忍び寄る異変
(3)

 東の空が、ぼんやりと明るさをおびはじめた頃。
 限夢界の王宮に、その姿があった。
 ふわあっと、気だるそうに大口をあけてあくびをする莱牙と、それを呆れたように横目で見る紗霧羅。
 人間界から戻ってきた時、いちばんはじめに出るそこ。限夢宮中庭。
 そこには、王子様とその婚約者がいちゃつくためだけにおかれた椅子がある。
 それが視界に飛びこんできて、莱牙のご機嫌は急激に降下していく。
 この眠気もあいまって。
 そういえば、限夢界に戻ってくるその前に、あのドスケベ王子は、これ幸いと、いけしゃあしゃあと、柚巴の私室にもぐりこんでいた。
 そこは、世凪だけが立ち入りを許された、いわば禁域。聖域。
 その部屋の主は、これといって立ち入りを禁じてはいないけれど……。
 その婚約者がたちが悪すぎる。
 自分以外の者を、そこへ入れようとしないのだから。
 ……そう思うと、そうやって立ち入りを制限された場所が、一体いくつあるだろう?
 まあ、考えたところで、腹が立つだけなので、これ以上は考えないことにするけれど。
「おい。お前たち」
 そんな眠気といらだちから不機嫌な莱牙に、さらに不機嫌に拍車をかけるように、そう声がかかった。
 この言葉を発した人物が、よくなかった。
 この声の持ち主は、嫌というほどよく知っている。
 何しろ、まさしく今、その思考に侵入していた男のものなのだから。
「あれ? 世凪。どうしたんだ?」
 なのに、この横にいる女史ときたら、莱牙のそのような憤りなど素知らぬふうに、さっさとその男の相手をはじめる。
 時折、この女史は、莱牙のことを気にかけてくれているのかと思えば、今のように雑な扱いをしてくれる。
 一体、この女史は何を考えているのだろうか?
 ちろりと、訴えるように紗霧羅を見る。
 すると紗霧羅は、さっさと莱牙を無視して、世凪へと歩み寄っていた。
 ……なんだか、切なすぎる。
 いつの間に、世凪もこちらの世界に戻ってきていたのか、いつもの指定席にぞんざいにふんぞり返っている。
 やはり、目に入れただけで、ムカつく。
「昨夜のあのことだが……」
 世凪は、ふいっと視線をはずし、ぶっきらぼうにそう言い捨てた。
 それを見て、紗霧羅はくすりと肩をすくめる。
 どんなにぶっきらぼうにふるまったって無駄だということに、この王子様は気づいていない。
「聞いてくると思っていたよ」
 指定席にふんぞりかえる世凪を見下ろし、紗霧羅は困ったように微笑んだ。
 ずっと柚巴のそばにつき、今日はこちらの世界に戻ってこないと思っていたのに……。
 やはり、それをおしてでも、世凪には、それが気がかりだったのだろう。
 たしかに、世凪ではないけれど、あんなことを言われては、気にならないはずがない。
 当の柚巴は、たいして気にしたふうはなかったけれど。
 しかし、それも本当かどうかはあやしい。
 柚巴という少女は、隠したがるから。
 抱く、その不安を。恐怖を。
「あの他に、あの男は、何か言っていなかったのか?」
 はずしていた視線をゆっくりと戻し、紗霧羅をとらえる。
 するどくとぎすまされたような、鋭利な眼差しが送られる。
 一瞬、紗霧羅の中を、冷たいものが駆け抜けた。
 一瞬、そのまま殺されるのではないかという錯覚に陥ってしまった。
 しかし、すぐに気をとりなおし、平静を装う。
 そのような世凪と紗霧羅のもとに、不機嫌な莱牙も歩み寄ってきた。
 すると、今度は、莱牙に、射抜くような世凪の視線が注がれる。
 莱牙もまた、それまでの不機嫌が、一瞬にして消え去ってしまった。
 思わず、一歩後ずさる。
 これまで、何度も、世凪の不機嫌に対面してきたけれど、これほどまで恐ろしいものを感じたことはなかった。
 それは、この暁が見せる幻なのか……。
 それとも、これまで隠してきた本性なのか……。
