口づけ狂想曲
(3)

 由岐耶の気配がそこから完全に消えると、世凪はゆっくりとマントの拘束をといていった。
 その中からは、ふるふると体を小刻みに震えさえ、しゃくり上げる柚巴が出てきた。
 やっぱり……泣いていた。
 それは、わかっていた。
 柚巴にはどうすることもできなくて、ただ泣くことしかできない。
 それも、わかっている。
「柚巴……。ほら、顔をあげろ。大丈夫だから……」
 何が大丈夫なのか……。
 そう胸の内で自嘲しながら、世凪は優しく柚巴に語りかける。
 そう。一体、何が大丈夫というのだろう。
 だけど、世凪にもそれだけしか言えない。
 大丈夫。
 ただ、その言葉しか思い浮かばない。
 もっと気のきいたことの一つや二つ言ってやることができれば、少しは柚巴の心を楽にしてやれるのだろうけれど……。
 自分の不甲斐なさに、嫌気がさす。
 涙でぐしゃぐしゃになったその顔を、ふわりと包み込んでやる。
 いつもなら、それで柚巴は泣きやんでくれるけれど……。
 やっぱり、今回はそうもいかないらしい。
 ただ、必死に声を押し殺し、泣き続ける。
 世凪の顔が、さらに苦痛にゆがむ。
 それと同時に、泣きじゃくる柚巴の顔に、自らのそれを重ねていた。
 まるで何かの儀式のように、そっと震えるその唇に重ねる。
 すると、一瞬びくんと柚巴の体がふるえ、けれど、そのまま、身をゆだねるように体重を預けてくる。
 世凪は、その腕をはなすことも、重ねるそこからはなすこともできなくて……ずっと触れ合い続ける。
 長い長い時間。
 ガラス扉の向こうでは、相変わらず白い世界をつくりだしている。
「……世凪……。どうしよう……」
 そうして、ぎゅっと世凪の胸に顔をおしつけながら、柚巴が苦しそうにつぶやいた。
「大丈夫だ。柚巴が気にすることではない」
 やっぱり、世凪にはそれだけしか言うことができなかった。
 何故、どうして、こんなことになってしまったのだろうか。
 たしかに、世凪は気づいていた。知っていた。
 由岐耶が柚巴へ抱くその思い。
 しかし、実際に、由岐耶が行動に出るなんて思っていなかった。
 その頑強な精神力と理性で、それをおしとどめると思っていた。
 すべては、柚巴のために。
 あの男だって、柚巴を苦しめることなんて望んでいないはずだから。
 なのに、それすらも崩壊してしまうほど、由岐耶は追い込まれてしまっていたのだろうか。
 世凪の幸せの陰で。
 柚巴へ寄せるその思いのために。
 これまで築き上げてきたすべてのものが、せせら笑うように崩れ落ちていく。
「お前は、気にせず、これまで通り、俺だけを見ていればいい」
 そうやって、世凪はまた柚巴に口づけを落としていく。
 柚巴もそれにうなずくように、世凪の口づけにこたえる。
 柚巴が告げるそれは、由岐耶への思い。
 由岐耶には、決してこたえることができないという、その思い。
 思いにはこたえられないけれど、だけど、とても大切な存在。
 だから、こんなに悩んで、こんなに苦しんでしまう。
 簡単にあしらえる相手ではないから。
「あれ……? 柚巴さん?」
 ゆっくりと、二人の顔がはなれていった時、ふいに背後からそのような声がかかった。
 慌てて世凪を引きはなし、そちらの方を見てみると、そこには首をかしげてこちらを見ている甲斐の姿があった。
 瞬間、ぼんっと柚巴は顔から火を吹いた。
 何しろ、このタイミングで声をかけられたということは、間違いなく、世凪とのキスを見られてしまったということになるのだから。
 泣いていたって、苦しんでいたって、恥ずかしいものは恥ずかしい。
 しかし、それにもかかわらず、何故だか甲斐は平然としている。
「まだ帰っていなかったのですか? たしか、松原さんと教室を出たのは、吹雪く前でしたよね?」
 きょろきょろと辺りを見まわし、甲斐はまた首をかしげる。
 世凪の背に隠れるようにして、柚巴はくいっと目元をぬぐう。
 泣いていたことも、そしてキスを見られたことも、やっぱり恥ずかしくて。
「う、うん。庚子ちゃんには先に帰ってもらったの。……か、甲斐くんはどうして?」
 マントにぎゅうっと顔をおしつけて、目だけをちらっとのぞかせる。
「僕ですか? 僕は委員会があって……。ところで、その方はどなたですか?」
 そのような柚巴を気にしたふうもなく、甲斐はたんたんと続けていく。
 こんなところに、赤髪黒マントなんていかにも怪しげな男がいて、その男と柚巴が一緒にいても、まったく訝しむ様子はない。
 それが、逆に不自然に思える。
「え? あ、あの……」
 世凪と甲斐を交互に見て、柚巴はあたふたと慌て出してしまった。
 どなたかと聞かれても、柚巴にはどう答えればいいのかわからない。
 まさか、限夢人です、と答えるわけにはいかないし、だからといって、こんなキテレツな格好をした男が、普通の人間では説明がつかないし……。
 じゃあ、それを省いて、友達? 恋人?
