その名は、世を凪ぐ者
(1)

 今から、六五〇年ほど前だっただろうか。
 その男が、まだ幼かったその頃。
 瀕死の彼の前に、一人の天上人が舞い降りてきた。
 その姿は、彼の目には、まるで穢れない女神のように見えた。
「……大丈夫。何も心配いらないわ」
 そして、その天上人はそうつぶやくと、もうおぼろになった彼の視界から、その姿をすっと消した。
 同時に、ぼやけていたその視界は、またはっきりとした景色を取り戻した。
 瞬間、彼は悟った。悟ってしまった。
 女神に見えたその女性は、魂を彼に分け与えてくれた。
 分けてくれたのではなく、魂そのものを吹き込んでくれた。
 自らを犠牲にして、幼い命を救ってくれた。
 ――胸に、優しいぬくもりが広がっていく。
 まるで、母の胸に抱かれているような、そのような慈悲深いぬくもり。
 同時に、なんとなくわかったような気がした。
 あの女神のような女性は、恐らく――

 その時から、その男は、限夢人と天上人、二つの魂を背負って生きている。
 今なら、よくわかる。
 あの時、彼に魂を分けてくれた名も知らぬ天上人は、その後、天へ昇り、そして新たな生を得たことだろうと。
 きっとあの時、あの天上人の未練は、成就したのだろう。
 ……あの天上人が、一体、何をそれほど強く思っていたのかは、やはり彼には永劫にわからないだろうけれど。
 ――いや。わかる。その正体に気づいてしまったから。


 見渡す限り、一面の花畑。
 空はかすみがかかったようにぼやけている。
 すべてがおぼろなその世界に、ただ花々だけが、凛と咲き誇っている。
 まるで、幻想の世界。
 その世界の中心に、白亜にそびえる建物。
 まるで、月世界の宮殿のよう。
 おとぎ話の中に登場する、その宮殿。
 いつかこの宮殿に、かぐや姫が帰ってくるのだろうか?
 そこは、ケイカ・ユリウスの住まい。
 先ほど、さりげなくそう告げられた。
 その白亜の床に、座る柚巴の姿がうかがえる。
 ぼんやりと頼りなげな淡い光に包まれて。
 役立たずの鏡のように、おぼろに柚巴の姿を映している。
 すべてをもやの中へと溶かしていきそう。
 まどろみの世界。
「甲斐くん。どういうこと? どうしてこんなことをするの?」
 そのような柚巴の前に、すらっと立つ甲斐流宇介。
 ……いや。それは、違う。
 その姿は、まるでこの世界に溶け込むように、不思議なものだから。
 透ける比礼をまとい、かすみのようにそこにたたずんでいる。
 ただまっすぐに、床に座る柚巴を見下ろして。
「柚巴。違うよ。僕は、甲斐流宇介じゃない」
 しゅすっと衣擦れの音をさせ、甲斐と呼ぶそのおぼろな男が腰をおろしてくる。
 ちょうど、柚巴の視線の高さにあわせるように。
 そして、その無垢で汚れない瞳を見つめてくる。
 まるで、その瞳の奥を探るように。
 すべてを見透かすように。
「え……? でも、甲斐くんでしょう? ……たしかに、おかしな格好はしているけれど」
 ふわりと寄せてくる手をすいっとかわし、柚巴はまっすぐに男を見つめる。
 かわされた手が、淋しげにそこでうなだれる。
 ――そう。たしかに、甲斐流宇介。
 柚巴には、そうとしか見えない。
「君には、まだ人間の甲斐流宇介に見えるの? こんなに、姿かたちが違うのに」
 困ったように、眉尻をさげてみせる。
 そして、寄せた手を、残念そうに戻してくる。
 姿かたちはまったく違う。
 だけど、甲斐流宇介に見える。
 だって、だって……。
「だって……感じる気配は、同じだもの」
 感じる気配は、甲斐流宇介のまま。
 たしかに姿かたちは違うけれど、その気配だけは、まがうかたなく、甲斐流宇介のもの。
「くすくすくす……。さすがだね。やはり、君は天上界にふさわしいよ」
 柚巴のその言葉をきき、男は嬉しそうに笑い声をにじませる。
 そしてそのまま、一気に柚巴を自分の胸の中へ引き寄せる。
 胸の中でたじろぐ柚巴になんてかまわず、そのぬくもりをかみしめるように。
 これが、ずっと欲していたぬくもり。
 ずっと触れたかったぬくもり。
 もう触れられないと思っていたから。
 それが、今、胸の内にある。
 ずっとずっと、こうして、触れることを望んできた。
 もう、ずっと以前から――
 このためだけに、男は動いていた。
「天上界?」
「そう。ここが、天上界。……理想郷」
 胸の中で戸惑う柚巴をさらに抱きしめ、男は耳元でそっとささやく。
 ふわりと、甘い吐息が柚巴の耳を侵す。
「僕の名は、ケイカ・ユリウス」
「……!?」
 瞬間、柚巴の体が大きく反応していた。
 何しろ、その名は、耳にしたばかりの名。
 柚巴に、片づけることのできない課題を残し、消えていった男の名。
 ともに恐怖を残し――
 姿かたちは同じだと気づいていた。
 だけど、気配は違った。
 だから……。
 だけど、今この瞬間、その気配も一致する。
 たしかに、この男は、甲斐流宇介ではなく、ケイカ・ユリウス。
 これまで、無意識に、その事実を認めようとしていなかっただけ?
「どうして、今さら驚くかな? ちゃんと言っていたでしょう。すぐにむかえにくると。あの時と同じなのに……」
 自嘲じみた笑みを浮かべ、そっと頬に唇を寄せる。
 やはり、柚巴の体は、あからさまに動揺の意を唱える。
 それに、胸に痛みを感じるけれど、今はそんなことになどかまっていられない。
 そのまま、冷たい床へと寝かせていく。
 身動きがとれないように、その両手をおさえこみ。
 自らの体重をのせ、柚巴の体の動きを封じる。
 逃げられないように。
 柚巴のやわらかな髪が、床に流れる。
 そこから香る、男の移り香。
 それに、思わず顔をゆがめてしまう。
 愛しくて、愛しくて、仕方がない。
 このあどけない少女が。
 ずっと、胸の中にしまいこんでおきたい。
 幼い頃から、ずっと見ていた。
 まだ、柚巴の母親が生きていた頃から。ずっと。
 だって、ケイカ・ユリウスは――
「姫野……。彼女のことも、僕は知っているよ」
「え……?」
 床に寝かされ、身動きができなくなった柚巴は、そのままでそう驚きの声をあげていた。
 目を見開き、複雑な表情をたたえ、男を見つめる。
 何故、この男が、死んだ柚巴の母の名を知っているのか――
 その疑問とともに、柚巴はもう一つの戸惑いも感じていた。
 何故なら、今こうして、ケイカ・ユリウスに抱かれていても、不思議と恐怖は感じない。
 それどころか、むしろ……心地よさのようなものを感じている。
 優しく包み込む、その胸に。腕に。
 絶対的な安心感。
 まるで、母に抱くようなそれ。
 それが、不思議でならない。
 ――胸が、あまい切なさに締めつけられる。


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update:06/10/04