姫君奪還
(1)

 柚巴の足元を、忙しなくぐるぐるまわる、毛むくじゃらの黒い物体がある。
 普通ならば、そんなものが足にまとわりついていては、うっとうしさをあらわにするところだけれど……どうやら、柚巴にいたっては、それは気にもならないことらしい。
「柚巴〜。本当にいいのか? ここでおとなしくしていて……」
 足元の黒い物体が、ぎょろんと大きな目を見開き柚巴を見上げている。
 そのもじゃもじゃの毛が、そわそわとゆれる。
「……うん。下手に動かない方がいいわ……。だって、世凪は助けに来てくれるもの」
「え?」
 ほんの数分ほど前までは、柚巴もたしかに、この閉じ込められた塔から逃げ出すことを、鬼栖と一緒に考えていたはずである。
 しかし、ほんの少しの間に、柚巴の考えは、一八〇度回転してしまっていた。
 そこに、鬼栖はそわそわとした感情を抱き、たまらずそう声をかけていた。
 だが、柚巴から返ってきた言葉はそれ。
 鬼栖は訝しげに柚巴を見つめる。
 そして、ぴょんと柚巴の胸めがけて飛びついた。
「感じない? 鬼栖ちゃん……。この王城のどこかに、世凪の気配を感じるわ」
 飛びついてきた鬼栖を抱えながら、柚巴は無表情にそうつぶやく。
 その言葉に、鬼栖は、柚巴の胸の中、動きをとめてしまった。
 何しろ、鬼栖は、柚巴が言うところの、その世凪の気配≠ニやらを、まったく感じることができないのだから。
 こうやって、全神経をはりめぐらせたって、それはかなわない。
 まずは、この塔にはりめぐらされた結界をこえることからして、かなりの精神力を要するというのに、それなのに柚巴は、やすやすとこの結界をこえ、外の気配を感じているというのだろうか?
 ……いや。そうではなく、これはもしかして――
「……柚巴……。お前……」
 考えたくないことを考えてしまい、鬼栖は顔をしかめる。
 ――やはり、そう見えるだけであるけれど――
 そして、すりっと柚巴の胸に体をすりつけ、どこか淋しげに、そのもやしのような手を柚巴の頬へとのばしていく。
 ほんのり桜色した、やわらかなその頬へ。
 今抱かれているこの胸も、やわらかくて優しくて、そしてあたたかくて好きだけれど……。
 そのふにゃふにゃした頬は、触るととても気持ちいいことを知っている。
 しかし、どんなに手をのばしても、鬼栖の短い腕では、そこに到達することができない。
 それが、もどかしい。
 だから、今度は、悔しそうに、柚巴の胸の中で、もがもがともがくことになる。
 必死で、身じろぐ鬼栖に気づき、柚巴はふっと困ったように微笑む。
「鬼栖ちゃんたら……」
 そうつぶやき、柚巴の顔が、鬼栖へと近づいてきた。
 そして、鬼栖が望んでいたそれが行われる。
 すりっと柚巴の頬が、鬼栖の体をなでていく。
 それだけで、抱いていた淋しさが、ふっと払拭されてしまったように感じる。
 本当に、この人間の少女のぬくもりは……どこか癒される。
 不思議な優しさがある。
 本来ならば、鬼栖が柚巴の支えにならなければならないのに、逆に慰められてしまうなんて。
 鬼栖は、悔しさで胸がつぶれそうだった。
 だって、柚巴は――
「それにしても、本当にやって来たのだな。世凪の奴」
 鬼栖は、柚巴の胸にむぎゅっと体をうずめ、悔しそうにそうつぶやいていた。
 だって、柚巴は……鬼栖の手の届かないところで、心で、世凪と通じ合っているような気がしたから。
 柚巴にだけ、世凪の気配を感じられたのは、きっと、それは――
 そう思うと、悔しくてたまらない。
 鬼栖は、今にもこぼれ落ちそうな涙を、ぐっとこらえていた。


