兆しの音色
(1)

「あ。世凪、おかえり」
 ――人間界。
 御使威邸に再びやってくると、微笑みながら、柚巴が、ぽすんと世凪の胸の中にとびこんできた。
 それは、ずっとずっと世凪がやってくることを待っていたような……待ち遠しくて仕方がなかったような抱きつき方だったので、世凪の顔も、自然ゆるむ。
 しかも、その言葉がいいではないか。
 「いらっしゃい」ではなく、「おかえり」。
 それはまるで、世凪が柚巴のもとへ帰って≠ュることが、当たり前だと言われているようで……。
 世凪が帰る場所は、もう柚巴だけだと言われているようで……。
 めろめろに、顔の筋肉がゆるんでしまう。
 そのまま、誰もいない二人だけの世界へさらってしまいたい衝動にかられてしまう。
「ねえ、どうしたの? まるまる一日、限夢界へ帰っていたのよね? 向こうで何かあったの?」
 ぎゅうっと世凪の胸に顔をおしつけながら、どこか淋しそうに柚巴がそう尋ねる。
 そんな仕草でそんなことを言われては、世凪の理性が、ぷっつんとはじけとんでしまう。
 しかし、ここで理性を失うわけにはいかない。
 何しろ、今、この場には、柚巴と世凪だけではなく、他にたくさんのお邪魔虫がいるのだから。
 ほーら。竜桐なんかは、ぎらぎらに目を輝かせ、世凪が少しでもおかしなことをすれば、そのまま地獄に落とす勢い。
 そして、何より、柚巴のその問いには、ちょっと……いや、かなり、答えにくい。
「別に……何も。親父の奴につかまって、今まではなしてもらえなかっただけだよ」
 だから、世凪は、とっさにそんな嘘をついてしまった。
 同時に、押し寄せてくる罪悪感。
 いくら、本当のことを隠しておかなければいけないからといって、柚巴に嘘をつくのは本意ではない。
 しかし、本当のことを言ったら、それはそれで身を切られるような思いをすることになるので……。
 世凪の中で、その二つの思いが葛藤する。喧嘩をする。
 そんな世凪を見るに見かねたのか、紗霧羅が助け船を出してきた。
「そんなことよりさ、柚巴。おみやげがあるんだよ。ほら、ベリーパイ。柚巴、好きだろう?」
 世凪に抱きつく柚巴に、ひょいっとパイをつめた箱を見せる。
 すると、少しだけ顔をずらし、柚巴はその箱をじいっと見つめはじめた。
 そして、次の瞬間には、さっさと世凪を放り出し、がしっと紗霧羅に抱きついてしまっていた。
 それを見て、がっくりと肩を落とすのは世凪で、いい気味と小さく笑うのは使い魔のみなさん。
 もちろん、紗霧羅は勝ち誇ったようにご満悦顔。
 柚巴は、世凪より、パイを選んでしまったらしい。
「お茶をいれて、みんなで食べよう」
 と、ほくほく顔で、そんなことを提案してきたのだから。


