口づけ狂想曲
(2)

「ええ。ちょうど、庚子さんから姫さまのことを聞いたのが、わたしでしたので」
 優しく語りかけ、柚巴を自分の胸へと抱き寄せる。
 そうやって、柚巴はさらにあたたかなぬくもりに包まれる。
 由岐耶のその自然な行動は、果たして、純粋に柚巴にぬくもりを与えるためのものだったのか……。
 それは、由岐耶にもわからない。
 気づけば、抱き寄せていたというだけ。
「そう……」
 少し残念そうに、だけど由岐耶のその言葉に一欠片の疑問も抱かず、柚巴は大人しく由岐耶の胸に身を預ける。
 柚巴は知っているから。
 これから瞬間移動をするために、由岐耶がそうしているのだと。
 ……いや。そう信じているにすぎない。
 だって、由岐耶の胸の内は、柚巴のそれと少し違っていたかもしれないから。
 胸に抱く柚巴が、由岐耶に対して寄せている、その絶対の安心。信頼。
 それが、由岐耶の胸をしめつける。
 こうやって抱いてしまったら、自分の胸に抱き寄せてしまったら、それがおさえきれないくらいあふれ出してくる。
 堰が崩れたように流れ出してくる。
 皮肉なことに、それだけは由岐耶にもわかってしまう。
 こういうことになることを恐れ、柚巴に触れないようにしていたのに……。
 だけど、触れてしまっていた。
 どうしてそうなったのか、由岐耶にもわからない。
 瞬間移動のためだけなら、こうやって抱き寄せる必要はない。
 手をにぎるだけで十分のはずだから。
 ……いや。やはり、わかる?
 淋しそうに、吹雪の景色を見つめる柚巴を見てしまったから。
 その頼りなげな華奢な肩を抱き寄せたいと思ってしまった。
 ずっとずっと蓋をして、自分自身にすらも嘘をつき誤魔化していたその思いが、一気にあふれ出してくる。
 あまりにも大きなその思いのために、あまりにもすごい勢いのために、かぶせていた蓋は、一気にはじけ飛んでしまった。
 本当は、もうずっと前から、こうやって柚巴を自分の胸の中におさめたかった。
 自分だけのものにして、逃したくなかった。
 世凪と仲睦まじくしているその姿、見るたびに、胸の奥がかきむしられるような苦しみを覚えていた。
 きしきし音を立て、痛んだ。
 抱き寄せてしまった今では、もうとめられない。
 自らの胸の中で、あどけなく見つめてくる柚巴。
 この愛くるしい姿を見ていると、もうとめられなくなる。
 その衝動が。
 胸に激痛がはしる。
 頭が真っ白になる。
 その瞬間、とうとう何かが切れてしまった。
 はりつめていた糸が、ぷつっと切れるように。
 渡っていたタイトロープが、一瞬にしてこっぱみじんにはじけとんでしまった。
 同時に、抱きしめる柚巴の頬に手をそえ、強引に引き寄せた。
 刹那、触れる。
 昇降口で、一体どれだけそうしていたのだろう。
 触れたそれは、少しぬれていて、少しつめたかった。
 だけど、とてもやわらかくて、気持ちがいい。
 泣きたいくらい、幸せを感じる。
 こみ上げてくる、この悦びは――
 変わらず、外では、雪が唸り声をあげている。
 誰もいない昇降口。
 たった二人きり。
 そこで、触れ合うそれは――
「ゆ、由岐耶さん!?」
 名残惜しくそっと顔をはなしていくと、目の前には、目を見開き、由岐耶を凝視する柚巴の顔があった。
 目には、にじむものがある。
 その涙の理由(わけ)は、一つ。
 瞬間、由岐耶に後悔という苦い感情が、怒濤のように押し寄せてきた。
 だけど、こうなった以上、もう後にひくことなんてできない。
 あふれだしたこの感情を、再びしまいこむなんてできない。
 だって、由岐耶にすら、つかむことができないのだから。
 かたちのないそれは、まるでたおれたバケツの水のように、広がっていく。
 パンドラの箱を開けてしまったようなこの瞬間。
 開けてはいけなかった。
 決して、開けてはいけない箱だった。
 この感情がつまった、心という名のそのパンドラの箱は。
 開けたが最後、そこには、希望……なんてそんなものではなく、崩壊しか残らないから。
 何かが……狂ってしまった。
 だけど、不思議と罪悪感だけは生まれない。
 だって、これが、由岐耶の抱く思いのすべてだから。
 この思いだけは、誰にも否定なんてさせない。
「姫さま……。わたしは、わたしはあなたを……」
 切なそうに、苦しそうに目を細め、頬を伝うそれにそっと手を触れる。
「柚巴からはなれろ!!」
 瞬間、そんな怒声で、由岐耶の言葉は遮られてしまった。
 そして、同時に、その胸の中から、抱いていたぬくもりも消えていた。
 見れば、すぐ目の前で、柚巴を抱いた世凪が、すさまじい形相で由岐耶をにらみつけている。
 めまいが由岐耶に襲ってくる。
「汚らわしいっ! 貴様、今何をした!!」
 ばさりとマントを翻し、その中にすっぽりと柚巴を包み込む。
 炎を上げ、我を失ったように憤る世凪を前にしても、由岐耶は不思議と落ち着いた心持ちだった。
 何故かはわからないけれど、こんな世凪を相手にしていても、まったく恐ろしいとは思えない。
 むしろ、どこかせいせいとした、清々しい気分になってしまう。
 すべてをはきだした今では。
 ただ、一つおしいことは、その思いを柚巴へ告げる前に、世凪に邪魔されたということだけ。
「……何って、見ての通りですよ」
 ふうっと細いため息をもらし、由岐耶は静かにそう答える。
 瞬間、世凪の気が、乱れる。
 ばりばりばり……と、怪奇音が響く。
 ポルターガイストのように。
 怒れるその気だけで、この辺りのもの全てを破壊してしまいかねない。
 当然、そんな世凪に抱かれる柚巴も、その腕の中でぴくりと反応してしまっていた。
 ……見ての通りということは……。
 あの瞬間を、もしかして、世凪に見られてしまっていた!?