「言って……いたのだな」
 迫力に気おされ、言葉をつむぐことができなかった二人に、世凪がそうたたみかける。
 ごくりと、のどの奥がなる。
「……ああ。柚巴には、伝えるべきではないと思ってな……」
 手に冷たい汗をにぎり、莱牙がゆっくりと答える。
 莱牙もまた、平静を装ってはいるけれど、冷たくなったその手が、それを容赦なく否定する。
 何故、どうして……。
 この男が、こんなに恐ろしいと感じてしまうのか。
 つい先ほどまでは、これまでと変わらなかったのに……。
 恐ろしいなんて思いもしなかったのに……。
 何か得たいの知れない恐怖が、世凪を覆っている。
 それは、恐らく、柚巴に関係しているからだということだけしかわからない。
 この男は、もしかして、大切なもののためなら、本当に、世界でも壊してしまいかねないのではないか。
 冗談や、ひやかしなどではなく。
 そんな恐ろしさが、その目に宿っている。
「ならば……」
 ごくりと、もう一度のどがなる。
 今のこの男には、逆らえない何かがある。
 深いため息を一つして、莱牙は恐ろしさで高鳴る胸をおさえこむ。
 この得たいの知れない恐怖に、うち勝とうと。
「……実は……智神・タキーシャが消えた後、限夢界で奇妙なことが起こった」
 にぎるこぶしが、小刻みに震えている。
 それに、同じように震える、ひとまわり小さな手がよりそってきた。
「東の園の草花が、皆一斉に枯れた」
 その触れる手は、まるで、莱牙を勇気づけてくれているよう。
 しかし、その事実には、心痛めぬことはできない。
 ――東の園。
 一年中、花のたえることのない、その花園。
 そこは、華久夜お気に入りの場所。
 一時、その場所には寄りつこうともしないほど嫌っていたけれど、それでも最近では、また時折でかけるようになった。
 その場所の、あの惨状を、華久夜に見せることも、知らせることもできない。
 甘い考えかもしれないけれど、だけど、大切な妹の悲しむ顔は見たくないから。
「そして、そこには、薄布が残されていた。……今は、呪術部屋で保管している」
 そのことを知った妹が、どんなに衝撃を受けるか、悲しむかを想像してしまい、莱牙は苦しそうに顔をゆがめる。
 手のふるえが、少し増す。
 すると、触れていた手が、今度はきゅっとにぎりしめてきた。
 それで、少しはふるえがおさまったけれど……だけど、もとからあるふるえは、消えない。
 それでも、今感じるこのぬくもりが、とても大切なもののように思える。
 人のぬくもりが、こんなに落ち着けるものだとは、これまで知らなかった。
 ……いや。知っていた。
 知っていたけれど、柚巴以外のぬくもりが、こんなに優しいものだとは――
「薄布?」
 世凪の眉が、怪訝にゆがんだ。
 しかし、その問いに答えることはできない。
 ただ、首を左右にふることしか、莱牙にも紗霧羅にもできない。
 その布を、自らの目で見たわけでは当然ないけれど、特殊なものであったと聞くから、だから、二人の口からは言えない。
 それを、世凪に直接見せる方が、最良だと考える。
「だから、わたしたちは、これは捨て置けないと思い、人間界へ行ったのだよ」
 紗霧羅もまた、莱牙同様、世凪に感じる、この得たいの知れない恐怖と戦っているよう。
 一体、何がどうなってしまったのだろうか。
 普段は、平気でからかって遊んでいたこの男を、こんなにも恐ろしいと感じてしまうとは。
 そのすみれ色の目が……冷たく狂おしく燃えている。
 何かが、壊れていく音がする。
 莱牙と紗霧羅から、ゆっくりと世凪の視線がはずされていく。
「行くぞ」
 すっと立ち上がり、一言、そう冷たく言い放たれる。


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update:06/02/08