最後の審判
(2)

「多紀……」
 すっとぬきとられた衣を握っていた手を、もう一方の手でぎゅっと握り締め、庚子は智神・タキーシャを見つめてくる。
 その目から、あふれるものがある。
 智神・タキーシャの記憶では、決して人前で……多紀≠フ前以外で泣いたことのなかった庚子が、今、人目もはばからず、泣いている。
 ならば、その思いは、本物だろう。
 切なげに、するっと庚子から視線をそらしていく。
 今、庚子に抱いてしまった、その思いをふりはらうように。
「さっきの答えだけれど、命とかそういうものは大丈夫。ただ……」
 変わらず、険しい顔でにらみつけてくる世凪に、智神・タキーシャはそう告げる。
 その顔には、いつもの憎らしい不敵な表情はない。
 ひょうひょうとした姿もない。
 ……それは、智神・タキーシャが真剣だというその証。
「ただ、何だ!?」
 またしても、世凪に胸倉をつかまれてしまった。
 もう、この王子の怒りは、誰にもとめることはできないだろう。
 王子自身にも。
 たった一人、この世で、王子の暴走をとめられるその少女が、いないのだから……。
「かなり危ない状況にはあるかな。ケイカ・ユリウスの狙いは、柚巴ちゃん自身だから。だから、危険だといったのに、君たちってば役立たずなのだから」
「うるさい!」
 胸倉をつかませたまま、すっと視線をそらしそう言った。
 誰に気づかれることなく、苦しげに目を伏せて。
 すると、間髪をいれず、世凪の怒声が響く。
 ――本当、役立たずなのだから。
 この使い魔たちも、そして……智神・タキーシャも。
 柚巴が危ないとわかっていても、直接守ることができない、この身が口惜しい。
 加護を与えているといっても、所詮は、この程度しかできない。
 必要以上の手助けをしてはいけない。
 それは、まわりだした歯車の動きをとめることになりかねないから。
 すべては、柚巴のために。
 智神・タキーシャもまた、柚巴のために動いている歯車にすぎない。
 いつもいつも、柚巴を助けられるわけではない。
 それは、本当のこと。
 いくら加護を与えていたって、できないこともある。
 柚巴は、運命の子だから。
 神に選ばれし人の子。
 柚巴に、限夢界の運命がかかっている。
 それは、嘘じゃない。
 すべて、本当のこと。
 手を貸すことはできるけれど、指示を与えることはできない。
 直接守ることすらも。
 ただ、見守るだけ。
 直接守れるというその特権を持っているのは、目の前にいるこの使い魔たちだけ。
 それを、何度悔しく思っただろう。
 下手に、人間だった頃の記憶が残っているだけに、どんなに――
「多紀! とにかく、柚巴を取り戻せ」
 そんな内なる苦しみに、この王子様はまったく気づいてくれない。
 気づくのは、いつも、柚巴の苦しみだけ。
 ……だけど、それでいい。それがいい。
 乱暴に胸倉をつかむ手をふりはらい、そんなことを言ってくる。
「はいはい。まったく、人……神使いが荒いよね。この王子様は」
 それでもやはり、いつものひょうひょうとした態度に戻ってしまい……。
 あえてそのように振る舞わなければならなくて。
 真実を悟られてはいけないから。
 全ては、ある結末のためだけに進められていく。
 肩をすくめ、わざと怒りをあおるようなことを言ってみる。素振りをしてみる。
 そして、憤る世凪にさっさと背を向け、景色の中に姿をとかしていこうとした時だった。
「待って、多紀!」
 智神・タキーシャを呼び止める声が上がった。
 それは、耳に心地よい、そして聞きなれた声。
 だって、それは、多紀≠フおさななじみの声なのだから。
 振り向かずとも、わかる。
 すっと視線だけを移動させる。
 すると、目のはしに、飛び込んできてしまった。
 苦しそうに、切なそうに、見つめてくる庚子のその姿が。
 まるで、この時を逃しては、もう後はないとでも言いたげに。
「多紀……。わたしは、あんたのことを……」
「庚子。それ以上は、言ってはいけないよ」
 最後まで言わせることなく、智神・タキーシャは、そうして庚子の言葉をさえぎった。
 それ以上言わせてはいけないから。
 それ以上言わせては、本来あるべきかたちが崩れてしまう。
 それ以上聞いてしまっては、自らの心をおさえることができなくなる。
 人間だった頃の記憶が、あるだけに。
 なんて皮肉なのだろう。
 なんて残酷なのだろう。
 神にもどった今頃、人間だった頃の記憶が、こんなにも智神・タキーシャを苦しめるなんて。
「多紀……」
 ほら、そのように、悲しげに、庚子が多紀≠見つめてくるから。
 大切な大切な、おさななじみ……。
 ――だけど、それは、人間だった頃の記憶。
 神に戻った今に、ひきずってはならない。
 その頃の思いをふりはらうように、一度小さく首を横にふる。
 そして、手の中に、あわい光の玉をつくりだす。
「そういえば、君たちに、おみやげがあったんだ」
 あっけらかんとそう言い放ち、光の消えかかった手の中の玉を、世凪へ向けて放り投げる。
 すると、世凪は、見事にそれを受け取ってくれた。
 しかし、即座に地面にたたきつけ、踏みつぶしてくれる。
 頬をひくつかせ。目をつり上げて。
 世凪の足の下では、真っ黒いふわふわもこもこ球体が、ぎゃあぎゃあとわめき声を上げている。
 それを見届け、智神・タキーシャは、景色の中へ姿をとかしていく。
 胸に苦い思いを抱きつつ――

 世凪は、身のうちに狂気を宿している。
 破壊という名の狂気を。
 柚巴を失うと、それが爆発する。
 暴走をはじめる。
 そして、壊れる。
 世界が――

 それは、すべてを知る者たちが憂えている、真実(ほんとう)……。


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update:06/08/23