 絶望が、柚巴に押し寄せてくる。
 それは、由岐耶にキスされた場面を世凪に見られたから、というその理由だけでは片づけられない絶望。
 どうして、何故、こんなことになってしまっているのか!?
 それが、柚巴の頭の中をぐるぐるまわって、脳が正常に動くことを邪魔してくれる。
 ……いや。考えることすべてを、拒否している?
「姫さまを愛しく思うのは、何もあなただけではない」
 きっと世凪をにらみつけ、由岐耶はそう言い切る。
 世凪の腕の中にいる柚巴は、それでさらに身を強張らせた。
 どうすればいいのか……。
 どうすることもできなくて……。
 いきなり告げられたその意味が、理解できない。
 何がどうなって、こんなことになってしまったのか……。
 つまりは、由岐耶は何を言いたいのだろうか?
 ……いや。言いたいことはわかる。わかっている。
 だけど、何かがそれを理解することを拒んでいる。
 認めたくないと。この現実を。
 ふるふるとふるえ続ける柚巴を、世凪はもう少しだけ強く抱きしめる。
 さすがの世凪も、ここまできっぱり言い切られては、次の言葉がでてこない。
 開き直っているのか。
 それとも、ただただ真面目なだけなのか……。
 ――いや。壊れてしまったのか?
 世凪にも、今の由岐耶をどう扱えばいいのかわからない。
 ただ、最も大切なことは、優先すべきは、間違いなく柚巴ということだけはわかる。
「……戯言はそれくらいにしておけ。今のは聞かなかったことにしてやるから、とっとと失せろ」
 ぎりっと唇をかみ、苦々しげに言い捨てる。
 その目は、今この場から即刻立ち去れと、由岐耶に告げている。
 よりにもよって、告白だけならまだしも――いや。それでも十分すぎるけれど――柚巴の唇を奪うなど。
 柚巴のそこに……そこだけに限らず、柚巴に触れていいのは、世凪ただ一人なのに。
 きっと柚巴は今、その突然襲ってきた現実に、どう対処すればいいのか困っているだろう。苦しんでいるだろう。
 こうやって抱いているだけでも、その苦しみがわかる。
 柚巴は、優しいから、優しすぎるから、自分に向けられる好意にどう対処すればいいのかわからない。
 好きなのは、間違いなく世凪だけだろう。
 しかし、だからといって、他の好きという感情を簡単に払いのけることもできない。
「……わかりました。では、わたしは先に帰っていますね」
 くるりと踵を返し、すうっと姿を消していく。
 景色に溶け込むその時……。
 つうっと、由岐耶の頬を、一筋の涙が伝っていた。
 後悔をのせて。
 告げてはいけなかったその思いを、告げてしまった。
 開けてはいけなかったその心の箱を、開けてしまった。
 ただ、それだけが、悔やまれてならない。
 柚巴を苦しめるとわかっていてなお、告げてしまったその思い……。
 どうして、いつの間に、こんなに愛しいと思うようになってしまっていたのか。
 おさえることさえかなわぬほどに。
 はじめは、見守るような愛情だった。
 それが次第に、激情へと変化してしまった。
 愛情という名の、激情へ。
 ……それがため、由岐耶から、とうとう旅立ってしまった。
 綿毛になり。その花は……。
 もう完全に、手のとどかないところへ行ってしまった。
 その優しい笑顔、二度と、由岐耶に向けられることはないだろう。
 それは、自らが招いてしまったこと。
 激情をおさえきれない、未熟な理性のために……。
 しかし、まだ、すべてが終わったわけではない。
 パンドラの箱には、崩壊とともに、やはり希望も残っていた――


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update:06/05/24