 だけど、それのどちらとも違うようで……。
 素直に、世凪です、とでも答える?
 だけどやっぱり、それも違うようで……。
 柚巴はとうとう、ぐるぐると頭をまわしてしまった。
 そんな柚巴に気づき、世凪はけろりと言い切る。
「柚巴の婚約者だ」
 あっけらかんと言い放ち、ぐいっと自分の背に隠れる柚巴を抱き寄せる。
「ちょ、ちょっと、世凪!!」
 いきなりのそんな爆弾発言に、柚巴は世凪に非難の眼差しを向ける。
 もちろん、それは間違っていない。
 だけど、間違っていないからといって、そう簡単に言い切られても困る。
 柚巴はまだ高校生で、そしてまわりには、そういう人がいるなんて一言も言っていないのだから。
 まさか、将来を約束し合ったそんな人がいるなんて……。
 それよりもなによりも、嬉し恥ずかしい。
「事実だろう?」
 しかし、世凪は、柚巴のそんな困惑なんてかまわず、あくまでさらりと言い切る。
 たしかに、それも間違ってはいない。間違ってはいないけれど……。
 だからって、やっぱり、別にそれをあえて言う必要もないような……。
「だ、だからって……」
 頬を真っ赤に染め、ぎゅっと世凪の胸に顔を押しつける。
 恥ずかしくて、もうまともに顔をあげてなんていられない。
 この王子様は、常々恥ずかしいことを平気でしてのけると思っていたけれど、まさか、こんなにも普通じゃなかったとは。
 今さらだけれど、そう思ってしまう。
 だけど、だからって、それで世凪を嫌いになったりは絶対にないのだけれど。
 どうして、世凪というこの王子様は、恥ずかしくて嬉しいことを、簡単に言ってくれるのだろうか。
 それは、やっぱり、王子様だから? これでも。
 王子様というものは、元来、気障で歯の浮くような台詞を、ぽんぽんと言ってのけられる。
 柚巴の中には、そんな偏見があったかもしれない。
 だけど、世凪は、そんな偏見の王子様とは違ったはず。
 俺様で傲慢で……。
 ――いや。やっぱり、偏見通りの王子様?
 ぐるぐるぐるぐる考えてばかりいるので、柚巴はとうとう、自分が今何を考えているのかすらわからなくなってしまった。
 一体、今、何を考えればよかったのだろう?
 世凪が、王子様とかそういうことではなく、今はもっと違ったことを考えなければならなかったはず……?
 すいっと世凪の胸から顔をはなしてきて、その思いのまま世凪を見上げる。
 きょとんと。
 すると、それを見た世凪が、どこか困ったように肩をすくめた。
「へー。ふーん。そうなのですか……。まあ、いいですけれどね。――世凪……さんですか? 僕は、甲斐流宇介(かいりゅうすけ)です。どうぞ、以後よろしくお願いしますね」
 そのような二人の様子を見て、甲斐は皮肉るように微笑を浮かべる。
 そして、すっと世凪に左手を差し出してきた。
 それはすなわち……宣戦布告?
 この場合。
 右は平和……友好の握手だけれど……。
 左の握手は――
 そんな些細な行動にこめられた嫌味は、世凪にもちゃんと通じてしまっているらしい。
「ああ!?」
 ぎろりと、甲斐をにらみつける。
 そして、ふぁさりとマントを翻し、やっぱりその中に柚巴をおさめてしまう。
 もうこれ以上、自分以外の者の目に、柚巴のその姿を映していたくなくて。
 そのような独占欲丸出しの世凪を見て、甲斐はどこか馬鹿にしたように笑みを浮かべる。
「……それと、ああいうことをする時は、まわりに人がいないことを確認してからにした方がいいですよ。特に、学校では。柚巴さんのためにも」
 それだけを言って、世凪たちの横をすっと通り、ガラス扉まで歩いていく。
 そこでもう一度、どこか意味深長に浅く微笑み、吹雪の中へと出て行った。
 ためらいの一つも見せず。
「何だ? あいつ……」
 そのような甲斐を見送り、世凪は怪訝に顔をゆがめる。
 まったくもって、あの男の言いたいこと、したいことがわからない。
 やはり、外は変わらず、吹雪いたまま。
 まるで全てをのみこむように。
 白い魔物が、手招きするように荒れ狂っている。


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update:06/05/31