失った片翼
(3)

「九条多紀? 誰ですか、それは」
 あたたかくて、優しくて、だけどどこか淋しいようなその空間に、ふいにそんな言葉が投げかけられた。
「え!?」
 ここには、事情を知る者だけしかいないと思っていた柚巴は、動揺の色を見せる。
「か、甲斐!」
 その横では、庚子が憎らしげにその名をはき捨てていた。
 それに柚巴は、もう一度びくっと驚き、優しく包んでいたそのぬくもりに視線を移す。
 さすがに、ここに世凪がいるのは不自然だし、いい言い訳もない。
 しかし、視線を移した時には、すでにそこに世凪の姿はなかった。
 だけど、肌に感じるぬくもりだけはまだ残っている。
 自分中心の俺様男でも、さすがに、柚巴が困るようなことはさけたいのだろう。
 どうやら、甲斐がここに現れるその直前に、ささっと姿を消していたよう。
 本当に、どこからどこまでも、抜け目がない男。
「てめえ、また性懲りもなく、柚巴のまわりをちょろちょろしやがって!」
 ぽけらっと、今の今まで感じていた優しいぬくもりがあったそこを見ている柚巴をぐいっと抱き寄せながら、庚子は憎らしげに、甲斐をにらみつける。
 明らかなその敵意に、甲斐は皮肉るように微笑む。
 その目は、当然、庚子を馬鹿にして。
「いやですね、松原さんは。頭の悪い方は、すぐにそうやってすごめばいいと思って」
 癪に障るようなその表情にあった言葉が、口から出てくる。
 いくら学校一の問題児の庚子だって、自分が馬鹿にされているかいないかくらいはわかる。
「つぶすっ! ぶっつぶすっ! 柚巴、とめるなよ!!」
 ぶっつんと、頭のいちばん太い血管でもぶっちぎってしまったのか、ぽいっと柚巴を放り出し、庚子はぼきっばきっと指を鳴らしてみせる。
 どうやら、暴力的なのは、言葉だけでなく、行動もだったよう。
 ……今さらだけれど。
「か、庚子ちゃ〜ん!」
 ぽいっと捨てられてしまった柚巴は、もちろん慌てて庚子をとめにはしる。
 本当なら、ぶっちぎれてしまった庚子をとめるのは、柚巴ではなく多紀の仕事だけれど、今はその多紀がいない。
 ならば、庚子が暴走する前に、柚巴がとめなければならない。
 甲斐に飛びかかろうとする庚子の腰を、後ろからぎゅっと抱きしめる。
 すると、ぐらりゆらりと、庚子の理性が思いっきりゆらぐ。
 このまま甲斐を殴り倒してやりたいところだけれど……。
 この腰にからまる抗い難い誘惑には……。
 そんな葛藤をはじめてしまった庚子と、必死に庚子をとめようとする柚巴をさらっと無視して、あくまでマイペースに甲斐は話をすすめていく。
「柚巴さん、いかがですか? 次の休みにでも、一緒にテスト勉強をしませんか? テスト前に一週間も休んでしまうなんて、とても大変でしょう? ……まあ、柚巴さんならば、心配はいらないかもしれませんが。――一応ね?」
 庚子の腰にまきつく柚巴の顔の前に、ひょいっと自分の顔をもってきて、にっこりと微笑む。
 完全に、庚子など無視して。
 まるで最初から、ここに存在していないように。
 なんというか、ここまで完璧な無視のしようは、ある意味天晴れと言えるかもしれない。
 さすがに、そのさわやかすぎる無視には、柚巴も顔をひきつらせずにはいられない。
 目の前に現れた甲斐の顔から、ささっと隠れるように、庚子の背に顔をうずめる。
「で、でも……。次の休みは、庚子ちゃんと一緒に……」
 そして、そこから、くぐもった声で、しどろもどろにそう答える。
 こんなにすぐ近くに男の人の顔があるなんて、柚巴にはとてもたえられない。恥ずかしくって。
 それが、世凪なら何ともないけれど。
 ――それでも、まったく違う意味で、どぎまぎしてしまうこともあるけれど。
 使い魔たちだって、不意打ちのように、こんな暴挙に出たりはしない。
 ちゃんと、それなりの予告をしてくれる。
 こういう不意打ちに弱いのを、みんなわかってくれているから。
 柚巴のその言葉に、一瞬にして甲斐の表情が強張る。
 それに追い討ちをかけるように、庚子が得意げに、高らかに言い放つ。
「遊園地に行くのだよ。残念だったな。おとといきやがれっ」
 そして、犬を追い払うように、しっしっと手をふってみせる。
 これは、どこからどう見ても、犬猿の仲。
 しかも、柚巴をとり合って。
 ここひと月あまり、いやに柚巴に近づくと思っていたら……。
 この数日、何かといっては執拗に、庚子に喧嘩を売ってきているように思えてならない。
 もちろんそれは、庚子から柚巴を奪おうとして。
「……くすっ。遊園地ですか? いいのですか? あなた、そんなに遊んでいても」
 くすくすくすっと、思い切り馬鹿にしたような笑いをもらす。
 目はやけに挑発的に庚子を見て。
 その一触即発の様子に、庚子の背に隠れていた柚巴も、はらはらと事の成り行きを見守ってい――
「わあ〜! 庚子ちゃん、ブレイク、ブレイクー!!」
ようと思っていたのに、あっさりと試合開始のゴングが鳴らされてしまった。
 もちろん、庚子のフライングつきで。
