください」
 覇夢赦はどこか不気味にそう言うと、床におさえつける柚巴をすっと抱き起こす。
 そして、その胸の中に、ぎゅっと抱く。
 片方の腕は、柚巴の腰にぎっちりとからまり、もう片方は、もてあそぶように柚巴の柔らかな髪に触れている。
 やはり、胃の中のものがこみ上げてくる。
「くだ……さい?」
 今にももどしそうなのを必死でこらえ、ふとひっかかったその言葉を鸚鵡返し(おうむがえし)につぶやく。
 すると、覇夢赦の顔が、にやりとゆがむ。
「ええ。あなたを、もう限夢界へは……人間界へは帰さない、ということです」
 そのいびつにゆがむ口が、そうきっぱりと告げる。
 そして、柚巴の髪にふれるその手を少しずらし、すっと柚巴の唇をなでていく。
 気持ち悪さで青白くなった、その唇を。
 もう、我慢できない。
 今にも、胃の中のもの全てが、こみ上げてきそう。
 ぐっ……と、苦しげな声が、柚巴の口からもれる。
 しかし、覇夢赦はそんな柚巴にはかまわず、柚巴を抱く腕に力をこめていく。
 決して、柚巴が、その腕の中から逃れられないように。
 足元では、何やら雑魚(ざこ)が……小悪魔が一匹、ぎゃあぎゃあとうなっている。
 それこそ、どうでもいいこと。かまう必要のないこと。
「あなたには、わたしのものになっていただきます。……いえ。別に、どうこうしようというのではありませんよ。あなたが死ぬまで、わたしのもとで生きてもらうというだけです」
 覇夢赦はそう言うと、くすくすと不気味に笑い出した。
 それと同時に、がぶりと、鬼栖が覇夢赦の足にかみついていた。
 それに一瞬、顔をゆがめる。
 さすがに、多少の痛みは感じるらしい。
 ……いや。それとも、ただ不愉快なだけ?
 そのすきに、柚巴は覇夢赦の拘束から逃れる。 
 あまりにも簡単に覇夢赦を振りほどくことができたので、柚巴も覇夢赦も、動揺し、ひるむ。
 柚巴は、こんなに簡単に振りほどけるなんて思っていなかったし、覇夢赦もこんなに簡単に振りほどかれるなど思っていなかったから。
 しかし、刹那の差で、柚巴が先に我に返り、覇夢赦の足にがじがじとくらいつく鬼栖を抱き上げる。
 そして、だっと駆け出した。
 ずっと先にあるこの部屋の扉へ向かい。
 もう、一秒だって長く、この場にいたくない。
 この覇夢赦のそばになど。
 そして、今覇夢赦の口から告げられたそれが本気だとするならば……なおのこと、柚巴は覇夢赦から逃れなければならない。
 二度と、限夢界に、人間界に帰れないなんてごめんだから。
 死ぬまでなんて……冗談じゃない。
 誰が、そんな都合のいい望みのために、犠牲になってやるものか。
 同じ都合のいい望みでも、世凪の望みとはまた訳が違う。
 世凪の望みは、柚巴の心をあたたかくしてくれる、そんな望みだから。
 同じ都合のいい望みならば、間違いなく、そちらの望みの方がいい。
 足をからめながら、柚巴は懸命に扉へ向かって走る。
 しかし、次の瞬間には、その足元に亀裂が走っていた。
 それは、覇夢赦の仕業である。
 逃げる柚巴に気づき、その足元に、即座に亀裂を走らせていた。
 そして、運悪く、柚巴はその亀裂に足をとられてしまう。
 ずしゃあと、その場に倒れこむ。
 その瞬間、柚巴の腕の中から鬼栖がすり抜けて、柚巴の下敷きになってくれていた。
 だから、それほどの痛みは感じなかったけれど。
 鬼栖はようやく、柚巴の助けになれて、べしゃりとつぶされたその格好で、嬉しそうに微笑んでいる。
 柚巴に、怪我がなくてよかったと、すりっと体をすりつけて。
 しかし、そんな甘い考えに、今は気をとられている場合ではなかったことに、すぐに気づくことになる。
 むくりと起き上がった柚巴のすぐ横に、もうすでに覇夢赦がやって来ていたから。
 そして、柚巴のかわりに、今度は、覇夢赦の足が、だんと鬼栖を踏みつけていた。
「素晴らしい! 素晴らしいですよ、その力! わたしをはねのけたその力! あの世凪の攻撃を防いだというのは、伊達ではなかったのですね。――欲しい! 欲しいです。その力……!!」
 覇夢赦は、ぐりぐりと鬼栖を踏みつけながら、叫び、狂ったように笑いはじめる。
 柚巴は、その狂気じみた笑い声を上げる覇夢赦に、恐ろしく不気味なものを感じ、もう体を動かすことができなかった。
 覇夢赦の足の下から鬼栖を救うこともできない。
 ただ、その場で、自らの体をかき抱き、ぶるぶると震えるだけ。
 それは、気味の悪すぎる光景だった。
 燭台の灯りだけが光をともす、その暗い部屋。
 窓の外では、相変わらず、松明が、いやにゆらゆらとゆれている。


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update:05/01/16