希望の矢
(1)

「うん。そうだね。――じゃあ、はい」
 多紀はけろりと柚巴の言葉にうなずき、どこからともなく、一本の矢を取り出してきた。
 それはまるで、差し出した手に、すうっと現れたように柚巴の目には映っていた。
 映っているのではなく、まさしくそうだったかもしれない。
 現れた、何の変哲もないその矢を見て、柚巴は首をかしげる。
 すると多紀は、にやりと不気味な笑みを浮かべた。
 そして、さらっととんでもないことを言ってのける。
「シュテファンから、くすねてきちゃったっ」
「はあ〜いい〜!?」
 瞬間、一人ではなく、複数のすっとんきょうな雄たけびが上がった。
 これまで、大人しく柚巴と多紀の会話を聞いていた使い魔たちも、さすがにそれには驚かずには、すっとんきょうな雄たけびを上げずにはいられなかったらしい。
 まあ、それも無理はない。
 何しろ、あろうことか、シュテファンから……最高神・シュテファンから失敬してくるなど……。
 常々、とんでもない男だとは思っていたけれど……まさか、ここまでとは。
 これが、よりにもよって、智を司る神なのだろうか?
 その行動のどこに、智≠ェあるのだろうか。
 しかし、あえてそこはつっこんではいけないだろう。
 あくまでも、一応、これ≠ヘ、自分たちの世界の神の一人なのだから。
 さすがに、次の言葉がでてこなくて、柚巴もぱくぱくと口を動かしている。
 何と言えばいいのかわからない。
 多紀のその行動が、わかっていたとはいえ、あまりにも常識から逸脱したものだから。
 よりにもよって、くすねた相手がシュテファンとは……。
 多紀も神だけれど……神罰≠ェ下りそうである。
「大丈夫、大丈夫。一本だけならばれないから」
 しかし、使い魔たちの頭痛などよそに、多紀はあくまでそのような調子。
 軽く、けらけらと笑い飛ばす。
 ばれるとかばれないとか、そういう問題ではない。
「……いや。そういう問題じゃなくてね?」
 そう思ったと同時に、ぽろりと柚巴の口から、思いそのままがでていた。
 多紀という友達を知っている柚巴でも、さすがにこの行動には、つっこまずにはいられない。
 いくら、平気で女子更衣室に入れる男だからといっても……これは、度をこしすぎている。
「うん。それでね、はい。柚巴ちゃん、持って持って」
 うなだれる柚巴にかまわず、多紀は矢を柚巴の手にぐいっと持たせる。
 脱力しきっている柚巴は、それに抵抗する気力すらなく、素直に受け取ってしまった。
 だけど、それをすぐに後悔することになる。
 何しろ、今持たされたその矢は、神から失敬してきたものなのだから。
 とばっちりを食らうなんて、ごめんこうむる。
「あ〜う〜。多紀く〜ん」
 恨めしそうに、情けない声を上げる。
 すると多紀は、これまでのふざけた素振りをふっとかき消し、妙に真剣な眼差しを柚巴に向けてきた。
 そして、まっすぐに柚巴を見つめる。
「これは、柚巴ちゃんにしかできないことだから」
 そう言って、矢を持つ柚巴の手を、両手でふわりとつつみこむ。
 柚巴の顔もまた、その言葉にはじかれたように、うなだれたものから険しいものへとかわる。
 どういうこと?と、じっと多紀を見つめる。
 すると多紀は、柚巴の手をにぎるその両手をはなしていき、ぶくぶくと不気味なマグマを吐き出すそこを、すっと指差した。
「いい? その矢を、あの中心めがけて放って。……よく見ると、見えるでしょう? 核≠ェ」
 そう言って、すいっと柚巴に視線を戻す。
 多紀の視線を受け、柚巴の顔がいっそう険しくなった。
 ごくっと、知らずのどがなる。
「あの……? きらっと光る、あれ?」
 まっすぐに、今多紀が指差す先を見つめ、柚巴はつぶやく。
 すると多紀は、迷いなくこくんとうなずいた。
 世凪をはじめ、使い魔たちも、多紀が示す先を見つめているけれど、どうにも難しい顔をしている。
 どうやら、世凪たちには、柚巴と多紀がいうあれ≠ェ見えていないらしい。
 ということは、多紀の言う通り、これは、柚巴にしかできないこと≠ノなるのだろう。
 もちろん、それに世凪たちもすでに気づいている。
 しかし、不思議に、それが疑問には思わない。
 これまでも、柚巴のその不思議を見てきたから……。
 今回も、そういうことがあっても決しておかしくなどないだろう。
 何故だか、それが当たり前と思えてしまうから……苦く笑ってしまう。
 一体、どこまで、柚巴には不思議な力が眠っているのだろう。
 次第次第にわかってくるその力は……どこまでいくのだろう?
