怪しい男
(3)

 風のように現れ、そして風のように去っていった男の気配が完全に絶たれ、世凪たちはひとまず室内へ戻ることにした。
 もちろん、その胸の中にはがっちり柚巴が抱かれている。
 生きた心地のしなかったあの少しの間、それを思い出すだけで、ぶるっと身が震える。
 そんな思いをするくらいなら、もう絶対にこの腕を解くまいとさえ思ってしまう。
 ……そんなことは、不可能だけれど。
 しかし、とりあえず今は、柚巴の震えがとまるまでは、こうして抱きしめていられる。
 大義名分が与えられている。
 柚巴を抱いたそのままで、世凪はまた、先ほどふんぞり返っていたソファに身を沈める。
 その横には、ちゃっかり華久夜が腰をおろしてくる。
 鬼栖は、世凪の肩の上から、ぐりぐりと柚巴の胸の中に移動しようとしている。
 世凪によって、ぎっちりくっつけられた、柚巴と世凪の間に割り込もうとするから……当然、蚊でも追い払うように、たやすくはたかれ、床に沈められる。
 そして、もちろん、こうなる。
 べちょっと世凪の足の下。
「……それにしても、さっきの男といい、柚巴を狙ったこの矢といい……。一体……?」
 バルコニーにささった矢の一本が抜かれ、今、紗霧羅の手の中にある。
 すうと、羽から(やじり)へと視線をはわせる。
 そんな紗霧羅の横に、莱牙がすっとよって来て、その手から矢を受け取る。
 そして、莱牙もまた、観察するように矢をにらみつける。
 何か、手がかりになるようなものはないかと。
「……わからん。一体、どうなっているのか……」
 紗霧羅の言葉に、世凪はおもしろくなさそうにそうはき捨てる。
 そして、ぎゅっと柚巴を抱く腕に力をこめる。
 どことなく、焦燥感がにじみ出ているように感じる。
 どこまでいっても俺様で不遜なあの世凪が、動揺している。
 普段の世凪なら、たとえ自分がわからないことでも、それを悟られないよう振る舞うというのに……。
 これは、どうやら、かなり余裕がないとみえる。
 ……まあ、柚巴に関わることならすべて、世凪の場合、余裕がなくなるのだけれど。
「――あのね……世凪。聞いてもいい?」
 そのような世凪の頬にふわっと触れ、柚巴はさぐるようにその目を見つめる。
 すると、険しかった世凪のその目が、瞬時にやわらかいものとなり、柚巴の姿を映し出した。
 触れる柚巴の手は、まだ小さく震えている。
「何だ?」
 その目同様、声もやわらかく変化して。
 柚巴を気づかうように、頬に触れる手をふわりと包み込む。
 すると、柚巴の頬がほんの少し赤くなり、少しうつむいてしまった。
 そして、そのままぽすんとその胸に頭をあずける。
 柚巴の手は、変わらず世凪の手に包まれたまま。
「あのね、わたし、聞いたのだけれど……この世界は、限夢界と表裏一体なのだってね? そして、この世界は、危機に瀕している」
 そこまで言うと、それまでのやわらかな雰囲気とは異なり、きっとした柚巴のするどい眼差しが世凪に向けられた。
 誤魔化すことを許さない、まっすぐなその眼差し。
 それに、世凪はがっくりと肩を落とす。
 どうやら、こういう時でも、二人だけの世界、ラブモードへとなだれこもうとしていたらしい。
 まったく、この王子様ときたら。
「危機だって!?」
 さらに、世凪の幸せを完全にぶっ潰すが如く、紗霧羅の驚きの声が上がる。
「お前は黙っていろ」
 しかし、即座に、世凪がそう切り捨ててしまった。
 せっかくいい雰囲気だったのに、邪魔してくれたな。
 と、八つ当たりのにらみを入れる。
「じゃあ、やっぱりそうなのね? ……これは、あの覇夢赦王が言っていたことなの。そして、この世界に何かあれば、限夢界もただではすまないって……。それで……」
「ああ……」
 世凪の八つ当たりに、柚巴は確信し、そう告げた。
 すると世凪が、多少ためらいの色を見せつつも、誤魔化すことはかなわないと思ったのか、早々と観念して、素直に答えていた。
 そして、握る柚巴の手に、そっと口づけを落とす。
「世凪……?」
 そのような、気障ったらしくどこかしおらしい世凪に、柚巴はもちろんのこと、使い魔たちも怪訝に眉をひそめる。
 こんなに素直でおとなしい世凪なんて、世凪じゃない。
 これは、絶対に何かある。
 誰もが、即座にそう判断できるだろう。
 そして、それは間違ってはいない。
「そうか。そうだったのか。……腑に落ちないとは思っていたのだ。お前がおとなしく柚巴を遣わせたこと……」
 手に持つ矢をぎりっと握り締め、莱牙はぽつりとつぶやく。
 そしてそのまま、床にめがけて、その矢を放った。
 まっすぐに、矢は床につきささる。
 きらりと、不気味な銀の光を放ち。
「そうだね。わたしも、これで合点がいったよ。――また……柚巴の力が……」
 莱牙がつきさした矢を見下ろし、紗霧羅がどこか悔しそうに莱牙に同意する。
 そのような二人の様子を見て、世凪はふうと細いため息を一つもらす。
 そして、きっと顔をひきしめ、目の前に立つ使い魔たちに視線を向ける。
 まるで、一人一人と合図をかわすように。
「しかし、その危機というものがどういうものなのか、また、それが事実なのかわからん。だから、一度柚巴を行かせて、様子を見ようと思ったのだが……」
 世凪は、そこでふっと言葉を切った。
 そして、何やら考えこんでしまった。
 ただし、柚巴を抱く腕だけは、変わらず力強いまま。
「……世凪?」
 突然様子の変わった世凪を、柚巴は不思議そうに見つめる。
 すると、そのような柚巴を困ったように見て、世凪は苦笑いを浮かべる。
「納得が……いかないのだ」
 その言葉に、柚巴の顔も瞬時に変化する。
 真剣な眼差しを世凪へ送る。
「うん。そうだね。覇夢赦王は、危機危機とは言っていたけれど、これといって切羽詰っているようではなかったし……。むしろ――」
 そこまで言うと、柚巴は口をつぐんでしまった。
 柚巴もまた、何か考えこむように。
 すると、そんな柚巴の頭を、世凪の手がふわりとなでていく。
「……まあ、いい。とにかく、今は限夢界へ帰るぞ」
 そう言って。


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update:05/03/27