 無駄に嫌味ったらしく庚子を見る甲斐は、やけに涼しい顔をして。
 どうやら、最初から、甲斐は庚子など相手にしていないようにも見える。
 それがますます、庚子の怒りに油を注ぐ。
 ぐわしっと、腰にまきつく柚巴をひきはなしながら、庚子は怒り狂ったように口から火をはく。
「とめるな、柚巴! やっぱりこの男、一度たたんでおかないと気がすまない!」
 どうやら、庚子と甲斐の戦いのはずが……いつの間にか、庚子と柚巴の戦いになってしまっているよう。
 必死にとめる柚巴と、それをひきはがそうとする庚子。
 これでは、なんだかとっても、本末転倒のような気がしてならない。
 そのような、柚巴と庚子の横で、やはり甲斐は、マイペースにすすんでいく。
「それよりも、今、誰か、あなた方の他にいませんでしたか?」
 ふっと思い出したように、今さらながらにそんなことをつぶやいて。
 瞬間、柚巴も庚子も、動きをぴたっととめていた。
 それは、何を意図しているのか、明らかだから。
 ……世凪のことを言っているのだろう。
 いくら甲斐が現れる直前に、姿を消していたといっても――
「き、気のせいだよ」
 たら〜りと、大量に流れ落ちてくる冷や汗をぬぐいながら、柚巴はそんな月並みな誤魔化しをする。
 その横では、庚子が必死に首をたてにぶんぶんふって。
 ……本当に、この二人は、嘘がつけない。
「そうですか? それならば、いいのですが……」
 もちろん、あからさまなその嘘に、甲斐は腑に落ちなさそうに眉をよせる。
 柚巴が「気のせい」と言っているので、それを否定する気にもなれず、一応そうこたえてみせる。
 しかし、それでも、納得がいっていないのはどこからどう見ても明らか。
 柚巴も庚子も、愛想笑いを浮かべる他なかった。
 今の今まで、戦闘状態にあったことなど、あっさりと忘れて。
 別に、世凪のことを隠す必要はないけれど、説明がいろいろと大変なので、できれば秘密にしておきたい。
 限夢界のこと自体も、これといって秘密ではないけれど、それは、ごく限られた人々の間でだけのこと。
 一般の人にこんなことを言っても、誰も信じてくれないから。
 ならば、あえて、自分たちから、面倒なことを背負い込む必要はない。
 ……それ以前に、もっと面倒なのが、世凪自身のような気がしてならないけれど。
 そう。限夢界の存在よりも、もっと面倒なのが、俺様王子様。
 それは、柚巴限定で、だけれど。
 庚子と一緒に、そわそわと落ち着かない柚巴に、甲斐はふわっと微笑んでみせる。
「柚巴さん。あなたも、無理して、こんな人とつき合わなくてもいいのですよ。――では、僕はこれで」
 すいっと顔を寄せて、耳元でそうささやき、やはり無意味にさわやかにバルコニーから去っていく。
 現れたのが突然ならば、去るのも突然のよう。
 これは、多紀とはまた違った意味で、神出鬼没で、やっかい。
「さっさといきやがれっ! もう二度と現れるな! 柚巴、塩、塩!!」
 ぎりりと歯をかみしめ、憎らしげに汚らわしげに、はき捨てる。
 その体からは、怒りのオーラを放出して。
 どうやら庚子は、本当に、甲斐という男が、嫌いで仕方がないよう。
「そんなのないよ〜……」
 憤る庚子の横で、柚巴がげんなりとつぶやいた。
 吹く風はこんなにさわやか……冷たいのに、どうして庚子はこんなに熱いのか。
 そして、柚巴のまわりは、どうしていつも、こんなにつまらない騒動ばかりなのか。
 そろそろ、自分の人生を呪いたくなってくる。
 たまには、静かにさせて欲しい。
 世凪と出会ってからというもの、柚巴には、心休まる時がないように思えてならない。
 世凪と出会って、まだたったの半年しかたっていないけれど。
 今度は、バルコニーから、空にむかって甲斐に対する怒りをぶちまけはじめた庚子の横で、柚巴はつかれたように肩を落とす。
「やっぱり……多紀くんは、みんなの記憶から消されちゃっているのね……」
 ぽつりとそんなことをつぶやいて。
 多紀の存在を知らないのは、庚子だけではなかったと、改めてつきつけられた。
 ふっと、心がまた淋しくなる。
 しかし、それは気づいた時には、あたたかなぬくもりで中和されてしまっていた。
 いつの間にか再び現れた世凪が、ふわりと柚巴を抱きしめていたから。
 横で、熱くなっている庚子。
 そして、暑苦しく抱きしめてくるこのぬくもり。
 柚巴はそれを感じながら、この瞬間をかみしめる。
 この世界から欠けてしまったピースは、とても大きい。
 けれど、それを、この人たちが、柚巴のまわりにいるすべての大切な人たちが、うめてくれるような気がする。
 欠けたピースはとても大切だけれど、それ以上に、残っているピースを大切にしなければならない。
 ……これ以上、大切なものを失わないためにも。
 抱きしめる世凪に、柚巴は身をゆだねていく。
 何も言わないそのぬくもりが、とても愛しい。


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update:05/11/15