 そして、それは、かつて、竜桐や幻撞が懸念していたように、世界に災いをもたらすもの?
 その力の正体がわからないから、どこか恐ろしくなる。
 きっと、柚巴ならば、たとえ世界を破滅に追いやる力をその身に宿しているとしても、決して、そのようなことにはならないという、とりとめのない自信もあるけれど。
 きっと、この少女なら、眠るその強大な力を、うまく使ってくれるだろう。これまでのように。
 そう、信じられる。
「そう。それ。これは、シュテファンの矢。……不可能なことなんてないのだよ。この矢に願いをこめて、放つ。そうすると、その願いはかなえられるのだよ」
 ふふっと、楽しそうに多紀は笑う。
 そのような多紀を、柚巴はじっと見つめる。
 本当に、そんなことができるの?と。
 たしかに、智を司る神の多紀が言うのだから、それは本当だろうとは思うけれど……。
 だからって、奇跡をそんな簡単に起こせるはずがない。
 不可能なことなんてない……なんて、それこそ不可能なように思えてならない。
 シュテファンは最高神だけれど、全知全能の神ではないはずだから。
 もともと、神……というその存在自体、こうやって、多紀がそうであるとわかるまで、あまり信じてはいなかった。
 多紀の存在をもって、はじめて、限夢界には神が存在するのだと認めたくらいである。
 それなのに、さらにそれを凌ぐようなことが……?
 柚巴のそのような迷いなど、どうやら多紀にはお見通しらしい。
「まあ、信じられないだろうけれど、一度、騙されたと思ってしてみて」
 にっこりと、そう微笑みかける。
 その微笑みと言葉に、柚巴はきゅっと唇をむすんだ。
 別に、多紀を信じていないわけじゃない。
 ただ、柚巴が実感できないのは……この矢。
 この矢に、そのような力があるということ。
 だけど、多紀にそこまで言われては、もう認めるしかない。
 自分に思いこませるしかない。
 今、柚巴の手の中にあるこの普通の矢は、不可能なことなどない矢、と。
「……信じるよ。多紀くんのこと、信じるよ」
 矢のことは、それでもまだやはり、ちょっと信じられないけれど……だけど、多紀の言葉なら信じられる。
 多紀なら信じられる。
 多紀は、柚巴をからかって遊ぶことはあるけれど、一度も、柚巴に嘘をついたことはないから。
 だから、多紀ならば信じられる。
 まっすぐに見つめてくる柚巴に、多紀はやはりにっこりと微笑む。
 それはまるで、それでいいのだよ、と言っているように。
「もう時間がないから……」
 そして、そうつぶやき、世凪の腕の中から柚巴を引き抜く。
 すっとさし出された多紀の手に、柚巴の手が重ねられて。
 世凪はそれを、渋々、舌打ちしながら見送るしかない。
 本当は、世凪だって、そんな矢があるなど聞いたこともないし、信じられないけれど、柚巴が信じるというのなら、それに従わざるを得ない。
 そして、柚巴を、その腕から解放せざるを得ない。
 世凪は、本気になった柚巴にだけは、決して逆らえないから。
 ゆっくりと世凪からはなれて、多紀のもとへと行く柚巴を、切なそうに見つめる。


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update:05/08/09