名も知らぬ花
(2)

「ふふっ……」
 まわりの目なんておかまいなしに騒ぎ続ける世凪たちを見ながら、柚巴は楽しそうにそう声をもらした。
 もちろん、すぐ横によりそっている由岐耶は、すかさずその変化に気づく。
「どうかされました? 姫さま」
 少し首をかしげて、柚巴の顔をのぞきこむ。
 すると、ふいに柚巴の顔が上げられ、まっすぐに由岐耶を見つめてきた。
 視線がからみ合うと、どくんと、由岐耶の胸がおかしな動きをみせた。
 それを、精一杯気づかないふりをして、おさえつける。
 決して、柚巴にだけは、それを悟られないように。
 何故だか、そうしなければならないと思って。
「あのね。これってまるで、あの時と一緒だな〜と思って」
「あの時と一緒……ですか?」
 楽しそうに、だけどどこか悲しそうな微笑みを浮かべる柚巴に、由岐耶はますます首をかしげてしまう。
 何を言おうとしているのかわかるようで、だけどやっぱりわからなくて……。
 あの時と言われても、由岐耶には、すぐに思い浮かぶものはない。
 それが、ちくんと胸を小さくいためる。
 ずっとずっと傍らで、この少女を見守ってきたはずなのに……。
 それなのに、この少女が何を言いたいのか、すぐにわからない。
 今まで、一体、この少女の何を見てきたのか、守ってきたのか……。
 悔しい思いでいっぱいになる。
 知らず知らず、表情が曇る。
「うん。夏休みのはじめにね、多紀くんと一緒に、庚子ちゃんのおばあちゃんのお家へ遊びに行ったでしょう? その時、みんなもついてきちゃって……」
 それでも、柚巴は、由岐耶のそんな少しの変化に気づいた様子なく、変わらず、楽しそうに、目の前で繰り広げられる言い争いを見ている。
 それに、どこか救われたような気になる。
 今、由岐耶が感じているこの痛みを、柚巴に知られずにすんで。
 この少女は、鈍いように見えて、実は、誰よりも他人の痛みに敏感だから。
 由岐耶の不可思議な胸の痛みに、柚巴までも、胸を痛める必要はない。
「ああ。あの時も、庚子さん、今のように怒っていましたね。そして、多紀さんが――」
 そこまでヒントをもらい、由岐耶もようやく理解できた。
 しかし、その嬉しさから、思わず、口をすべらしそうになり、慌ててつぐむ。
 今の柚巴には禁句であるその名を、思わずもらしてしまったから。
 自分に対する怒りと、後悔が押し寄せてくる。
 せっかく楽しそうにしている時に、どうして水をさすようなことを言ってしまったのか。
 どんな時だって、苦しいことや悲しいこと、辛いことに触れさせることなく、楽しいこと嬉しいこと、幸せなことだけに包まれ、大切にしていきたいと思っているのに。
 それは、果たして、柚巴にとっていいことかなんて、そんな無粋なことはどうでもいい。
 ただ、この笑顔を守りさえできれば、由岐耶はそれだけで幸せだから。
 結局は、ひとりよがり、エゴかもしれないけれど……。
 だけど、今の由岐耶に望めるものは、それだけだから。
 他は、もう望めなくなってしまったから。
 ――一体、いつ頃からだろう。
 こんな思いを抱くようになったのは。
 そして、他の男のものになって、はじめて気づくこの思い。
 もうずっとずっと、変わらず、同じ思いで見守りつづけてきたはずなのに、手に入らないとつきつけられて、はじめて知る、この思い。
 この、やりきれない思い。
「うん。懐かしいなと思って。やっぱり、大勢だと楽しいよね」
 やはり、そんな由岐耶の思いに気づこうともせず、この愛しい少女は無慈悲に微笑み続ける。
 だけど、その微笑みには、まだまだかげりがあり……。
 あの男のことを、吹っ切れていないことをつきつけられる。
 どんなに頑張っても、思っても、あの男や、このうるさい男のように、柚巴の中に深く刻み込まれる存在に、由岐耶はなることができないだろうとつきつけられる。
 本当に、いつの間に、こんな思いを抱くようになっていたのか……。
 誰かのいちばんになりたいなんて……。
 誰かのただ一人になりたいなんて……。
 いや。誰かではなく、由岐耶がいちばんになりたいのは、ただ一人になりたいのは、たった一人の――
 人間界へやってきた頃は、あんなに人間の存在を疎んじていたはずなのに。
 はじめて触れたあのぬくもりが、すべてのはじまりだったのかもしれない。
 今へとつなぐ、あの優しいぬくもり。その花。
 名も知らない花に触れ、愛しいと感じた。
 それが、きっかけで、はじまり。
 それだけは、わかる。
 かたくなに閉ざしていた心を開き、そしてとかしていった花。
 その花の微笑みを守るためだけに、由岐耶はこの十八年間をすごしてきた。
 そして、その十八年で、大きな変化を遂げた。
 だって、こんなに、人間が愛しいと感じる日がやってくるなんて、十八年前までの由岐耶は知らなかったから。
 この花を守るためだけに、由岐耶は今も、この世界にいつづけるのかもしれない。
 とりとめなく、だけど確信めいた思いで、そう感じる。
 そんな遠いところに思いをとらわれる由岐耶の腕に、ふわっと優しいぬくもりが運ばれてきた。
 それに驚き、自分の腕に視線を落としていくと……心配そうに、由岐耶の顔をのぞきこむ柚巴の姿があった。
 それだけで、由岐耶の胸は熱にとらわれる。
 同時に、この優しいぬくもりを失いたくないと、痛いほど願ってしまう。
 ふわりと優しい微笑みを落とし、「困った人たちですね」と、あきれてみせる。
 そうすると、柚巴は再び笑顔をとり戻すから。
 そんなちっぽけなことで、由岐耶の心は満たされてしまう。

 時折押し寄せる、このとりとめのない不安の正体に、由岐耶はまだ気づいていない。


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update:05/12/11