「あいつが、おとなしく柚巴に会わせるとは思ってはいなかったが……」
 いらだたしげに足をゆすり、世凪はそうはき捨てた。
 先ほど通された応接間の椅子にふんぞり返り、これでもかというほど目をすわらせて。
 そのような世凪に、恐れ知らずにも、梓海道がおずおずと声をかけてくる。
「世凪さま……」
 このような時の世凪の相手はしてはいけないと、誰よりもよく知っている梓海道だけれど、声をかけずにはいられなかった。
 何しろ、今は時が時だから。
 事は急を要する。
 こんなところで、悠長に椅子にふんぞり返っている場合ではない。
 そんなことくらいは、梓海道でなくたって、世凪はもちろん、ここに一緒にいる使い魔たちだって容易にわかる。
 心配そうに声をかけてきた梓海道に、世凪の視線が注がれる。
 瞬間、そこにいた誰もが、雷が落ちる、とそう思ったに違いない。
 しかし、そのあては、意外にもあっさりとはずれることになってしまった。
 あの世凪が、毒の一つもはかずに、まともに梓海道の相手をしたから。
「案ずるな。いざとなれば、この程度の結界、すぐに破れる。……ただ、今は少し様子をみておきたい」
 そう言って、世凪はぎりっと爪を噛む。
 その場にいた者たちは、梓海道をのぞき、狐につままれたように世凪を凝視している。
 このような話のわかる世凪など、不気味で仕方がないというように。
 たしかに、これまでの世凪の悪行の数々を考えれば、普通の反応が返ってくるなど誰が思うだろうか。
 莱牙などは、頬の筋肉をひくひくと動かし、その顔いっぱいで気持ち悪いと表現している。
 ただ、梓海道は、さすが世凪の第一の側近、このような世凪を誇らしげに見つめている。
 恐らく、ここに柚巴がいれば……「世凪、少しは大人になったみたいね?」などと、一刀両断されているだろう。
 どうやら、世凪の言葉通り、あの後、世凪たちは、まんまと覇夢赦にしてやられてしまったらしい。
 覇夢赦お得意の結界の中に、まさに閉じ込められてしまっている最中のよう。
 しかし、それも世凪に言わせると、まるで計算の内のようで……。
 しかも、にやっと不敵な笑みまで浮かべている。
 もう先ほどまでの、いらだたしげな様子はない。
「だけど、世凪。そうすると、柚巴の不安は増すばかりだよ?」
 世凪の変わりぶりを確認し、紗霧羅はそう言って世凪に近づいてくる。
 どうやら、この世凪には近づいても大丈夫とふんだらしい。
 ひとまずは、かみついてきたりはしないだろう。
「大丈夫だ。柚巴は、俺の気配にすでに気づいている。……だからだろう。柚巴も、今はおとなしく、俺のむかえを待っているようだ」
 目の前に来た紗霧羅に、どこか得意げな笑みを向け、さらっとそんなことを言ってのける。
 すると、その言葉を聞いた紗霧羅をはじめとする使い魔たちは、一様に目を見開いた。
 この王城のどこかに柚巴がいる、ということはわかっている。
 しかし、そのはずなのに、彼らには、世凪の言うところの柚巴の気配とやらを、実はまったく感じることができていない。
 この世界にやってきてから、ずっと気配をたどっているけれど……。
 その欠片すら感じることができないというのに……それなのに、世凪は、いとも簡単に、柚巴の気配を感じとっているというのだろうか?
 それでは、まるで……。
「……世凪は……そこまで柚巴と通じ合っているというのか?」
 世凪から、いちばんはなれた場所に立っていた莱牙が、ぽつりとそうつぶやいていた。
 そのつぶやきに、莱牙のすぐ近くにいた由岐耶が敏感に反応する。
 じっと莱牙を見つめ。
 どこかうかない、苦しそうな表情を浮かべる。
 莱牙もそのような表情を浮かべていて……。
 彼らは、世凪のその一言によって、とてつもない衝撃を与えられてしまったようである。
 そう。たしかに、そうである。
 鬼栖にも、そして、ここいる使い魔たちにも、その気配は感じられないというのに、ただ二人、柚巴と世凪だけは、互いの気配だけは感じあっているようで……。
 それではまるで、目に見えない何かが、二人を強く結びつけているようではないか。
 心と心で、通じ合っているようではないか。
 ……いや。まさしく、そうなのかもしれない。
 彼ら二人が、ここにいる誰よりも、強い力の持ち主であるということを除いたとしても……きっと、彼らは心で感じあうのだろう。
 背後でぴりりと気を強張らせた二人の男に気づき、紗霧羅は苦しげに微笑を浮かべる。
 華久夜も華久夜で、心配そうに莱牙へとよりそっていき……。
 幻撞は、愉快そうに、くるりとステッキをまわしていた。


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update:05/02/18