 柚巴の目の前には、ほわほわと白い湯気をあげるティーカップがある。
 そして、そのまわりにも、使い魔たち人数分のティーカップが並べられている。
 どうやら、柚巴が提案したとおりに、お茶の時間がはじまってしまったらしい。
 時刻は、午前十時。
 中庭の話し合いの後に、世凪たちは人間界へやってきたらしい。
「それで、どうして限夢界に?」
 不思議そうに少し首をかしげ、柚巴はまたその話題をむしかえす。
 当然、使い魔たちは皆一様に、ぎくりと体をふるわせた。
 まさか、柚巴に言えるはずがない。
 限夢界で異変が起こっているなど。
「まあ、それは、今はいいじゃないか。それより、柚巴。学校はどうなんだ?」
 こういう時に頼りになるのは、やっぱりこの人。紗霧羅姐さん。
 自分のパイにトッピングされているベリーを一つフォークにさし、柚巴へとさしだす。
 それに、そえられた生クリームを、たっぷりつけることも忘れずに。
 すると柚巴は、かしげた首をもとにもどし、おいしそうにそのベリーをぱくりとほおばってしまった。
 紗霧羅のフォークから。
 もちろん、その後は、満足げににっこりと微笑む。
「うーん? 別に、普通だよ? 明日でテストも終わりだし、あとは冬休みを待つだけだよ」
 もぐもぐと口を動かしながら、やっぱりそうやって首をかしげてみせる。
 そして、今度は、自分の分のパイに、ぷすっとフォークをさしこむ。
 さくりと、気持ちよく、一口分だけパイが切り分けられる。
 その仕草の一つ一つを、もちろん、横に陣取っている世凪が、じいっと見つめている。
 柚巴も、それに気づいたのか、切り分けたばかりのパイをフォークにさし、世凪を見つめ返した。
 かと思うと、おもむろに、そのパイをさしたフォークを、世凪の口元へとはこぶ。
「はい。ほしいのでしょう? あげるよ?」
 にこっと微笑み、また可愛らしく首をかしげる。
 瞬間、世凪の口が、だらしなくあけられたことは言うまでもない。
 そして、柚巴から、念願の「あーん」をしてもらい、ご満悦顔。
 もちろん、そんなバカップルのようないちゃつきっぷりを見せつけられてしまった使い魔のみなさんは、たまったものではない。
 それぞれに、二人から視線をそらし、お茶をすすったり、パイを口にはこんだりしている。
 どうにかこうにか、この場をやりすごそうと。
 結局は、この王子様は、いつもいつも、いいところをさらっていってくれる。
「……世凪。何かあるのなら、いつでもわたしに話してね?」
 フォークにパイを一口分だけのせ、それをぱくりと口に放り込む。
 もの言いたげに、じいっと世凪を見つめて。
「え……?」
 瞬間、嘘のつけない王子様は、たじろいでしまった。
 本当に、誤魔化しが下手。
 柚巴限定で。
 使い魔たちには、平気で嘘の一つや二つ……三つや四つついてしまえるのに、どうにも柚巴にだけは嘘をつけないらしい。
 誰の目にも、あからさまに、世凪が動揺していることがわかってしまう。
 そんな世凪を見て、誰もが「あちゃあ〜……」と、胸の内で頭を抱え込む。
 どうやら、柚巴は、難攻不落に見えて、実はいちばんもろいそこへ攻撃をしかけてきたらしい。
 現状では、世凪(そこ)以外は、落城できないから。
 ぼけらっとしていて、鈍そうにしていて、抜け目ない。
 世凪は、柚巴にだけは嘘がつけないと、柚巴はちゃんとわかっているのだから。
「それより、ほら。柚巴。あれだ、あれ……。あー……」
 それでも、世凪は、必死に誤魔化そうとする。
 もう無駄だということに、まだ気づきもせず。
 柚巴も、不満そうに世凪を見つめている。
 だから、余計に、世凪はあたふたと動揺してしまう。
 さらに誤魔化すように、慌ててティーカップに口をつけたものだから、「あちっ」と、舌をやけどまでしてしまって……。
 もう、ぼろぼろ。
 さすがに、そんな世凪を目の当たりにして、柚巴はあきらめたように、ふうっと細く息をはきだした。
「……もういいよ。わたしには、言えないことなのね」
 ぽつりとつぶやかれたその言葉に、その場がこおりついてしまった。
 やはり、誤魔化しが、通用していなかったらしい。
 まあ、世凪が墓穴をほってくれたおかげで、それまでの努力が塵になっていたけれど。すでに。
「別に……いいけれどね。そんなに知られたくないことなら」
 結局、その言葉とともに、このぎくしゃくしたお茶の時間は、おひらきになってしまった。
 多少、なげやりにも見える柚巴のその態度が、使い魔たちの胸を、余計しめつける。
 彼らは、誤魔化すことに精一杯になって、失念していたらしい。
 柚巴を、侮ってはいけなかったことを。
 これまでだって、何度も誤魔化そうとして、そして逆に失態を演じてきたではないか。
 気づかぬところで、柚巴は、勘がさえている。
 嬉しくないことに。


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update:06/03/29