失った片翼
(2)

「……そう、なのかな?」
 庚子には珍しく、自信なくつぶやいていた。
 ――自信はない。
 だけど、そうだといわれれば、そのような気もする。
 九条多紀。
 その名を聞くのは、はじめてではないから。
 以前、柚巴からも、その名は聞いている。
 それは、庚子が忘れてしまった、庚子の大切な人の名だと。
 だけど、実感はない。
 何か大切なものを失ったような、そんな感覚はあるけれど……。
 だけど、それが本当に、九条多紀という人物かと問われれば、庚子には、はっきりそうだと答えることができない。
 感覚だけで、実感はないから。
 そんな庚子の、内なる思いに気づいているのか、世凪はきっぱりと言った。
「そうだ。あの男は、とにかくムカつく奴だからな」
 それは、なんだか、本当に、その人が存在しているような口ぶり。
 存在していて、近しい場所にいるような……。
 庚子には、かすみのような存在なのに、世凪には、直に触れることのできる存在のようで。
 たしかにそこには、その実態がある。
 庚子にとっては幻で、だけど世凪にとっては実在していて……。
 不思議な感覚。
「世凪はまた、そういうことばかり言って。……でも、やっぱり、庚子ちゃんは、多紀くんのことを忘れてなんていないのね。なんだか、辛いね」
 それを裏づけるかのように、柚巴までが続けた。
 やはり柚巴もまた、しばしばその人物と会っているようで。
 でも、少し淋しそうで。
 その言葉通り、辛そうで。
 一体、何がそんなに辛いのだろう?
 庚子には、よくわからない。
 何か大切なものを失ったような感覚はあるけれど、それがどうしたというのだろう。
 そんなぼんやりとした思いだから。
 だから、辛いという感覚も……きっとない。
 どこか、別次元のことのように思えてくる。
「たしか、中途半端に忘れさせるくらいなら……って、言っていたか? 柚巴」
 しょぼんと、急に元気を失ってしまった柚巴を包み込むように、世凪が優しく語りかける。
 それは、慰めているようにも見える。
 すると柚巴も、どこかむりやりのように微笑みをつくってみせる。
「うん。生きているのに、二度と会えないなんて、辛いよね。それは、もうこの世にはいない人に会えないことより、もっとずっと辛いことなのだなって思って……」
 今にも泣き出してしまいそうな微笑みで、柚巴はそれをゆっくりと言う。
 亡くなったのなら、それはいつか思い出とかわり、二度と会えないことを受け入れることも可能になる。
 ……なるだろう。
 しかし、相手が生きているとはっきりしているのに、それなのに会えないなんて……。
 それは、とても不幸なこと。
 会いたくても、会えない。
 それは、身を引きちぎるような苦しみをもたらす。
 相手が大切であればあるだけ、思いは募るのに。
 目に涙をためはじめた柚巴の頬にそっと触れ、庚子は優しく微笑みかける。
 だけど、その微笑みに、少しの淋しさをにじませて。
「……そのことだけれど、わたし、まだいまいちよくわからないのだよ。その多紀って奴のこと。そいつが、わたしの失った片翼だと、柚巴は言うけれど……」
 そのまま、柚巴の頬を包み込む。
 つうっと、一筋、涙が落ちてきた。
 それに、庚子は苦笑いを浮かべる。
 一方、世凪は、彼にしては珍しく、大人しく二人のやりとりを聞いている。
 どうやら、世凪にも、ここは二人にまかせておくべきだとわかるらしい。
 下手に、二人の間にわって入ってはいけない。
 それは、庚子のために。そして、柚巴のために。
 世凪との間のものとは違った絆が、この二人の間にもあるとわかるから。
 それが、少し淋しいと感じるけれど、だけど我慢しなければならないものだともわかっている。
 胸の中が、ざわつく。
「じゃあ……」
 一瞬、柚巴の顔に陰ができる。
「でも、前言ったことは嘘じゃないから。少しずつでいいから、これからも教えてくれるよな?」
 ……九条多紀のこと。
 触れる柚巴の顔をひきよせ、こつんとおでことおでこを小突きあわせる。
 本当に、泣き虫だよな、柚巴ってと、困ったように微笑み。
「うん。いっぱいいっぱい、多紀くんのこと話すよ」
 庚子の微笑みに応えるように、柚巴もきゅっと涙をぬぐい、精一杯微笑んでみせる。
 かげりなく純粋に微笑むその表情を、くもらせたくない。
 ずっとずっと守っていきたい。その笑顔を。
 その笑顔が、かつて、庚子を救ってくれたから。
 失ってしまったその片翼のことも大切だと思えるけれど、でも今は、それ以上に、柚巴の微笑みが大切だと思うから。
 失ったものより、今あるものを大切にしたいから。
 これ以上、失わないためにも。
 だけど……今言ったことは嘘じゃない。
 まだ実感としてはないけれど、その片翼のことを聞くことは、嫌じゃない。
 むしろ、もっともっと知りたいと思っている。今では。
 片翼のことを聞くたびに、知るたびに、胸にともる小さな火があるから。
