禁断の願い
(2)

 由岐耶の去ったその部屋に、ゆっくりと人影が現れた。
 そして、その人影は、窓際に立ち、吹雪く外の景色を見つめる男に歩み寄っていく。
「マスター。よろしいのですか?」
 どこか苦しげに、そして不安げに、そう問いかける。
 ――聞いてしまった。
 先ほど、由岐耶が弦樋に伝えに来たそのことを。
 恐らく、由岐耶は、その人影が聞いていることを知っていてなお、あのようなことを告げたのだろう。
 あの勘の鋭い由岐耶が、いくら気配を消しているからといって、気づかないはずがない。
 それが、由岐耶の決意のあらわれだから。
 それは、禁。
 決して、許されない禁。
 もし、その禁を犯せば、大きな代償を払わねばならない。
 一度人のぬくもりを知ってしまった使い魔にとっては、抱えきれぬ苦しみを運んでくるだろう。
 だから、それを知っていて、目の前にいるこの主は、ああ言ったのだろう。
 決意したそれを告げようとした由岐耶を制し、自らが先にその言葉を吐き出した。
 それは、一体、どのような思いで……?
 たしかに由岐耶は、弦樋を慕って、使い魔の契約をしたわけではない。
 もとは、対抗意識といおうか、憎しみといおうか……そういうものからだった。
 慕う竜桐が使い魔になったから、だから由岐耶も半ば自棄気味に契約した。
 だけど、ある時をさかいに、由岐耶の心はそうではなくなった。
 心から、この人間を守っていこう、そう変化したはずなのに……。
 ――いや。今思えば、この人間ではなく、あの人を……?
 なのに、どうして、今頃になって、あのようなことを?
 そして、どうして、この主は、それを許した?
 しかも、許しただけではない。
 それは裏切り行為ともいえるのに、そのようなことをした由岐耶を、まるで助けるようだった。
 彼の心を救おうとしている……?
「柚巴を……あの子を守ってくれるのなら、かまわない」
 窓の外を眺めるその顔は、妙におだやかで、優しい。
 その言葉通りに。
 大切な娘を守ってくれるなら、使い魔の一人を失ってもかまわない。
 むしろ、そうした方がよいだろう。
 由岐耶が告げようとしたそれは、まさしくそれだったから。
 言葉にしなくても、弦樋にはわかってしまった。
 由岐耶が何を望み、告げたかったのか。
 何しろ、弦樋もまた、心のどこかでは、それを望んでいたはずだから。
 彼らが、思うままに望みをかなえることを。
「竜桐。わたしはね、みんなが幸せであれば、それでいいのだよ」
 それから、ここにはいない誰かに語りかけるように、つぶやく。
「――なあ? 姫野(ひめの)……」
 竜桐は、複雑に微笑むことしかできなかった。
 今、主がつぶやいたその名は、もうこの世にはいない、彼の最愛の妻の名だったから。
 白い世界を映すその窓ガラスは、同時に父親の顔をした男も映し出す。

 誰もが、その思いのままに。
 最良だと思うままに。
 最も望むままに。
 自由に行動して欲しい。
 思いだけで、誰かをしばりつけてなどいたくないから。
 幸せを、奪いたくないから。
 由岐耶が告げようとしたそれも、痛いほどによくわかっていた。
 だから、告げる前に自らが口にした。
 本当は、由岐耶はそれを望んではいないとわかっているから。
 いや、たしかにそれを望んでいるけれど、だけど本当に望んでいることは、もっと別のこと。

「使い魔の契約を解除してほしい」

 それは、禁。
 禁じられていること。
 決して触れてはならない禁。
 その禁を犯しては、由岐耶は二度と使い魔の契約を結ぶことができない。
 それは、苦渋の選択だっただろう。
 そばで、すぐそばで、守ることができないのならば……。
 同じ見ていられなくなるなら、もう辛いから、それならば、見ることがかなわないところへ行ってしまえばいい。
 二度と、人間界へ渡ってこられなくなればいい。
 由岐耶は、また、自棄を起こしてしまっていたらしい。
 弦樋はそれに気づいたから、だから自ら告げた。
「使い魔の契約を解除しよう。わたしには、もうお前は必要ないのだよ」
 冷たいその言葉を投げかけた。
 しかし、由岐耶にとっては、救いの言葉に違いなかった。
 自らの口からではなく、弦樋の口からそれを告げてもらえたのだから。
 それはすなわち、希望を与えられたということ。
 本当の望みが、思いが、昇華される。
 どんなに感謝したことだろう。
 叫びたいほどに、心から感謝を捧げる。
 どんなに長い年月を経ても、この瞬間の感謝を忘れることはないだろう。
 動機はあのようなものだったけれど、だけど心から仕えようと思ったその時には、もうその思いはどこかへ飛んでしまっていた。
 それは、間違いではない。嘘ではない。
 由岐耶は、仕える相手を間違ってはいなかった。
 すばらしい主人に仕えていた。
 どこを探しても、こんなにすばらしい主人はいないだろう。
 ……たった一人をのぞいて……は。
「だから、由岐耶の思いのままにしなさい」
 そう言って、伝う涙をぬぐってくれた。
 ふるえる肩を、そっとなでてくれた。
 不覚にも、声を殺し泣いてしまっていた。
 どうして、この主人は……いや、主人だけでなく、由岐耶の大切な人間たちは、こんなに優しいのだろう。
 だって、由岐耶の本当の願いは、契約解除ではなく……。
 柚巴の使い魔になりたい。
 それなのだから。
 ずっとずっとそばで、変わりなく、柚巴を守っていきたい。
 自らの主ではなく、小さくて頼りなげなその少女を。
 生まれた時から見守ってきた、その少女を。
 その思いは、時がたつにつれ大きくなってきて……。
 そしてついには、あふれだしてしまった。
 おさえきれなくなってしまった。
 大切な花が生れ落ちた瞬間に、その願いが芽吹いていたのかもしれない。
 だから、契約解除をして、もうそれがかなわぬようにしようと思った。
 二度と、その目に入らぬところへ行こうと……。
 そうする他、この衝動はおさえられないから。
 いや。そうしても、このあふれる思いは、とめられないだろう。
 気づけば、その少女は、この世の何よりも、大切なものになっていたのだから。
 それ以外は、何も惜しくはない。
 何を犠牲にしても、守り抜きたい少女――


 由岐耶は、もう、弦樋の使い魔ではない。


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update:06/06/22