 それは、今にも消えてしまいそうなほど弱々しいけれど、だけどとてもあたたかいから。優しいから。
 大切だと思うから。
 そのぬくもりを、もっともっと欲しいと感じる。
 失ってはじめて気づく、その大切さ。
 いつか必ず、取り戻してみせる。
「あ、そうそう。柚巴。オープンしたばかりの遊園地の招待券をもらったのだけれど、次の休みにでも一緒に行かないか?」
 それまでの重い雰囲気を払拭するように、庚子はつとめて明るく振る舞う。
 世凪の腕の中に体を残したまま、柚巴の頭だけをぎゅうっと抱きしめて。
 瞬間、世凪の顔がおもしろくなくゆがんだことは言うまでもない。
 しかし、そこで即座に攻撃に出ないあたりは、やはり、世凪はかなり成長したと言える。
 自分以外が柚巴に触れることは、変わらずおもしろくない。
 しかし、だからと言って、柚巴が心を許す大切な人間をないがしろにするわけにもいかず……。
 だって、問答無用で排除すれば、問答無用で柚巴を怒らせてしまうから。
 柚巴のご機嫌だけが怖い世凪には、そんなことはできない。
 渋々認めざるを得ない。庚子の存在を。
 ただ一つ、救われていることは、庚子が柚巴と同性ということだけ。
 これが異性ならば、やはり理性などぷっつんとぶっちぎれてしまっているところだろう。
「え? でも……テストだよ? 勉強しなきゃ」
 庚子の胸の中から、ぷはっと顔を引き抜いてきて、柚巴は不思議そうに首をかしげる。
 たしかに、あと数日もすれば、二学期の期末テスト。
 それが終われば、あとは一週間のテスト休みの後、終業式がやってきて、冬休みになる。
 さすがに、そんな大切な時に、いくら柚巴だって、遊ぶ気になどなれない。
 ただでさえ、パルバラ病や比礼界のことで、勉強が遅れがちだというのに。
「そんなの知るかよ。今さら、そんなものしても一緒だよ」
 はんと鼻で笑うように、ぞんざいに言い捨てる。
 たしかに、庚子にとっては、今さらしても同じ……ように思える。
 何しろ、この学校の中でも、有名な問題児だから。
 しかし、柚巴は、すればできる子=B
 悪あがきでも何でも、すればしただけ、ましな成績になると思う。
 今さら、いい成績をとろうとは思わないけれど。
 いい成績をとるには、柚巴は、勉強をさぼりすぎてしまっているから。
 ……いや。そうではなくて、今の柚巴には、成績よりも大切なものがあるから。
「またあ、庚子ちゃんは〜……」
 半分呆れたように、半分諦めたように、柚巴は微笑んでみせる。
 庚子のこういうざっくばらんなところは好きだけれど……これは、ざっくばらんというよりかは、むしろ投げやりに近いかもしれない。
 だけど、遊園地という魅惑の言葉にひかれてしまっているのもたしかで――
「ここに九条多紀がいなくてよかったな。あいつがいたら、今頃大喧嘩だ」
 庚子の胸の中から柚巴の顔をとり戻しながら、世凪は意地悪くにやにやと笑ってみせる。
 世凪ではないけれど、たしかに、ここに多紀がいたら……間違いなく、庚子と死闘を繰り広げはじめるだろう。
 ……もとい、庚子は、簡単にあしらわれ、苦汁をなめるはず。
 多紀とは、そういう男だから。
「世凪っ! ……でも、たしかに、ここに多紀くんがいたら、庚子ちゃんと一緒に大騒ぎだね」
 一度は世凪をたしなめてみるものの、柚巴も、それはどうにも否定できなくて、結局は同意してしまっていた。
 ああでもないこうでもないと言い合い、そしてそこに、意志など関係なく、柚巴も巻き込まれてしまう。
 そんな騒がしい日常が、ほんの数ヶ月前まで、たしかにここにあった。
 それが、当たり前だった。
 ぼんやりと思い出し、心が少し淋しさを感じる。
「ふーん。ますます、その九条多紀って奴、楽しそうな奴だな。やっぱり、早く思い出したいな」
 柚巴と世凪が楽しそうに語る九条多紀≠ノ、庚子までも心のどこかがぽっとあたたかくなる。
 二人の口ぶりからすると、本当に、九条多紀という男は楽しい男だったのだろう。
 しかも、庚子とは、なかなかにいいコンビだったように思える。
 つかみどころのない男は、願ったり叶ったりだから。敵として。
 ……だけど、それはあくまで二人が語る九条多紀で、やはり庚子には実感としてはない。
 そう思うと、すうっと、心が寒くなっていく。
「庚子ちゃん……」
 うきうきと語る庚子に、柚巴は複雑な微笑を浮かべる。
 嬉しいような、だけどどこか悲しいような……。
 言葉でいいあらわすことのできない、複雑な気持ち。
 多紀に興味を示してくれるのは嬉しいけれど、だけど、忘れてしまっているというその事実には、胸を痛めずにはいられない。
 気づけば、世凪の胸に、きゅっと顔を寄せていた。
 それに応えるように、世凪もまた、柚巴を優しく包み込む。


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update:05/11/10